8 銀狼族と最初の奇跡
狼の男の子はシオンという名前だと教えてくれました。
銀狼族という種族の獣人さん。
彼らのことはわたしも、第十七公爵領を調べた際に知っています。
たしか北側に広がる大草原地帯で暮らしている美しい銀狼の種族。
平原の覇者と呼ばれ、この辺りの地域では最も強く大きな勢力だったはずです。
来ました!
もふもふ狼さんたちがいっぱいの予感!
これはなんとしてでも仲良くならないといけません。
話を聞く中でわかったのは、そんな銀狼族さんが今苦境に立たされているということでした。
「リーヴァス山脈に棲む魔物――アンデッドが勢力を拡大して南下して来たんです。なんとか追い返すことができたんですけど、みんな怪我だらけで村はめちゃくちゃ。このままじゃみんな、きっと……」
『魔物博士』のスキルを持つわたしはアンデッドのことを知っていました。
知性を持たない骸骨の魔物です。
催眠耐性を持ち、状態異常系の魔法に強い一方、聖魔法に弱い。
基礎的な戦闘能力が高く、正面から戦うと一線級の冒険者でも簡単には勝てない相手だと言われています。
「それで、なんとかしようと思ったわけですか?」
「領主の家に人間が戻ってきたという話を聞いて、きっと質の良い薬も持ってきてるはずだと思って。ごめんなさい。それしか自分にできることが見つからなくて……みんなが苦しんでるのに、何もせずにいるのは嫌だから」
悲しげに目を伏せてシオンくんは言いました。
「薬ですか。ちょっと待っててくださいね」
わたしは隠し通路に入って、お屋敷の倉庫へ向かいました。
換気口の中を匍匐前進で進みます。
金属製の蓋を開けて、倉庫の中へ。
持ち込まれたばかりの物資が積まれています。
さてさて、薬は……
《中級回復薬 質:並》
ありました!
辺境領には魔物が出るということで、多めに準備していたのでしょう。
抱えられるだけの薬を手に、シオンくんの元へ戻ります。
「薬、ありましたよ」
「え……これ……」
シオンくんは信じられないという顔で言います。
「こんなに高そうな薬……もらって、いいんですか?」
あれ? 高い薬なのですかね?
これくらい、あり合わせの道具で簡単に作れるように思うのですが。
「もちろんです。領民さんの生活を守るのは領主の務めですから」
獣人さんたちと仲良くなって、たくさんもふもふさせてもらいながら自由に楽しく暮らすためにわたしはここにいます。
つまり、獣人さんたちを守ることは最優先事項。
そのためには、どんな手段でも使ってやりましょう。
実家のお薬をこっそり持ち出すくらい朝飯前です!
「でも、人間の貴族は獣人を見下していて、助けてなんてくれないって」
「そういう人もたしかにいるみたいですね。でも、わたしはその手の貴族が嫌いな側なので。ささ、付いてきてください」
「どこにですか?」
「お屋敷の倉庫です。まだ運び切れてない薬があるので」
「は、入っていいんですか?」
「いいですよ。でも、見つかると大変なことになるので、物音は立てないようにしてください」
わたしはシオンくんと一緒に、倉庫から薬を持ち出しました。
公爵家の令嬢としては問題しかない行動でしたが、偽装工作もしておきましたし、バレなければまったく問題ありません。
「こんなにたくさん……本当にありがとうございます」
「いえいえ、それほどでも。では、行きますか」
「行く? どこへですか?」
「シオンくんの村ですけど」
「え?」
「二人で運んだ方が絶対早いですから」
本当は、シオンくんの村に行きたかっただけなのですけどね。
村の狼さんたちにわたしの存在をアピールして、もふもふさせてもらえる関係作り!
我ながら天才的! 完璧な作戦です!
外に出てはいけないとクラリスに言われてますけど、緊急事態ですし仕方ないですね。ええ。仕方ないのです。
心の中で都合の良い言い訳をしてうなずくわたしに、シオンくんは真剣な顔で言いました。
「……俺、このご恩は絶対に忘れません」
わたしはわたしのためにやっているので、そんな風に言われると、ちょっと恐縮しちゃうのですが。
でも、感謝してもらえるのはうれしいですね。
少し信頼してもらえたのかもしれません。
もふもふへ一歩前進です!
