第306話 取り戻した平穏
「あ、あんた……いつの間に……」
リィルの声は、震えていた。
まるで、信じられないものでも見た時のように震えていた。
何もそんなに驚かなくても――なんて、口が裂けても言えない。
昨日ことは俺にとっても、皆にとってもそれだけのものだった。間違いなく。
四人がかりの防衛線も、それ以前と以後も、全部『みて』知っているのだから。
どうして、ラ・フォルティグを引っ張り上げようとした時に皆がイロンの外にいたのか。
少し考えればすぐに分かることだった。
あのとき聞こえてきたのは、紛れもなくアイシャ達本人の想い。
俺の置かれている状況を、やはり正確に知っていた。
……もっとも、実行犯は黙秘を貫くつもりらしいが。
「ついさっきだ。――自分でも、こんな時間まで寝たままとは思わなかったよ」
「十分早い、です」
いつもに比べたら、一時間以上遅い。
もし身体の調子が良かったとしても、これではトレーニングどころではない。
「それを言うならマユ達こそ。……大丈夫だったのか? 昨日のあれは」
「アイシャさんに言ってあげてください、です。マユは後ろから支えただけ、なので」
「そんなことないよ。マユちゃん達がすぐ後ろから支えてくれたから、真っ直ぐ撃てたんだもん。それに……」
そこまで言ってアイシャは、ユッカとリィルの方を見た。その意味は俺にも分かった。
昨日の《ラシュースティ》は空に、上に向けて放たれたものだった。
地上から、落下するラ・フォルティグを目がけて放たれた。
一般的に見て、平地でも当てるのに苦労しそうな距離。
しかもあんな、落下の勢いを大幅に削いでしまうほどの威力。
術者にかかる負荷も並大抵のものではなかった筈。
それが分かっていたから、あのような方法をとったのだろう。
「いいじゃないですか。その話は後で。それよりキリハさんはちゃんと休んでくださいっ」
「同感、です。まず、自分のことを心配した方がいい、ですよ?」
「ゆっくり休ませてもらったから大丈夫だ。さすがに依頼に行こうとまでは思えないが」
「ちょっとでも行くつもりがあったの……?」
……おっと。
口を滑らせてしまったと思っても、時すでに遅し。
朝一番からユッカとマユの視線が突き刺さる。それ見たことかと言わんばかりに。
「大丈夫、です。行こうとしたら止めるだけ、ですから」
「そもそもありませんよ。依頼なんて」
……頼もしいやら、恐ろしいやら。
ここまで言うからには止めるだろう。きっと。あらゆる手段を用いて。
もしすぐにでも受けられそうな依頼があれば、すぐには終わらなかっただろう。
「もしあっても、行っちゃ駄目だからね? ……絶対に」
「勿論。この通りだ。肝に銘じておく」
「……絶対だよ?」
ここまで念押しされるくらいだ。間違いない。
やけに力の込められた『絶対』には頷くしかなかった。
ちょっとした片付けの手伝いに行く事すら躊躇ってしまう程に。
「リィルも。……すまなかった。心配をかけてしまって」
「………………バカ」
たった一言。そこに全てが込められているような気がした。
左の肩にかけられた両手と、乗せられた頭。
普段ならどうということもない筈の重さも、今日だけはやけに響く。
きっと、昨日の戦いの疲労だけが原因ではないだろう。
イロンに戻るまで、戻ってからも、きっと気が気でなかったから。
「近いですよ、リィル。そんなところにいたらキリハさんが食べられないじゃないですか」
「それ、渡してください、です。マユが食べさせてあげる、ですから」
……こんなことを言いたくはないが、もう少し離れてほしい。切実に。
ベッドはあくまでも一人用。
余裕があるとはいえ、三人も四人も一斉に押しかけられるほどのスペースなんてない。
「み、みんな落ち着こう? キリハも起きたばっかりなんだし……ね?」
「ああ……アイシャの言う通りだ。心配しなくても、大抵のことは自分でできる」
軽くない運動もさすがにできる。
今無理にするべきことではないというだけで、そこまで消耗しているわけではない。
「無理は禁物っていつも言ってるでしょ。まさか忘れたんじゃないでしょうね?」
「今日くらい休めばいいじゃないですか。協会の人もすぐには動けませんよ」
「まずはごはん、です。……どれから食べたい、ですか?」
それでもリィルは、ユッカは、マユは引き下がらない。
アイシャが止めようとしてくれているのも、きっと義務感からだろう。
……うずうずしているのがここからでもよく見える。
「あはは、今日も今日とてモテモテだねぇ。キリハ君」
「そういうつもりで居座るなら見物料くらい払ってもらおうか」
「……そこじゃ、ないだろ」
……うるさい。こんな場面を見られる気になってみたらどうだ。
「――以上が、今回起こった全てです」
ご存知とは思いますが、とエルナレイは内心で付け加えた。
魔道具越しに彼女の話を聞くその人物が、リーテンガリアにいないことを知った上で。
そんなエルナレイの内心を知ってか知らずか、その人物は首肯するように短く返す。
直接出向くことなく状況を知る方法などほとんどない。
現時点では、まだ正式な報告書もまとまっていない。対象となる区域が広すぎるのだ。
しかし、その人物にとっては造作もないこと。
エルナレイが知る限り、その程度の事に四苦八苦する人物ではなかった。
「被害も、最小限に抑えられたと言っていいでしょう。……個人的な感想ですけれど、危険種が出現した後とは思えないほど軽微なものでした」
幻影の出現に始まり、魔物の大量発生から“首長砦”の出現にまで至った大騒動。
それは、リーテンガリアの全域に大きな被害をもたらしかねないものだった。
だからこそ、その人物が接触を図ったのだということは想像に難くなかった。
町の壊滅どころか、現時点ではまだ命を落としたという情報すら確認されていない。
負傷者は少なからずいたものの、支援も行き届いている。
その被害の少なさこそが、かえってその人物の腰を本格的に上げさせたのだとエルナレイは考えていた
「……はい。カウバへの攻撃は、お話ししました通り、例の少年が防いでくれました」
最も貢献したとも言える少年に、何かしらの興味を抱いたに違いない。
もし彼のことを知っていなくても、きっと自分は興味を持っていた。
その自覚を持っていたからこそ、エルナレイは強くそう感じた。
異常と言う他ない。
イロンからカウバまで、ごく僅かな時間で辿り着いた。
それどころか、エルナレイやナターシャが駆け付けるまでほぼ一人で持ちこたえていた。
危険種の咆哮は、最低でもカウバの外壁を軽々貫通する威力を持っていたことが分かっている。
それを防いだ。しかも、何発も。
回避するのではなく、真正面から受け止めてしまった。
「今後、彼については――……今まで通りでよろしいのですか? いえ、不満というわけではないのですけれど……」
だからこそ、曖昧とも言えるその対応を不思議に思わずにはいられなかった。




