第2話 少女との邂逅
まだ、追いかけてくる。
走っても、走っても、距離は広がらない。それどころか、その差は少しずつ縮みかけていた。
倒し損ねたのではない。
囮役を買って出たわけでも、まして誰かに押し付けられたわけでもなかった。
きっかけは、練習中の事故。
今すぐにでも直したい、少女が抱える悩みの種。
それを克服するための練習が、不幸にも今の状況を招いた。
あんな場所にいるとは思いもしなかった。
そう叫んでも、相手には通じない。そうしている間にも段々近付いてくる。
走り回った為に体力は尽きかけ、足はすっかり重くなりつつあった。
それでも町はまだ遠く、息が上がったままではとても逃げ切れそうにない。
「あっ…………!?」
そして、石に躓いた。
逃げることしか考えられず、辺りに注意を配る余裕もなかった。
(う、そ……)
それでも追跡者は止まらない。格好の機会とばかりに速度を上げ、少女に迫る。
逃げ場はなかった。身体から力が抜けて、立つことすらできなくなっていた。
(もう、駄目――!)
視界に飛び込んで来たものを一言で表すのなら、『異様』だった。
二足歩行のサイとでも言えばいいのか。思わず自分の目が信じられなくなるほどの珍事だが、実際そいつはそこにいた。
上位の合成獣ではない。あの畜生共の醜悪さは、断じてこんなものではない。
戦いが終わった今、異形の存在を操る者はもういない。少なくとも、他者を害するために呼び出す馬鹿は。
「……やはり、違う」
追われていた誰かに叩きつけられようとしていた拳を受け止めても、まるで。
一見俺より力強そうに見える太い腕も、想像通り軽かった。
間に割り込ませた左手にはわずかな痛みも感じない。こいつを逃がしてやるつもりも、当然ない。
サイ擬きもそこでやっと自分の状況を理解したようで、押しても引いても動かない腕に必死になって力を込める。
そうだ。これはあくまでこの場所に生息する、似て非なる何かだ。
あの化け物共なら狂ったように雄叫びを上げながら俺に襲い掛かっただろう。たとえ次の瞬間に自分が消滅するとしても。
それを理解することなく。欠片の恐怖も抱かずに。
「悪いな」
形ばかりの謝罪と共に、全身を震わせていたサイ擬きを蹴り飛ばす。
目標は茂みの向こう。すぐに戻って来られない程度の位置に。
「………………はれ?」
そこにいたのは、長い銀髪を後ろで束ねた、青い瞳の少女だった。
屈みこんでしまっているから断言はできないが、身長はおそらく俺より低い。
右手の近くに転がっているのは彼女と同じくらいの丈の、木製の杖。
補修痕のある焦げ茶色のローブはかなり使い込まれているようだった。それも、少女の年齢以上に長い年月をかけて。
「いきなり割り込んでしまって申し訳ない。怪我は?」
「ぁ……うん、平気。大丈夫だよ。うん」
「ならよかった。さ、手を」
「あ、ありがとう……」
確かに、見たところ大きな怪我はなさそうだった。それでも所々をすりむいてしまっている。
疲れているように見えるのは多分、あのサイ擬きに追われていたせいだろう。
「それで、えっと……あなたは?」
こちらの様子を窺う少女の顔にはやはり困惑の色が浮かんでいる。
俺としても彼女に聞きたいことが一〇はあるのだが、さすがに向こうの疑問に答えるのが先か。
「俺はキリハ。通りすがりの――通り、すがりの……なんと言えばいいのか」
そう思っていたのも束の間だった。
何せ、自分を説明できる肩書が何もない。
「え、えぇ……?」
「いや、大丈夫だ。何も問題ない。すぐに頭の中で結論を出す。だから先に傷の手当てをしよう」
「傷? キリハ、どこかケガしたの?」
「俺じゃない。ほら、そこ。左腕だ。泥だけでも落とした方がいい。魔力の水は平気か?」
「あ、うん……でも、いいの?」
「このくらいならいくらでも」
少女の言葉は相変わらず聞いたことのないものだが、内容は理解できる。信じがたい話だがそういうものだと割り切るしかない。
ただ、正直なところ、知りもしない言語が自分の口から飛び出るというのは中々に気味が悪い。
大体、何が『大丈夫』だ。何が『問題ない』だ。
最早この場所が地球なのかも疑わしい。二足歩行するサイの時点で大概だったが、そろそろ自分を誤魔化すのも限界かもしれない。
「その、キリハは冒険者じゃないんだよね? 普通の服しか着てないみたいだけど……そんなかっこじゃ危ないよ? 魔物だって出るのに」
「ちょっと待った」
「へ?」
追われていた少女が言うと妙な説得力がある。
いや、そんな話はどうでもいい。冒険者に魔物?
