第269話 現状維持
「……由々しき事態ね」
報告書の束を手に、エルナレイは深いため息をついた。
「たった10日で50件……。毎日リーテンガリア中で魔物が大量発生している以上、仕方の無い事ではあるけれど……いくらなんでも多過ぎるわね」
今朝コロサハに舞い戻ってほどなく渡された山のような書類。
そこに記されているのは、リーテンガリア各都市で確認された魔物の大群の記録。
ゴブリンにも劣る魔物から、本来三級以上の冒険者にしか依頼できない強力な魔物まで。
(……こんなに数を増やす魔物ではなかったのだけれど)
目下の脅威はコロサハから去った魔物――では、ない。
各地を目指して散っていった魔物の群れの動きは軍によって監視されていた。
しかし未だ、カウバのようにコロサハから距離のある街に辿り着いたという話はない。
にもかかわらず、エルナレイへと届けられた資料の中にはカウバでの戦闘記録も含まれていた。
コロサハから送られた部隊との共闘によって勝利を収めている。
(さすが、と言うべきなのかしら。どちらにしても押し通した甲斐はあったわね……)
戦いを有利に進めることができたのは、選ばれた冒険者が出発したその日にカウバへ辿り着けたからに他ならない。
もし救援が間に合わなければ、カウバは一方的に蹂躙されていた。
絶望的なまでに物量差のある戦い。本来であれば、そうなってしまう筈だった。
(信じられない移動速度……彼には申し訳ないけれど、今は頼るしかなさそうね……)
その状況を覆したものこそ、キリハの飛行魔法だった。
馬車で片道に何日もかかる道のりをキリハはその日のうちに往復してしまった。
往路は冒険者と共に、帰路は報告書と共に。
アーコの側を守護していた特級冒険者――エルナレイにとってもよく知る相手――とその相棒でさえ、そのようなことはできない。
誰かを連れて行くとなれば猶更だ。
しかしそれがなければ協会は、リーテンガリアは、どうすることもできなかった。
本来手を取り合うことのないとされる種の魔物同士さえ、一つの群れを成して町を目指そうとしていた。
目を通しているこの瞬間にもカウバに魔物の群れが押し寄せようとしている。
「この状況、すぐにでも対処するべきだと思わない? このままではいつ被害が出るか分からないもの」
「……どうしてそれを私に聞くの? “精霊騎士”」
現状の厳しさはナターシャもよく理解していた。
だからこそ、非公式のこの場でエルナレイが訊ねる必要がないと感じていた。
どうしてエルナレイがまたこの場所を訪れたのかという疑問もあったが。
「あなたがここにいるからよ。ナターシャさん。今は建設的な意見が少しでも必要なの」
「そういうことなら他を当たって。私が得なのは探索の方。防衛は専門外だから」
エルナレイは勿論、キリハもこの場所に辿り着くことはできる。
ナターシャ自身の意思で拒まない限り、一度場所を知った二人であれば辿り着くことは不可能ではない。迷わなければ。
問題はそこではない。
リーテンガリア各地で人々が魔物の襲来に耐えているこの状況。
特級の肩書を持つエルナレイは本来、協会の近隣を離れる事すら難しい。
「固いことを言わないで。あなたのような人の意見はできるだけ聞いておきたいのよ。ナターシャ・ロクアニク・ソーアリッジとしてのあなたに、ね?」
「名高い“精霊騎士”にそんなことを言われてもね……はぁ」
そのエルナレイが今、こうしてここにいる。
コロサハへの襲撃は他と比較しても落ちている。が、予断を許さない状況であることに変わりはない。
何よりエルナレイには“首長砦”の進行を食い止めるという重要な役割もある。
「現状を維持すればいいんじゃない? まだ大きな被害もないし、下手に攻める必要はないと思うけど」
「各地に冒険者を派遣できたおかげね。同時に物資を輸送することもできる」
「手柄の自慢なら他所でやって。私の方でもできることはやっておくから」