「ではでは、行きましょう」
こうして、わたしたちは両手いっぱいに薬を抱えて銀狼族さんの村へと出発したのでした。
銀狼族さんの村までは短くない距離がありました。
シオンくんは近いと言っていましたが、日々草原を駆け回っているシオンくんと、インドア界のトップを独走してきたわたしでは距離の感覚がまったく違います。
はぁ……もうダメ、死にそう……。
ふらふらよろめきながら、なんとかシオンくんの後に続きます。
たどり着いたその村は――思っていた以上にひどい状態でした。
外周を覆う柵は破壊され、周囲の畑は見るも無惨に荒らされています。
そして、村の中はさらにひどい……。
住人さんたちの半数以上が重傷者で、脚や腕を失ってしまっている人もたくさんいました。
「人間が、どうして……」
狼の獣人さんたちはひどく驚いていましたが、シオンくんが薬を持ってきたことを伝えると困惑しながらも迎え入れてくれました。
協力して怪我をした狼さんたちの治療に当たります。
「すごい……なんて見事な手際……」
七歳までですが、聖女として名家の英才教育を受けていたわたしです。
書庫には魔法医学の本も多くあったので、怪我人の診療は得意分野。
「先生。この場合はどうすれば」
気がつくとわたしは先生と呼ばれるようになっていました。
みなさんはひとまずお医者さんとしてわたしのことを認知してくれたみたいです。
公爵家が持ち込んだものだけあって、薬の品質は良く、症状は目に見えて改善した人も多くいました。
しかし、それもあくまで処置が可能だった一部の人だけ。
持ってきた薬では対処できない人も多くいました。薬の数にも限りがありました。
一番多くの人を救える選択をするために、診療の中で一番わたしが行ったのは命の選別。
効率よく救うことができる人だけを優先して治療したのです。
「本当にありがとうございました。先生が来てくれなければどうなっていたか」
狼さんたちは感謝してくれましたが、わたしの心は沈んでいました。
ひとりの女の子がわたしに駆け寄ったのはそのときです。
「先生! お母さんは! お母さんはどうして治してくれないの!」
「こら! やめなさい!」
大人の狼さんにひきはがされる女の子の顔はくしゃくしゃで、わたしは自分の無力さを思い知りました。
あの子のお母さんは重症で、魔法が使えないと助けられない。
これがお姉様なら、聖魔法で女の子のお母さんを助けることができたでしょう。
しかし、わたしにはできない。
『残念ながら、この子には魔力がないようです』
わたしは魔力を持たない出来損ないだから。
地下に閉じ込められ、遂には辺境に捨てられたいらない子だから。
誰かがわたしをぶん殴ったのはそのときでした。
いや、現実に殴られたわけではありません。
しかし、彼女は現実のそれよりも重い拳で、わたしのことをぶっ飛ばしていました。
『わたしが自分のことをあきらめたら、誰がわたしを信じてあげられるのですか!』
そこにいたのはもう一人のわたしでした。
わたしのことをあきらめたくないわたしがそこにいたのです。
そうだ。
わたしは思いだします。
誰もがわたしのことを出来損ないだとあきらめました。
でも、わたしは自分のことをあきらめなかった。
だから、あの地下室を脱出してここにいるのです。
あきらめてなんてやりません。
世界中すべての人が見捨てても、わたしだけはわたしをあきらめない。
書庫の本を通して、たくさんの賢者さんが教えてくれました。
自分を信じる心だけが、わたしたちを前へ進めてくれる、と。
魔力鑑定の結果がなんですか。
みんなができないと言うからなんなのですか。
そんなの知ったことではありません!
わたしは、わたしができる全力を尽くす。
それだけです。
わたしは女の子のお母さんの傍らに跪きました。
両手を組み合わせます。
魔法の勉強はたくさんしてきました。
少しでも、ほんの少しでも魔力があれば魔法は起動してくれるはず。
王国では、十五歳の誕生日になるまで魔法を使うことは禁止されています。
身体ができあがるまでに魔法を使えば、魔力酔いにより気を失うことが多いからです。またその子の肉体的な成長が阻害されると言われていました。
しかし、そんなことはもうどうでもいい。
お願いです、神様。
少しだけ。
少しだけ、力を貸してください――
『ヒール』
魔力量が少なくても使うことができる初歩的な回復魔法。
淡く幻想的な翡翠色の光があたりを包みます。
瞬間、起きた出来事をわたしは生涯忘れないでしょう。
光はお母さん狼さんだけでなく、部屋全体まで広がって、すべてを鮮やかな色に染めたのです。
「怪我が治っていく……!」
「嘘だろ、一度の魔法で部屋全体を……」
「腕が! 腕が戻ってる!」
興奮した声は、どこか遠く聞こえました。
身体の中からあふれ出した魔力に、強い魔力酔いを起こしたわたしは、次の瞬間には意識を手放していました。