2 第十七公爵領への道のり
馬車での旅は快適なものでした。
公爵家の持つ豪奢で広い馬車で、わたしは長く暮らしたお屋敷を出発しました。
窓の外の景色はそのひとつひとつが新鮮です。
わたしは夢中でそこに広がる外の世界を見ていました。
あ! 猫がいます!
元気ですか、猫ちゃん?
にゃーん。
「アリア様……」
心の声で呼びかけていたら、後ろからクラリスの声が聞こえました。
わたしは恥ずかしくて、顔が熱くなりました。
にゃーんって口に出ていたでしょうか。
出してないつもりでしたが、長い地下書庫生活のせいでひとりごとが癖になっているわたしです。
「……なんですか?」
恐る恐る聞くと、
「いえ、すごく悲しそうなお顔をされていたので……」
クラリスは目元を押さえて言います。
「今はおつらいかもしれませんが、これからきっと良いことがあります。一緒にがんばっていきましょう。私も精一杯サポートしますので」
手を握られながら、わたしは首をかしげました。
悲しそうな顔?
にゃーん、とか言ってたのですが。
どういうことだろう、と窓に映る自分の顔を見て気づきました。
気づいてしまいました。
なんということでしょう!
表情筋が死んでいます!
無です!
これは完膚なきまでに無の顔です!
長い地下生活、ほとんど人に会わずに生活していたからでしょう。
これはいけません。
クラリスも心配するはずです。
だって、長い地下生活で感情を失った不憫な少女にしか見えないのですから。
実際のわたしはかなりテンション高いのですけどね。
わーい! 外だー! やったー!
……ダメです。
表情筋さん、やっぱり死んじゃってます。
「笑顔の練習、しないと」
あ、いけません。
今度は本当にひとりごとが出てしまいました。
「アリア様……!」
クラリスは涙ぐんで、声をふるわせます。
「なんて健気……! がんばろうとしてるんですね……!」
わたしと違って表情豊かな人です。
六つ年上のクラリスと出会ったのは、新入りの仕事としてわたしのお世話を押しつけられたのがきっかけでした。
以来、どういうわけかクラリスはわたしのことを気に入ってくれたみたいです。
あれは隠し通路を使ってお屋敷の探索をしていたときのことでした。
担当を変わりたくないとメイド長に強く言っていたのを聞いたことがあります。
『だってあの子、アリア様のことを不気味だって言ってました。私はそんな風に思っている人に、アリア様のお世話をしてほしくありません』
あれは本当にうれしかったですね。
他のメイドさんたちがわたしのことを不気味だって言ってるのも知っていたので。
思えば、地下で過ごしていたわたしを好きになってくれた唯一の人かもしれません。
その上、王都のお屋敷から誰も行きたがらない北部の辺境まで着いてきてくれるなんて。
お家の人とか大丈夫なのでしょうか?
少し心配な部分もありますが、でもありがたくて胸があたたかくなります。
その一方で、馬車には警戒しないといけない人もいます。
対岸の席に座って目を閉じる涼しげな顔の男性。
知的で落ち着いていてかっこいいなんて思っていてはいけません。
辺境領の調査と、わたしの監視役を任されているこの男性――ハーシェルさんは、お父様も期待する若手有望株の騎士さん。
王立騎士団にも入れると噂される剣の腕を持つ彼が、お父様からある命令を受けていることをわたしは知っていました。
『もしあれが家名を汚しかねない状況が発生したら、決して躊躇するな。殺せ』
なんとこの人は最悪の場合わたしを殺すためにここにいるのです!
