第270話 キリハの役割
重力に引かれる身体を、押し上げるように吹きつける風。
風を切って空を駆け抜けていた時とはまた違った感覚。
足元に広がる草のカーペットの模様が徐々に徐々に鮮明になっていく。
一面の若草色に添えられた小さなアクセントが、あちこちから浮かび上がっていく。
――着地の直前、風に吹かれるままだった《飛翼》をもう一度だけ羽ばたかせる。
重力に逆らったのは、ほんの一瞬。着地の衝撃を大幅に和らげるため。
こんな状況で飛び降りても仕方がない。地面にクレーターを残すような趣味もない。
「んっ……ん~…………っ!」
何より今は、この達成感を余計なものに邪魔されたくなかった。
リーテンガリアを駆けずり回る日々。必要なこととはいえ、さすがに疲れた。
風を切る感覚に心地よさも何も感じない。
(……こんなことなら特大のゴンドラでも用意してもらうんだった)
安全面を考慮すれば、一度に連れて行ける人数は限られる。
広々とした空間を用意できる筈もなく。いくら《駕籠》の魔法でもそこまで大きなものは作れない。
魔物の群れへの対応はそう難しいことではない。
が、だからといって各都市の防衛を手薄にしていいわけでもない。
コロサハでの戦いと、ラ・フォルティグの移動。
まるで二つの出来事に触発されたように、リーテンガリア内の魔物の発生量が跳ね上がった。
酷いところでは例年の一〇倍以上。
コロサハに戦力を集中させて対処できるわけがない。
「せめて、繁殖の勢いさえ抑える事ができれば――」
「そんなことまで考えてどうするのよ。少しは休みなさいってば」
「遠くにも行ったんだよね? あんまり、無茶はしない方が……」
……これは。
衝突のリスクを自ら背負う必然性も何もない。
着地する前、周りに人がいないことは確かめた。絶対に誰もいなかった。
それなのに、よく知った声がすぐ後ろから聞こえた。
アイシャとリィルが、前触れなくそこに現れた。
「…………二人とも、まさかとは思うが……」
「はっきりと聞こえたわよ。あんたのさっきの独り言なら」
「ご、ごめんね? すぐに声をかけようか迷ったんだけど……」
(ヘレン……またあいつ……っ!)
この状況を作り上げた当人の姿も、気配もない。
草葉に隠れて笑い転げていることだろう。こんな状況、あいつの協力なしにはあり得ない。
それらしいことを言って唆す姿が目に浮かぶ。
アイシャにもリィルも伝えることなく、二人の姿が見えなくなるよう細工するところも。
二人の姿が一時的に見えなくなるのはどうせ俺だけ。
そのくらいのことはやる。普段のヘレンでも、状況が許すのなら確実にやる。
「でも、やっぱり駄目だよ。今はちゃんと休んでおかないと……」
「魔物が増える原因が分かったらその時にはまた何か頼まれるかもしれないじゃない。イロンの周りは落ち着いてるみたいだし、ゆっくりしなさいよ」
「…………ぐうの音も出ないな」
白旗が手元にあれば、全力で振っていた。
実際、協会に任せておくに限る。俺は魔物の討伐に専念すればいい。
しかし、イロンの近隣が落ち着いているというのは朗報。
大量の魔物が光の中に消えたコロサハ以外にも、そういう場所ができつつある。
その情報だけでもリーテンガリアの人にとっては救いになる筈。
「今そんなことまで考えなくたっていいじゃない。別にあんた一人で戦ってるわけじゃないんだから」
「キリハの役目って、他の冒険者を町に連れて行くことだったんだよね? 協会が選んだんだし、キリハが全部なんとかしなくても……」
「さすがにそこまで傲慢じゃない。なんとかならないものかと思っただけで」
誰にでも扱える調査機材があるのならともかく。
魔戦時代には組織によってさまざまな機材が開発された。
時には敵対勢力の技術すら吸収して、その精度を飛躍的に高めたこともあった。
解析のための魔法が積極的に開発されなかった原因もそこにある。
「今でも十分すぎるくらいじゃない。聞いたわよ? 一日でコロサハからカウバまで行ったって」
「機密保持の概念はどこに……」
「もしかして、聞いちゃ駄目だった? 忘れた方がいい?」
今更驚かれる筈がない。
コロサハからこのイロンまで、半日足らずで移動した後。
あれだけ難色を示していた割に、みんなすぐに状況を受け入れていた。
どうしても厳しいようなら《催眠香》で夢の世界に旅立ってもらうことも考えた。
速すぎるとむしろ現実味がなくなるのか、床の透明度を更に大きく下げたおかげか。
それでも楽しんでいたのはマユくらい。
自らの力で飛べるヘレンをユッカ達とはまた別の理由で羨んでいた。
「大丈夫。もしもの時はわざと口を滑らせた犯人に全ての責任を取ってもらうだけだ」
「いいわよ。別に。そんなことしなくても」
「私もそう思う……。それに、わざとじゃないと思うよ? 言ってから『しまった』って顔だったもん」
「「それはない」」
「!?」
ない。いくらなんでもそれだけはあり得ない。
さっきの件はともかく、ヘレンに関して折れるつもりはない。
アイシャが幾ら信じられないと感じていても、覆りようのない事実だ。
「キリハもリィルちゃんも、そんな……もうちょっとくらい考えてもいいと思うよ……?」
「いいや、わざとだ。絶対に。俺が保証する」
「もしかして見えてなかった? あいつ、あの後くすくす笑ってたわよ」
「え、えぇ……?」
何かしらの理由があったのは間違いない。
ないのだが、あいつに限って機密を漏らすなんてミスを犯す筈がない。わざとでない限り。
アイシャもヘレンのあの顔を鵜呑みにするなんて。いくらなんでも人が良すぎる。
あれだけわざとらしい雰囲気に満ち満ちているというのに。
「そんなに気になるなら問い詰めてみる? すぐに分かるわよ?」
「むしろ、着いた途端に自分からネタばらしを始めそうだがな」
いつだったか、そうしたように。
まさに今回と同じような状況だった。
任務もあったとはいえ、巧妙に正体を隠して接触してきたくらいだ。
しかも堂々と『趣味も混じってましたけど』とのたまう始末。
困り果てたような表情を向けられても、それが現実。アイシャもいずれ分かる。
「キリハもどうしてそこまで言うの……? 昔からの友達なんだよね?」
「だからこそだ。何度出し抜かれたと思ってる」
俺と一対一、もしくはイリアも交えた状態。
あの件を問い詰めてくるとしたらその時くらいだろう。それも、この騒動が片付いた後で。
「ほんっと、的確な表現ですよねー♪」
当面の間はいかにも愉快犯的な行動をとり続けるに違いない。
「…………へ?」
まさに今、音もなく現れたように。
「あ、なんなら今から上映会始めます? 大ヒット間違いなしのビックタイトルの完成ってことで」
「タイトルは……ああ『人を惑わす悪魔』か」
「もうちょっと捻ってくれません? そういうとこですよ?」
リィルにとっては見慣れたものだろう。
人に一服盛った時しかり、唐突に姿を現していたそうだから。
「ど、どうしてここに……?」
「見てたらあまりに面白かったので、つい♪」
「つい!?」
まさに神出鬼没。
「だから言っただろう、そういうやつだと」
本人がそれを素で愉しんでいるのも含めて、いつものこと。
(……ただいまの挨拶をする暇もないな。この調子だと)
そんな今が、長旅の疲れも全て吹き飛ばしてくれたような気がした。




