第359話 戻りつつある環境
――生い茂った葉を潜り抜け、再び走る。
標的はまだ遠い。
目の前にある緑を遠慮なく押しのけ、森の中を駆け抜けていった。
数歩分距離を見誤るだけでも幹に頭をぶつけてしまいそうな、間隔の狭さ。
後ろに飛ぶように消えていく木々はまるで壁のように連なる。
その時だけ、曲がりくねった道が森の中に姿を見せた。
毛先が何度木の表面に触れたかも分からない。
幹や枝に手が触れる回数も自然と増える。
衝突してしまうことのないように。
一方で、それを利用し更に勢いづけるために。
「ち……」
少しずつ、着実に距離は縮まっていく。
振り替えることなくそれを悟った魔物も、ペースを上げていった。
吹き付ける風にあおられる鞘。
それを左手で抑えつつ、もう一歩。
収められた剣の柄を、右手で握る。
「――っ!」
引き抜いた剣を、そのまま振り切った。
柄に手をかけたその瞬間に完成した、魔物と俺とを結んだ一本線。
それをなぞって、森の中を突き抜けた。
速度は完全にこちらが上。
接近を悟った魔物がこちらを振り返るより早く、その身体を二つに切り裂く。
そこから二対に分裂するようなこともなく――魔物はそのまま、姿を消した。
残された魔結晶はやや大振ぶり。
どことなく淀んだ紫色が毒々しく思えて仕方がない。
「これだけ時間が経てば自然と魔物も増える、か……」
逆に、半年もしない内にここまで増えたとも言う。
もし今と同じペースで増え続けてしまったら、件の大襲来に匹敵する規模になってしまうだろう。
さすがにそんなことになるとは思えない。
(……この回復能力じゃあるまいし)
そこまで考えて、辞めた。
いくら自分のこととはいえ笑えない。
今こうしてここに居られるからいいものの、さすがにない。
「いくらなんでも、違うだろうな……。きっと」
ただ、本来あるべき姿に強引に近づけようとしているのだろう。
もし増加の勢いが止まらないのなら、その時はその時だ。
「ま、待ってくださいよ~……」
余計な方向にばかりよく進む思考に待ったをかけたのは、ユッカの声だった。
少しばかり遠くから聞こえてくる、力のない声。
走って追い駆けてきているのなら無理もない。
「わっ……!?」
これ以上走らせるのも悪いと思って引き返し――結果、かえってユッカを驚かせることになってしまった。
「い、いきなり出てこないでくださいよっ。ヘレンさんじゃないんですから!」
「すまない。ただ……さすがにそのたとえはどうかと思う」
「だってほんとのことじゃないですか」
そこまで言うか。気配を隠そうとしたわけでもないのに。
少しばかり急ぎはしたが、それはそれ。
あの怪物を仕留める時のような大ジャンプも何もしていない。
「あのまま待っていてくれてよかったのに。荷物だって軽くないだろう?」
「でもキリハさん、自分の分はそのまま持って走りましたよね?」
「脱ぎ捨てる手間が惜しくて」
「そんなの背負ってる方が遅くなると思うんですけど」
いざという時には鈍器としても使える――とまでは、言わないにしても。
荷物を背負いながらの戦闘が珍しいというわけでもない。
この世界においては猶更だ。
むしろ先日の防衛線のような状況の方が稀。
あの時でさえ、最低限の荷物を小ぶりのカバンに纏めている冒険者も多かった。
「このくらいは別に。ぶつけなければいいだけの話だ。距離感に気を付ける必要があることに変わりはない」
「でも、ない方がもっと楽ですよね?」
「……。……それは確かに」
「じゃあやっぱり置いて行けばよかったじゃないですか!?」
今回の依頼は、トレスとは逆の方向へのおつかい。
特別なものが必要になるわけではないが、問題は移動距離。
片道だけでもトレスまでの往復を上回る。
「まあまあ、ユッカに余計な手間をかけてもらわずに済んだと思えば。こいつまで持たせるのはさすがに悪い」
「まあ……それはそうかもしれませんけど」
長距離高速飛行の許可が下りる目途もない。
そんな状況で余計な欲を出してしまったこともあって、いつもより重め。
ものはついでだと思ったのがそもそもの間違いだった。
「そういうユッカこそ、随分速かったじゃないか。荷物を背負いながらだったのに」
「……速いんですか? これ」
「ああ、勿論。俺が保証する。自信を持っていい」
背中にあるものの重量を感じさせないというのは、ユッカも同じ。
それこそ、障害物の多い環境。
後から追いかけざるを得なかった事を思えば、怪物が逃げた距離の半分を移動できるだけでも十分。
「……なんかキリハさん、誤魔化そうとしてないですか?」
「まさか。そんなくだらないことを考えていればすぐに分かるだろう」
「リィルやヘレンさんみたいなことできるわけないじゃないですかっ」
「そんな、わざわざ比較しなくても」
そしておそらく、速度に関してもそれは同じ。
言葉にはしていなかったが、それらしい雰囲気は感じられた。
俺が魔物を追いかけていた時のことを思い出しているんだろう。
茂みの向こうから炎の魔法を投げつけて来た二足歩行の魔物。
防がれたと知るや否や一目散に逃げだしたあの魔物。
「比べてなんかないですよ。……あの二人みたいに分かるようになっても、それはちょっと……」
「その先は言わないように。少なくとも本人には」
「言いませんよ!?」
ユッカの場合、特に機動力を重視している筈。
背中に荷物があるというだけでも、理想の状態から離れてしまう。
その上でこれだ。
魔法を使っていようといなかろうと、かなりのもの。
「そ、そんなことより! もう魔物はいないんですか? いるなら気を付けないと」
「また急に思い出したように」
「違いますっ!」
……そういうことにしておこう。今のところは。
こんなことばかり追求しても、別にいいことがあるわけじゃない。
注意を逸らすべきでないというのは本当のこと。
「周りに魔物はいないから安心していい。《小用鳥》からも、今は何も」
「また使ってるんですね。その魔法……」
「今は俺とユッカだけだろう? 念のためだ、念のため」
この魔法が最高効率というわけではない。
ある程度は使っておく必要もある。
今回に限っては、ちょっとしたトラップも仕掛けておいたが。
「気になるなら、秘密にしておいてもらえると助かる」
「じゃあお願い一回で」
「ストックばかり増やしてどうする……」
スタンプカードでも作っているのだろうか。
例の権利が行使された試しは一度もない。
今この瞬間に至るまでたったの一度も。
「い、いいんですよっ。なにがあるか分からないじゃないですか!」
「ちなみに、今の回数は?」
「それは――……それは……えっと、覚えてますよ?」
どこからどう見ても、記憶に自信のある人物の反応ではない。
しどろもどろの答えに、泳ぎまくる目。
やはりというか、具体的な回数が出てくることもない。
「ユッカ……」
「そんな目で見なくてもいいじゃないですかぁ!」
まさか帰り道に全く無関係の内容で手間取るとは、思わなかった。