言葉の意味は分かる。分かるが、よりにもよってこのタイミングでそんな単語を。
記憶にない言語。見た事のない生物。サイ擬きを含むであろう魔物という存在。
結論を出すにはまだ早い。ただ、状況証拠は増える一方だった。
「わ、私いまそんなに変なこと言った? この辺りの人ならみんな知ってると思うんだけど……」
「だと思う。多分」
「そっか……やっぱり私……」
「いや、違う。そっちじゃない。後半部分だ、後半部分。誰でも知っているという方に同意したんだ、俺は」
「あ、そっち? よかった。私てっきり……」
むしろ何故真っ先にそちらを思い浮かべてしまったのだろう。
あれか。俺の言い方が悪かったのか。言葉が足りなかったのか。誰が口下手だ。
「とりあえず、この辺りの出身ではないと思ってもらえると助かる。ついでに冒険者や魔物のこともほとんど知らない。そんなド辺境のド田舎の世間知らずだとでも思ってくれればいい」
「別にそこまで言わなくても……それに何か勘違いしてない? もしかしてそういう冗談がはやってるとか?」
「だったらよか――よくない。初対面の相手にそんな冗談言うやつがあるか」
「だ、だよね。あはは」
笑顔が固かった。無理もない。
それに、俺がこの付近の流行など知っているわけがない。
そういう話はむしろ近くに住んでいる筈のこの子の方が詳しいんじゃないのか。
「でも、知らないなんてそんなこと……私より年下の子でも知ってることなのに。……えっ、ほんとのほんとに?」
「ああ。生憎、証明できそうなものは手元にないが」
付近の町、いやこの国の出身ですらない。それにおそらく、この世界は俺がいた世界とはまた別のもの。
だが馬鹿正直に言ったところ頭のおかしい輩と思われるだけ。ひとまずその件は伏せておくことにする。
最初は困惑一色だった少女も、当たり前というか次第に心配そうな表情を見せ始めていた。決して頭を打ったショックでおかしくなったとかではない。
「だって、協会だよ? どんな町にもあるあの協会だよ? キリハも見たことあると思うよ、さすがに」
「いや全く。微塵もない。さっき初めてその名前を聞いた。少なくとも古郷にはなかったと断言してもいい」
「小さな村にも出張所くらいはあったような……それに近くに小さな村なんてないし……この辺りの出身じゃないって言ってたよね。キリハって、どこから来たの?」
「どこからといわれても……雲の上から?」
「へ? えっと……なんて?」
「すまない。今のは言い方が悪かった。実を言うと俺も飛ばされたばかりで状況を呑み込めていないんだ。とりあえず遠く彼方から来たということで、ここはひとつ」
正直、最初の答えも見当違いではないと思っている。
それだけの力を持っていて、かつ俺に行使するとしたら一人しか心当たりがいない。
「………………あっ、今のも冗談?」
「さすがに信じてもらえないか。ああいや、分かる。疑いたくなるその気持ちはよく分かる」
同じことを言われたら、俺も似たような反応を返しただろう。少なくとも超常現象に次々直面する前は確実に。
少女が納得できる説明というものがどうにも纏まらない。しかもこの様子だと、余計な横槍まで入ってきそうだ。
「とりあえず、続きは茂みの向こうの連中を抑えた後にさせてもらえないか。いつ邪魔をされるか分かったものじゃない」
「茂み? 別に何も――」
「ちょっと失礼」
葉を生い茂らせた木が俺達のいた場所目がけて飛んできたのは、きょとんとした少女を抱えて飛び退いた直後の事だった。
「……えっ?」
「今言った通りだ。少し待てばあの辺りからさっきの魔物が仲間を連れて顔を見せると思う」
さては単純な腕力では敵わないと踏んだか。正解だ。
しかし何故そこで木を投げつけるという発想に至るのか。わざわざ複数匹で引っこ抜いてまで。
