第327話 父の帰宅-①
「――もうすぐですぜ、旦那」
御者の声を聞き、男はそっと目を開けた。
弱い振動にその身を揺られながら、周囲を見回す。
森を引き裂くように続いていく道。
リーテンガリア最大規模とも謳われる都市を目指した時は背にした緑に、今度は迎え入れられる。
どれだけつめても五人は乗れそうにない小さな客車。そこに乗っているのは、男一人。
アーコを発った時には大勢いた客も次々と下りて行き、トレスに着いたのが一昨日のこと。
ストラへと向かう便に乗るものは、結局一人もいなかった。
「すみませんね。時間がかかっちまいまして。普段ならもう少し早く突けるんですが。へぇ」
「とんでもない。出してもらえるだけでもありがたいんですから」
「そりゃあこれさえありゃあ出しますよ。“首長砦”がうろついたりしない限りはね」
御者は二本の指で硬化の形を作った上に、ラ・フォルティグの名前を持ち出した。
不謹慎と言われてもおかしくない冗談。
しかしそれも、奇跡に等しい解決を迎えたからこそ、笑って流すことができた。
「それじゃあお願いします。ストラまで。あと少し」
「お任せくだせぇ。もらった分の仕事はきっちりこなしますぜ」
客車を引く四足歩行の生き物に、軽く鞭を打つ。
ストラを発ち、トレスを間近にした時にも聞いた音。
その音が、吹き付ける風が、男に返ってきたのだという実感を与えた。
「しかしストラも災難でしたね。この前も妙な騒ぎがあったとかなんとか」
「聞きましたよ。いきなり町の中に魔物が現れたとか……もっと早く帰っていれば」
先日の一件の情報は、すぐに男の元へ転がり込んできた。
ラ・フォルティグの襲来を経た後、ようやく得られた休暇。
家族との再会を心待ちにしながら向かっていた途中でその知らせを受け取った。
とある一味の親分が腹の中に呑み込んでいた魔道具。
警備隊の聴取を受けている中、それを吐き出し起動させた事。
突如として呼び出された魔物達は、ストラの冒険者達によって鎮圧されたという。
またしても、ほとんど被害を出すことなく。
「まあまあ、そう気を落としなさんなって。被害はほとんどなかったって話ですし、ご家族さんも無事だと思いますぜ」
被害を出す事無く暴走は鎮圧された。男の手には、それ以上の情報はない。
知った時には、何もかもが終わった後だった。
魔物の発生に焦る暇すら、与えられることはなかった。
(……普通なら、こんなに上手くは片付かないだろうね)
しかし、彼は感じていた。
常々聞かされていたとある少年の存在を、これ以上なく感じていた。
おそらく今もストラにいるその少年。
その姿を思い浮かべていたところに、前から「そういやぁ」と声がかかる。
「旦那が前に乗られたのも確か、このくらいの時期でしたね。……いや、もうちょっと前だったかな?」
「いえ、この時期です。……あなたでしたか。すみません。気付けなくて」
「いえいえ、こっちはこういう仕事で飯食ってますから。話した内容も覚えてますよ? なんとなくですけどね」
それ以前にも乗せたことはあると、御者は語った。
他でもない、アーコでの勤務が決まった時のことだ。
「楽しみでしょう。久し振りに家族に会うのは。お節介かもしれませんけど、ゆっくりしていってくだせぇ」
「そうさせてもらいますよ。ようやくまとまった休みがもらえましたから」
先日の防衛線を乗り越えてから、それぞれに与えられた休暇。
往復に時間がかかる自分が早い段階でもらえたのは幸運だったと、男は思っていた。
普段の勤務態度の良さから与えられたものだという事は彼自身、知る由もなかった。
「――それに今回は、もうひとつ楽しみがあるんです」
何より、これからのことで頭がいっぱいだった。
「ほ、ほんとに……?」
アイシャの声は震えていた。
昼食を終えほどなくして告げられた内容を、すぐには呑み込めなかった。
「えぇ、そうよ~? 言ってなかったかしら~?」
「言ってないよ!? 絶対言ってない!!」
突然の魔物発生から三日。
母がこの時間にいる時点でおかしいかったと思っても、時すでに遅し。
活動が難しい冒険者と違って、母の働く店が今日も開いていることはアイシャも知っていた。
だからこそ、休みの間隔がいつもより早いことに気付くべきだったという思いは強まる一方だった。
「でもアイシャってば、ちょっと抜けてるところもあるし~……。聞いたのを忘れちゃったんじゃないかしら~?」
「そんなことないもんっ! 絶対言ってなかった!」
なぜもっと早く言ってくれなかったのか。アイシャの中にあるのはそれだけだった。
アイシャも、そのこと自体を嫌がっているわけではなかった。
それを純粋に喜べる状況であれば、こんな思いをすることもなかったとさえ思っていた。
「マユも聞いた覚えはない、ですよ?」
「ほらやっぱり! 隠してたんだよね。お母さん、知ってて隠してたんだよね!?」
「あらあら~……そうだったかしらね~?」
それでも母は、小首を傾げる。
マユでさえはっきり『聞いていない』と言ったにもかかわらず、あくまでとぼける。
今日中の到着はほぼ確実。
キリハでは無く自身が買い物に出掛けていた時のことを思い浮かべてしまい、アイシャは震えた。
リィルと買い出しに出かけてくれてよかったと、思わずにはいられなかった。
(戻ってくる前に、なんとか……なんとか?)
少なくともすぐに会うことはない――そこまで考えて、思い直す。
もしかしたら、もしかすると。
キリハとマユが母と残る以上に恐ろしい展開を、アイシャは思い浮かべてしまった。
魔法の使用が解禁されるまで、あと少し。大きな騒ぎも特に起きていない。
その間もキリハは、魔力の診察やユッカとの朝練を怠ることはなかった。
しかし、問題はそこではない。そんな話ではないのだ。
「……ねぇ、キリハには? キリハには言ったの!?」
「キリハ君に~? どうして~?」
「どうしても! いいからキリハに教えたのかだけ教えて! 早く!」
帰宅途中のところで鉢合わせてもおかしくない。
それどころか、ストラの地形的にいつ出くわしてもおかしくない。
「どうだったかしら~……。キリハ君とゆっくり話す機会はなかったと思うけど――」
「行ってきますっ!!」
母の言葉を最後まで聞くことなく、アイシャは飛び出した。
キリハのもとを目指し、全速力で走った。
居ても立っても居られなかった。
母の言葉を待ったところで、どちらとも取れない態度を続けるのが目に見えていた。
(もう、もう、もう……! どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?)
キリハの方は、おそらく問題ない。
母やガルムといった、キリハから見ても年上の相手には、それに合った接し方を心掛けている。
そしてキリハは、その時も同じようにしてしまうだろう。
これまでそうしてきたように、そうするだろう。
問題は、その相手。
母がそうだったように、気を悪くするなどあり得ない。
あり得ないからこそ、いっそうアイシャを悩ませる。
何より、キリハに何を吹き込むか分からない。母以上に。
「……アイナさんも意地悪、ですね」
「そんなことないわよ~? あの子こそ、警戒し過ぎだと思わない~? せっかく帰って来るのに~」
「確かに、それは思った、ですけど」
とにもかくにも、今回の父の帰宅はアイシャにとって全く予想できないものだった。




