第11話 騒動から一夜
ゴブリンと戦った夜、過去の記憶を夢に見ることはなかった。
全身を羽毛に包まれたような、奇妙な感覚。
周囲はまるでプラネタリウムのよう。
届きそうで絶対に届く事のない、無数の煌めきが散らばっていた。
息苦しさはない。
その感覚を、この光景を、俺はよく知っていた。
知っているからこそ、この世界の主へあえて声を発して呼びかける。
「……お前にしては遅かったな」
――寂しかったのなら素直にそう言ってくれてもいいんですよ?
「冗談。そんなことより、この件はやっぱりお前の差し金か?」
――当然でしょう。少々骨は折れましたが一部を除いて概ね順調なようですね。苦労した甲斐があったというものです。
「お前……」
――あなたが気に病むことはありませんよ。無理を押し通すことにならないよう慎重に準備を進めてきましたから。
「そんな簡単な話でもないだろう。一体いつからこんな計画を立てていた?」
――計画なんて呼べる筈ないでしょう? ただの私のわがままです。
「だがそのおかげで俺はこうしてここにいられる」
――……そうやって譲ろうとしないところは相変わらずですね。
「お互い様だ。……本当に、何も問題はないんだな?」
――ええ、勿論。能力抑制が想定通りに働いていない点を除けば、ですが。
「能力抑制? ああ、それで……正直俺もここまで鈍っているとは思わなかった。かなり本格的に鍛え直す必要がありそうだ」
――そうしてください。あなたなら解決できる筈ですから。この私が保証します。
「何を根拠にそこまで言えるんだか」
――これまで重ねた時間の全て。それ以外にありますか? 悩んでいる時も、前に進もうとしている時も。色々なあなたを視た上で言っているんです。
「……本当、相変わらずだな」
――もっと素直な気持ちを言葉にしてくれてもいいんですよ?
「断る。というか自分に都合のいい部分だけ抜き出すんじゃない」
――さて、何のことでしょう? 全くわかりませんね。
「おいこら」
――冗談です。……今日はこのくらいにしておきましょうか。あまり長居させるわけにはいきませんから。
「次からは前もって予告しておいてくれ。それと間隔は多少空けてもらえると助かる」
――そういうことなら明日に決まりですね。
「間隔。間隔空けてくれって話は聞いてないのかお前」
抗議の念を送りつけても本人はまるで動じない。顔も見せないが、きっと涼しげな表情をしているんだろう。
こうなったら何を言っても通じない。時間も厳しいと言っていた。
案の定文句は流され、程なく窓から朝日が差し込んだ。
「は、走る? ストラの周りを!?」
午前。
早朝から勤務先の小道具店に向かったアイナさんに代わり、アイシャと買い出しに出かけた時の事。
ジャガイモに似た野菜を始め数点食材を買い付け、次の店へ向かう道すがら。
ちょっとした話をしただけの筈が、アイシャを盛大に驚かせてしまい今に至る。
「ああ。もう少し体力をつけておきたい。始める前にアイシャにだけは話しておこうと思って」
「……本気で?」
脳の異常を心配されそうな勢いだった。そこまでか。そこまでなのか。
「一周するだけでもかなり距離になるよ? 確かに茂みの手前と外壁の間を往復してる人ならいるけど……そんなに走らなくてもよくない?」
「今までやっていたことはちゃんと続ける。勿論、体力がなくなって魔法の練習ができないなんて事もないから安心してくれ」
やはりまずは基本的な体力づくり。これを怠っているようでは話にならない。
「キリハの体力ってどうなってるの……? 底なし?」
「それはない」
「でも一周してまだ余裕あるんだよね」
「時間を考えればおそらくそのくらいがベストだ。……待てよ、飛ばさなくても三周くらいなら……」
「しなくていいよ!?」
走る距離は人それぞれだろう。
それに、例えば別の町に向けて出発する予定があるなら軽い運動程度に抑えておいた方がいい。
「まあ、私は気にしないけど……本当に大丈夫? 倒れたりしない?」
「その辺りのさじ加減は弁えているつもりだ。……昔の師匠のトレーニングに比べたら屁でもない」
本当に。虚勢や誇張ではなく。
「一体何されたの……?」
「ノーコメントで」
余計な事は思い出さない。この手に限る。
実際助けられた記憶ばかりを集めればこれ以上ないくらい頼れる大人の姿が浮かぶ。その際に採った方法はさておき。
「私でよければいつでも聞くからね? ……あ、そこの角は右だよ。そっちは大通りにつながる道」
「……助かる」
またやった。
別に道も分からない立場で先を歩いているわけじゃない。
ただ基本的に足並みを揃えているから、曲がるタイミングで見事に毎回逆を選んでしまうだけ。
少し気を抜くとすぐやらかしてしまう。走り込みの前に門への経路を身体に教え込まなければ。
「仕方ないよ。この辺りはちょっと複雑だから。それより荷物重くない? 私も持つよ?」
「このくらいなら幾らでも。次は確か……」
「パン屋さん。すぐそこだからちょっと待ってて」
そう言ったアイシャが戻って来るまで五分もかからなかった。
門から協会へ一直線に伸びる大通りの隣の道。
多少道幅は狭まってしまったが、それでも活気が失われたわけではなかった。
それどころかこちらの通りの店を目当てにしている客もいるらしい。所々に人が集まっているのが見える。
大通りの店舗と比べると値段も比較的安いように感じた。その辺りはおそらく土地代の差だろう。
「今日はありがと、付き合ってくれて。早く終わったし、これなら昼ご飯の前にちょっとだけ練習できるかもね」
