第268話 地面の下に
百メートル以上離れているのにこの存在感。
視線をそちららに向ければ、真っ先に飛び込んでくるのは緑。
生い茂った葉という葉が、地面に根付く木ごと小刻みに揺れていた。
「町から丸見え確定ですねー、これ。余裕で一〇メートルいっちゃってますもん」
「二倍にしてもまだ足りないだろうな、きっと。町の防壁もどこまで役に立つやら」
地中深くを一直線に進んでいた怪物の進路は今、やや上に傾いている。
俺もヘレンもまだ何もしていない。ただ、大きな魔力に釣られただけ。
「ま、穴から引きずり出す手間がないだけラッキーってことにしちゃいましょっか。……ちゃーんと準備しといてくださいね?」
「ヘレンこそ」
――まるで、噴火のようだと思った。
案の定、怪物は俺達の真下から飛び出した。
いつでも飛び上がれるよう俺達が準備をしているとも知らずに飛び出した。
怪物が地面を突き破ったその瞬間、空に飛び散る無数の茶色。
派手に吹き飛ぶ土と、木の破片。内側から爆破されでもしない限りこうはならない。
「うーわ、でっか……前言撤回していいです? こういう非常識はあのカルト集団だけでもうおなかいっぱいなんですけど。私」
「何を今更。どこかの魔物が突然変異でもしたんだろう。どうせ。……“首長砦”ではなさそうだが」
「良いんだか悪いんだか微妙なとこですけどねー。こんなのが出るとなると」
巨大魔物の頭部は蜥蜴に近い。どこから見ても『よく似ている』と感じるほどに。
大きさも、皮膚の厚さも、俺達が知るそれとは間違いなく別物。見れば分かる。
その上、魔物自体は二足歩行、尾は三メートルもない。囮にもならないだろう。
自らが突き破ったことで開いた大穴には見向きもしなかった。
ただ地面を踏み荒らし、長いとは言えないその腕をひたすらに振り回す。
「《雷雹流渦》」
背後に回り込むのは簡単なこと。
渦を巻き、無数の氷を乗せた雷。
無防備の背中を打った一撃は、巨体を大きくよろめかせる。よろめかせるだけ。
「――ナイスアシストっ♪」
直後、怪物の左腕に数え切れないほど刃の痕が刻まれた。
今、魔物の頭の中にあるのは俺とヘレン。二人の存在のみ。
それでもヘレンが通り抜けたことにすら気付いていない。
強靭な爪を持った腕が空を切る。
根付いた木々すら揺さぶる衝撃は決して軽いものではない。当たれば致命傷、いや、八つ裂きか。
「《剣霰》」
魔力の刃を容易く砕くこの力。直にくらえばひとたまりもないだろう。
退いたヘレンと入れ替わり、怪物の頭上から降らせた剣。
細身の剣が何度突こうと、魔物の爪が砕けることはない。
それどころか剣が砕かれる。攻撃をしている側にありながら、次から次へと砕かれていく。
「っ…………!」
両手で握った《魔力剣》も随分重い。
刃に《魔斬》を纏った程度ではどうにもならない重さが両手にのしかかる。
(……これで足が速ければどうなっていたことか)
気を抜けば、砕かれていった《剣霰》と同じ末路を辿ることになる。
もう一度作り出してしまえば済む問題とはいえ、できれば避けたい。
速度と、小回りの差。二つのアドバンテージが失われることはない。
「――《迸雷烈火》!」
巨大な魔物が振り返ったのは、その頭上を取った後。
雷を纏った炎の魔法をその目に捉えることすらできていなかった。
明らかに、俺達の姿を追いきれていなかった。
腕の振り回し方が一層雑になり、つけ入る隙は大きくなるばかり。
刃が魔物の身体を切り裂く度に、雄叫びには怒りが込められていった。
全身を支える脚は太くたくましく、そして短い。
頑丈な皮膚に守られていようと、小回りが利かないのは致命的。
爆風が魔物の姿勢を崩し、爆炎がその視界を徐々に侵食していく。
背後から、両脇から、魔物目掛けて魔法を放ち続ける。
「――《万断》!」
そうしてようやく、《魔力剣》が魔物の左腕を切り落とす。
光の粒を無数に散らし、魔物の脇腹も抉る一撃。
創造していた以上の威力を持った《万断》が、魔物の身体をとうとう切り裂いた。
【――……!?】
身体のバランスを崩された巨大魔物の動きが乱れるのは当然の帰結。
強靭な腕の片方を失った今、巨体の魔物に攻撃手段はない。
魔法や、それに近い何かを放つこともなかった。
(たたみ掛ける!)
自棄気味の突進は単調そのもの。
自己の身体を唯一の武器としていた巨大魔物は、空へ攻撃する術を持たなかった。
強固な体表も、魔法の雨にさらされ続けてはさすがに耐えられないらしい。
【――…………】
それから、巨体が膝から崩れ落ちるまで、そう時間はかからなかった。
激しい音と、穴が隠れるほどの土煙。
衝撃で舞い上がったそれを払い除けた先に会ったのは、木すらも踏みつぶせそうな巨大な魔物の姿。
(……これだけの攻撃を受けて、まだ倒れないのか)
この場所で仕掛けてきてくれてよかったと、つくづく思う。
こんな魔物が町まで侵入していたら――なんて、考えれば考えるほど悪い可能性ばかりが浮かんでしまう。
魔物の瞼は既に閉じられていた。
脱力しきった右腕は垂れ下がり、尻尾も地面に寝かされたまま動くことはない。
しかし、完全に消滅することはなかった。
噴水のように黒い粒子をまき散らしているにもかかわらず、朽ち果てることはない。
「にしても、やっぱり変な引力でも発生しちゃってるんじゃないですか? 出かけ先でこれなんて。さすがに診てもらった方がいいですよ?」
「考えておく。イリアも分からないようなものを特定できるような人がいるとは思えないが」
本来であれば、その巨体に一方的に蹂躙されていてもおかしくはなかった。
それだけ力を持った変異種が発生しているということ。
この場所だけで終わってくれるとは思えない。さすがにそんな展開はあり得ない。
「また出た。やめてくれません? そうやって惚気るの。やる気が蒸発しちゃうんで」
「そうなったら一人で後の始末をするだけだ。好きに休んでいればいい」
「はいはい、言うと思いましたよー。いい加減、年相応の落ち着きくらいは身に着けましょうね?」
「そういう話は後で聞く。後で、いくらでも」
これもまたラ・フォルティグの影響だというのならそれでもいい。
よくはないが、対処するべき相手は見えている。
(だが、ギルバリグルスの動きも封じている以上、他の可能性は……)
あの男以外に仲間がいたというのも妙な話。
今の今まで沈黙を保つ必要がない。他に動けるタイミングはあった筈。
こんな回りくどい手を使わなくても直接、強引にギルバリグルスを連れ出してしまえばいい。
それができないのであれば、逆にギルバリグルスの口を封じるか。
(まあ、いずれにせよ――)
「とりあえず、込み入った話は残りを片付けてからにしましょっか?」
こじ開けられた穴から出てきた魔物の相手が先だろう。どう考えても。