「笑われるだけでしょうね。実際に動いてくれているのは彼だもの。私もそこまで図々しくないわ」
魔物の進軍速度をも上回る長距離高速移動。
空から行われているそれに、エルナレイが関わっていることはナターシャは当然知っていた。
本来であればあり得ない話。
しかし今、事実としてキリハはリーテンガリア内を飛び回っている。
「だからこそ……長引けば、それだけこちらが不利になってしまう。もう少し先の事で意見を聞いておきたいの」
「私に聞く前に、飛び回ってる本人に確認したら?」
「彼が戻るまで待ってはいられないの」
「…………」
答えようがなかった。
現状の維持に、その先に、キリハの存在が事実上不可欠であるからこそ、答えることができなかった。
コロサハに着いてからのわずかな時間で、ナターシャが抱いていたイメージは二度も崩れ去った。
噂も、確かな証言も、サーシャの報告も、自らが見た姿さえも大きく揺らいだ。
キリハの言う『全て』という言葉には疑問しかなかった。
(敵じゃないのは本当みたいだけど……)
信頼を寄せていいのかどうかも悩ましい存在。
今リーテンガリアを助けている飛翔能力も、見方次第では脅威となり得る。
本人の攻撃力を思えば、猶更。
もし彼が侵略する立場についてしまったら。
その時、どれほどの被害が出るかナターシャにも想像しきれなかった。
(……いくらなんでも危険過ぎる)
キリハがあの力をものにするまでそう時間はかからない。
確信めいた予感があったからこその結論だった。
(もう一回、サーシャと相談して――)
――思考を遮る鈴の音。
リーテンガリアにいないサーシャとの連絡にナターシャが使っている者とは別の何か。
「――あぁ、ごめんなさい。兄からだわ」
そしてこの部屋にいるのは、もう一人だけ。エルナレイだ。
「まだ試作品なのだけれど……性能的な問題はなさそうね」
「大したものね……機密事項を堂々と喋るなんて」
「あなた達にとっては見飽きた物でしょう? 本物の魔道具には遠く及ばないわ」
赤い宝珠の首飾り。
それは確かに、ナターシャがよく知るものと何も変わらない。
定められた相手との遠話。それを叶えるための力が込められた一品。
古代文明の遺産のようなものを除けば、未だに完成の見えない技術。
「それから、念のため。この場所を探り当てられる事は絶対にないわ。だから安心して頂戴」
「……まだ何も言ってないけど」
「あなたを敵に回したくないもの。訊かれる前に言っただけよ」
エルナレイやフェルナンドのような立場になければ、それに触れる機会さえない。
「……呆れた。それが天下の“精霊騎士”の言葉?」
「そんなにおかしなことかしら。あなたの敵になろうなんて命知らずはいないでしょう?」
「……だったらよかったんだけど」
エルナレイには、研究途中の技術に触れられるだけの権限がある。
「――ごめんなさい、兄上。少し――いえ、問題は何も。どうかなさいました?」
緊急時とはいえ、それを連絡手段として扱うことが許されていた。
「…………なんですって?」
そんな、冒険者にとっては憧れの的でもあるエルナレイの表情がふと歪んだ。
「はぁ……はぁ。なるほど、そのようなことがあったのですね……」
気品ある声が、らしからぬ感情に乱され出した。
「ところで……兄上? 一つよろしいでしょうか?」
エルナレイの表情は穏やかだった。
刺々しい声とは裏腹に、その表情はどこまでも穏やかだった。
「まだ寝室にいらっしゃるのですか? 既に昼食時も過ぎているというのに。隊長が休んでばかりでは示しもつきませんよ?」
お互いの立場などお構いなしに繰り出される容赦のない言葉。
それでも穏やかな表情が崩れることはない。
「その巨大な変異種というのは既に倒されたのでしょう? 私も調査を進めるべき相手ではありますが、他にやるべきことがあるのではなくて?」
巨大な変異種という、見逃してはならない情報を、ナターシャは思わず取りこぼしかけた。
誰の手によってなされたかなど、悩みようがなかったのだ。