その発想は分かってやれそうにない。
それからもう二度ほど地面を蹴ってから着地し、改めて木が飛んできた方へと目を向ける。
すると案の定緑の中から白い角が生えてきた。何本も、何本も。
その数は全部で十二体。対してこちらが今のバックステップで稼げた距離はおよそ二〇メートル。少し離れすぎたかもしれない。
「なんで、あんなにたくさん……」
「おそらくさっき蹴り飛ばされた報復だ。しかしまあよくこれだけの数を揃えたな。近くに巣でも作っていたのか」
「そうじゃなくて! 普段はもっと少なくて、えっと、サイブルはもっと森の奥に巣を作るし、一匹だけで動くの。こんなこと、今まで一度もなかったのに……」
「なるほど? つまり放っておけば何が起きるか分からない、と」
サイブルと呼ばれた魔物は何度見ても二足歩行という点を覗いて俺が知っているサイと大差ないものだった。
体長は最低でも二メートル越え。個体間の差はあるようだがそこは間違いない。
強いて言うなら両肩の角。しかし何故か、一匹だけ右肩のものが折れている個体がいる。
俺が蹴ったせいだろう。さっきはそこまで確認していなかった。
「そうだけど、そうだけど! 一旦逃げよう? その、キリハに頼り切りになっちゃうかもしれないけど、今ならまだ……!」
そこへまた太い幹が襲い掛かる。
一度目は呆気に取られていた少女の悲鳴が辺りに響いた。当然、喰らってやるつもりはない。
どうやらさっき投げたものを拾い上げたらしい。ただし二匹がかりで。
「向こうがあの調子だ。とりあえず今は止めた方がいい。退くならせめて数を減らしてからにしよう」
「でも、私の魔法じゃサイブルなんて倒せないよ? それに……」
そこまで言って、少女は目を逸らす。何か事情があるのは想像に難くなかった。
敵意の向けられ方からして狙いは俺だろう。少女が標的から外れているのならそれで十分。
これなら少女を下ろしてもおそらく問題ない。もし次が飛んでくるなら叩き落とす。
「えっ? なんで下ろして……」
「心配しなくても置き去りになんてしない。あの連中を片付けるだけだ。そちらの事情は追々、名前と一緒に聞かせてくれ」
「片付け……って、一人で!?」
「ああ。勿論。それと、念のために確認しておきたい。魔物は勝手に仕留めていいものなのか? 『捕縛以外は禁止』なんてルールがあるなら教えてほしい」
「ううん、ない。ないよ。増えすぎると町に被害が出ちゃうから。まさか、本気?」
頷き、またサイブルを見やる。
向こうもすぐに気付いたんだろう。群れは一向に動こうとしなかった。同族以外、投げられそうなものも近くにないらしい。
代わりに僅かな動きでも見逃すまいと視線が集まる。だがやはり、仕掛ける素振りはない。
そういうことなら好都合。こちらからいかせてもらおう。
「――来い」
頭に浮かべたイメージを、形に。
これまで数え切れないほど繰り返したプロセスを丁寧になぞる。
身体の奥底が熱い。この瞬間を待ちわびていた魔力が目覚めの雄叫びを上げているかのようだった。
いつ以来だろう。長い間放置された不満のようなものも感じた。
そうして手のひらから溢れ出した光は地面と水平に伸び、やがて剣へと姿を変える。
飾り気のない、剣の形をした魔法。青白く光るそいつの姿が懐かしく思えてしまう。
(……さすがに質の低下は避けられなかったか)
だが現れた《魔力剣》を手に取った瞬間に分かってしまった。
形は以前のものと変わらない。見た目だけは。
一方で各所のつくりが明らかに甘かった。強度は以前の半分にも届きそうにない。切れ味に至っては比べる方が馬鹿らしい。
覚えたての頃と比べたらそれなりにマシ。そんなレベル。
ブランクを考えれば無理もない。むしろ上出来だろう。
何せ当時は『もう二度と使うこともない』と、本気で思っていたほどなのだから。