もしここでわたしが馬車の窓を開け、
「みなさーん! フランベール家は癒着と既得権益の温床で、ずるして楽していっぱい稼いでます! お父様の身長は公称176センチですが、本当は155センチしかありません! お姉様はまな板なのにパット七枚重ねで偽装してます! 嘘ばっかりの最低な連中ですよ、あんなの!」
と街の人たちに叫べば、ハーシェルはためらいなくわたしを切り捨てることでしょう。
それはいけません。
やっと自由になったのです。
憂いなく幸せに毎日を過ごすために、まずはこの人を懐柔しなければ。
他にも二人、用心棒を務める男性が同行していました。
北部は他の地域に比べると治安が悪い地域です。
気温が低く農業生産性が低いことで、農民として食べて行くことができず野盗になってしまうものも多いのでしょう。
特に、北部辺境領に行くには悪名高いフラマリオン峠を超えなければなりません。
公爵家の馬車ともなると、盗賊にとっては絶好の獲物でしょうから、これくらいの警護は当然。
むしろ少なすぎるくらいでしょう。
無事何事もなく通行できると良いのですが。
「予定より遅れていますね。日暮れも近い」
「近くの街に引き返すのも難しいでしょう。日没までに絶対に峠を越えないと」
ハーシェルさんと用心棒の男性が話しています。
むむ……なんだか雲行きが……。
危機感を強めていたそのときでした。
投石が馬車の壁に当たります。
響いたのは何かが割れるような音と御者さんの悲鳴。
複数の足音と気配が周囲に殺到します。
口元を布で覆ったならず者の集団がわたしたちの馬車を取り囲みました。
本当に出てきてしまいました!
盗賊です!
「迎え撃ちます! 着いてきてください」
ハーシェルさんと用心棒さんが外に飛びだします。
数は十一人。
こちらで戦える人は三人しかいないので、一人で三倍以上の敵を相手にしないといけません。
絶望的です!
大ピンチ!
窓の外で戦いが始まります。
最初に悲鳴を上げたのは盗賊の方でした。
戦闘に特化した技能を持っている三人なので、個人の技能としては盗賊たちより上ということでしょう。
しかし、それでも数の差は戦闘に置いて非常に大きな利を生みます。
難解な戦術書や歴史書を多く読み、『軍師』スキルを持っているわたしは、この戦況が厳しいことを理解していました。
そして、用心棒さんの一人が左肩をおさえて、崩れ落ちます。
そんな!
絶体絶命!
折角地下から脱出したのに、わたしの人生はここで終わってしまうのでしょうか。
そんなこと絶対に許せない!
わたしはどんな手を使ってでも、この状況を切り抜けてやるからな!
そう覚悟を決めたわたしの視線の先で、鮮やかな剣筋が宙を舞いました。
三人の盗賊がうずくまっています。
ハーシェルさんは汗ひとつかかずに言いました。
「どこからでもかかってきて構いません。貴方の人生を今日で終わりにしたいのなら、ですが」
盗賊たちがたじろぐのが雰囲気でわかりました。
「なんて、速い一振り……」
信じられないという顔でつぶやくクラリス。
違う、とわたしは心の中で思いました。
一瞬であの人、三回切ってます。
「退くぞ。数で押して勝てる相手じゃねえ」
盗賊たちは撤退を選択しました。
人気の無い峠道に、わたしたちだけが残ります。
「すごいな、あんた」
切られた腕を抑え、顔をしかめて言う用心棒さんに、
「いえ、そのようなことは。それより貴方のことです」
手際よく応急処置をするハーシェルさん。
「傷はそれほど深くありませんね」
「ああ。だが、おそらく剣に毒が塗られてる」
「北部の民が魔物と戦う際に使うものですね。引き返して、どこかの集落から解毒剤をもらってくるしかありませんか」
わたしはお飾りのいらない子枠なので、この一団の決定権を持つのはハーシェルさんです。
選択自体も正しいものだと思いました。
ここで用心棒さんの身体よりも、予定通り目的地に着くことを優先するのは、いくら貴族であっても人として間違った行いです。
「あの、ちょっといいですか」
ですが、わたしにはひとつ事態を解決するアイデアがありました。
「わたし、解毒剤作れます」