5 先輩
無事フラマリオン峠を越えたわたしたちは、日没前に辺境公爵領に到着しました。
第十七公爵領。
領地境界からすぐ傍にある小さな村に、住人は一人もいませんでした。
人間の領民たちがこの地を捨てたというのは本当のことみたいです。
畑だった場所は荒れ放題。
柵が壊されているのは魔物の被害によるものでしょう。
これでは、領主なんて本当に名ばかり。
誰もやりたがらないのは当然のことです。
「そんな……」
クラリスは声をふるわせて言いました。
「地下に閉じ込めてた上に、今度はこんなひどいところなんて……」
長いまつげに涙の粒が浮いています。
やっぱり感受性豊かな人です。
しかし、わたしの胸は期待に高鳴っていました。
もう見つからないよう隠れて暮らす必要はありません。
わたしはこの地で自由に生きることができるのです!
好きなものを食べて、やりたいことをして、行きたい場所に行ける!
こんなのもうわくわくが止まりません。
草しかないのも自然豊かってことですし、動物も獣人さんもたくさん暮らしてそう!
もふもふさせてもらえるくらい仲良くなれるよう、良い領主さんにならなくては!
そして、そんな廃村の中心に公爵家の別邸はありました。
他の建物より明らかに大きな三階建ての邸宅。
前領主もここを間借りしていたようです。
うんうん、使われていただけあって状態も綺麗ですね。
「ここがアリア様のお部屋ですね」
クラリスがローズウッドの扉を開けたそのときでした。
どたどたっと何かがあわてて部屋を駆け回る音。
足音から推測するに、小さな動物さんでしょうか。
「何かいますね。少々お待ちください」
クラリスが取ってきたのは箒でした。
「すぐに追いだしますので。待っていてください」
部屋の中に入るクラリス。
少し間を開けてわたしは、こっそり扉を開けました。
待っていてと言われましたが、開けちゃダメとは言われていません。
これをへりくつと言います。
だって仕方ないではありませんか!
どんな動物さんが入り込んでいたのか、気になってしまったのです。
果たして、そこにいたのは子猫でした。
ネズミみたいに小さなその子は、一人でこの部屋の中にいたみたいです。
お父さんとお母さんに置いて行かれてしまったのでしょうか。
潤んだ瞳と目が合った瞬間、わたしの身体に電流がはしりました。
この子はわたしが守らないといけない。
理由はわかりませんが強くそう感じたのです。
わたしは子猫を庇うように、クラリスの前に割り込みました。
「アリア様?」
「この子はわたしと同室の先輩です。だから追いだすのはやめてほしいです」
一生懸命気持ちを伝えました。
クラリスはきょとんとした目でわたしを見つめてから、にっこり微笑んで言いました。
「そうですね。先輩は追いだしちゃいけませんね」
わたしはその子猫をねね先輩と呼ぶことにしました。
栗色で折れた耳のねね先輩は痩せていて、しばらくごはんを食べていないみたいでした。
これはいけません!
栄養をたくさんつけてもらって元気な先輩でいてもらわなければ!
わたしは家から持ってきた物資の中から先輩が食べられるものを探しました。
牛乳はいけません。
『動物博士』のスキルを持っているわたしは知っています。
猫に牛乳を与えると下痢になってしまう場合があるのです。
よし、まずは砂糖水を与えましょう。
一気に飲ませると気管に入ってしまう場合があるので少しずつ。
ちろちろと真っ赤な舌を素早く動かして、先輩が砂糖水を飲んでます。
さわりたくなりましたが、我慢しました。
ねね先輩は今、元気になるためにがんばっているのです。
わたしが邪魔をしてはいけません。
しかし、それにしてもなんと愛らしい姿なのでしょう。
作りの小さなおてて。
わたあめみたいな身体。
黒真珠みたいな潤んだ瞳。
かわいいの極地!
もはや、致死量のかわいさです。
「ねね先輩はふわふわですね」
頬をゆるめて見つめていると、ねね先輩が顔を上げて「なー」と鳴きました。
わたしに何か言っているのでしょうか。
言葉の意味はわかりませんでしたが、わたしは微笑みながら目を細め、それからゆっくりとまばたきをしました。
これは猫となかよくなる必殺技なのです。
本来野生動物として敵だらけのところで生きてきた猫さんにとって、じっと見つめてくる相手は警戒の対象。
猫さん同士での喧嘩も、互いににらみ合って行うものですからね。
じっと見るのは猫さんにとっては悪印象。
反対にこうして目を細め、ゆっくりまばたきをすることでなかよくなることができるのです。
ねね先輩は一度そっぽを向いてから、とてとてとわたしの方に近づいてきました。
こ、これは……!
もしかして……!
期待に胸を弾ませるわたしに、ねね先輩は「なー」と額を押しつけてくれました。
きました!
さわっていいのですね、先輩!
わたしは小さな背中にそっと手で触れます。
もふもふの身体には生きてるもののあたたかさがありました。
ねね先輩は何度もわたしに身体をこすりつけます。
前脚を伸ばしてわたし足に添えたりします。
きっとひとりぼっちで誰かのぬくもりが恋しかったのでしょう。
そんなねね先輩の気持ちが、わたしはわかる気がしました。
「これからはわたしがいますからね、ねね先輩」
こうして、わたしは小さな先輩とルームシェアをすることになったのでした。