「少し食事の時間を遅らせるのも手だな。出てすぐ戻るよりは」
いつもの時間に合わせようとすると二、三発が限界だ。
かと言って中途半端に回数を増やすとおそらく込み合う時間に戻る事になる。
無理に練習の時間を延ばすのは問題だが、頻繁に行き来を繰り返す理由もない。
どちらにせよ外に出るのは荷物を置いてからだろう。
――くぅ……
そう思っていたのだが、可愛らしい空腹のサインが聞こえた。
当然と言うか、俺ではない。他の通行人のものでもない。となれば残るのはただ一人。
「……知らない」
首を痛めそうな勢いで顔を背けたアイシャだろう。まだ俺は何も言っていない。
そういう日があるのも仕方がない。
少し早いが昼食を済ませるか。ここからなら協会も遠くない筈だ。
「やっぱり、先に昼食にしようか。急に何か食べたくなってきた」
「うぅ……」
そんなに恥ずかしがらなくても。無理をされるよりはその方がいい。
ついでに試験の予定が出ていないか見ておこう。
薬花以外の採取もおおむね順調。それなりの件数を達成したから条件自体は満たしている。
「じゃあ、それでもいい? ここなら協会も近いし」
「荷物は……この時間なら多少持ち込んでも迷惑にはならないか」
「だね。行こっか」
「あ、ああ」
「?」
言えない。真逆の方向に向かおうとしていたなんて。
やはり文明の利器は偉大だった。現在地まで逐次知らせてくれるのだから。
町の中で探査魔法を使うわけにはいかない。そもそも目印を用意しておかないと使ってもどこがどこなのか分からない。
「そういえば、どう? こっちの生活にはそろそろ慣れた?」
「お陰様で。ただこの町だけでもまだ行った事のない区画が多いからその内見て回ろうとは思ってる」
「じゃあその時は私が案内するね。そんなに変わったものとかないから、がっかりさせちゃうかもしれないけど」
「まさか。がっかりなんて。ここ数日歩いていてそんな風に思った事は一度もない。……道と風景を一致させておく必要もあるのに」
「そこまで?」
俺にとっては死活問題だ。
地図はごく一部にしか置かれていない。今日までの日々でそれは確信した。正直あるだけでもありがたい。
門の傍に必ず置かれている衛兵所に辿り着けるなら、今ちょうど俺達の目の前にある支部に迎えばいい。
「――あっ。もしかしてだけど、キリハって……」
「はてさて、何のことだかさっぱり。それより早く席を取ろう。いつまで空いているか分からない」
「誤魔化さなくてもいいのに。ふふっ」
……そう思われるのも無理はないか。
最低限対策を用意すれば問題はない。住宅街で迷子になるなんて事は絶対にない。
「行きたい場所があったら言ってね。私が連れて行ってあげるから」
「その気持ちだけでも十分だ。さて、今日はっと……」
やはりパンとスープのセットか。日によって味付けも変わるようだから。
悩んでいたアイシャも同じものを選んだらしい。カウンター傍の席に腰を下ろす。
ありがたい事に薬花を一〇束納品するだけでも食事には困らなかった。
さすがにどんなものでも頼めるわけではない。中には他のメニューより桁が一つ増えたような物もある。
だが今の納品ペースでも昼に一回、二人で食事をするだけなら十分な額が手に入っていた。
「ね、今日はどうしよっか? またバーリィを探す? ドクケシ草は見つからないし」
「それがいい。途中でニャールーのアレが見つかればありがたいんだが」
「そ、そっちはキリハに任せるね? 報酬はいらないから」
「見つかったらの話だ。見つかったら」
早い話が固形化した排泄物。そんなものを何に使うのかは知らない。
しかしどうやらアイシャと同じ考え方の人は珍しくないようで、他と比べて明らかに単価が高い。
なんて、俺もその辺りの葉っぱで挟んでいるわけだからあまり人の事は言えないか。
「――お願いします! そこをなんとか!」
「ごめんね。君が誰であっても教えるわけにはいかないんだよ」
何かいい手段はないものか。そんな思考は納品等を担当する窓口から聞こえてきた声に遮られる。
一体何が。突如響いた大声は支部にいる全員の関心を寄せるのに十分なものだった。
「じゃあ名前だけ! その人の名前だけでも教えてくださいっ。あとは自分で探しますから!」
「それができないからずっと断ってるんだけどなぁ……」
誰かと思えば絡まれているのは昨日話をしたばかりの人物。大声の主の方に心当たりはない。
肩にかかるくらいの茶髪。顔は見えないが、身長はおそらくアイシャとそう変わらない。
腰には短剣。鎧の類は一切身に着けていない。だが、魔力量からして後衛の魔法使いではなさそうだった。
重量のある装備を一切身に着けていないあたり、速度と手数を重視しているのかもしれない。
「あの子、どうしたんだろ……? あそこにいるのってルークさんだよね?」
「だな。依頼関係で揉めている、というわけではなさそうだが……」
詰め寄っている少女の声を聴く限り、どうやら報酬への不満があるわけではないようだった。
だからこそ余計に分からない。一体何故あの冒険者がルークさんに。しかも一人で。
「さすがに止めに行った方がいいんじゃないか、あれ?」
「大丈夫じゃない? あんまり酷かったら他の職員さんからも注意されると思うし」
「……そういう事ならもう少し様子を見るか」
下手に口を出して状況を悪化させたら申し訳ない。少女が早く引き下がる事を祈るばかりだ。
奇妙な少女の行動に、俺達はただただ首を傾げるばかりだった。




