ティアル、走る。
ティアルは、『白髪の宿命』を初めて聞かされ、そして、その宿命から救われた。
それは旅の話を聞きたいと願った、小さな少女の屋敷での事だった。
「お父様、本当に体が軽いの。昨日までの体とは全然違ってるの。」
少女の屋敷から自宅になっている旅馬車に戻るティアルは隣を静かに歩く父親の横で、軽く跳ねながら嬉しさを全身で表していた。
ティアルは跳ねるのを止めて、ゆっくりと父親の歩幅に合わせる。
「…お父さんは、私よりもずっと苦しんでいたのよね。…ありがとう。」
「…そうだな。でも、諦めて受け入れていた。毎日不安で仕方がなかったお前に、俺はずっと嘘をついて来たんだ。」
「ううん。それは私の為に嘘をついてくれてたんでしょ。知っていたら…私は世界を呪っていたかもしれない。笑ったり踊ったり、お父様と旅をしたいとは思わなかったと思う。
だから、ありがとう。おとうさん。」
ティアルの笑顔に、父親は躊躇いながらも笑みを返していた。
ティアルが生まれた場所は、王都オールストから遥か西。それは魔族領との境目に近い場所にあるロマイツ領の小さな村。
母親はティアルが生まれてから2年後に病気で亡くなっていた。
狩猟で生計を立てていた父親は、娘を背負いながら狩人としてなんとか生活を続けていたが、
白髪の子供を好ましく思っていない村人達から逃げるように村を出ることになった。
馬車に戻ったティアルは、「夕食にどうぞ。」と手渡された紙袋を広げる。
桃と蜜柑と林檎がテーブルの上を転がった。
「あっ! 待って…」
落ちそうになる林檎を掴んだティアルに、笑みが零れる。
「今日の夕食は林檎に決めました。」
日が落ちてから父親が屋台で買ってきた串焼きと、切り分けた林檎で夕食を済ませたティアルが後片付けを始める。
「ティアル…明日の早朝にこの街を出る。」
思い詰める父親の横顔に、ティアルは「どうして?」と、静かに問う。
「なぜこの街なんだろうな…」
父親の答えに、ティアルは首を傾げることしか出来なかった。
父親が娘の宿命を知ったのは6年前のこの街『クラリム』で、今回と同じ祭りに旅芸人として初めて街に訪れた時だった。
「白髪の少女とは珍しい。貴方が少女の父親ですか?」
そう声を掛けた身分の高そうな男に、父親は「はい。」と答えた。
その男から聞かされた話に父親は信じられるかと反発し、敵意を返す。
「まあ、すぐに信じろとは言いませんが、『王都オールスト』の大聖堂を訪ねてみれください。私の言葉が真実だと理解されるでしょう。その時は、私の提示した商談に興味を持ってくださったなら、ここへお越しください。」
手渡された名刺には、店の名前と場所。そして『クラリム貴族商会 会長 ランドル・レツナ・オロナ』と書かれていた。
それから約2ヵ月後。
ドグラス・オールスト国王の生誕祭で『王都オールスト』に訪れたティアルと父親。
父親はティアルを宿代わりでもある旅馬車で待たせて、大聖堂の神官から白髪の話が書かれた古い本を見せられる。
「これは現実に行われた、事実だけが記載されています。」
過去に一度、王家の中に白髪の男の子が生まれた。
年を重ねるごとに病弱になっていく息子を救いたいと、王家は『真実を視る目』を持つ神官に、何かの呪いなのではないかと訊ねた。
神官は「はい。」と答え、しかし「いいえ。」とも答える。
「これは試練です。赤き瞳をした白き獣を見つけ出し、その生き血を一口飲ませてください。でなれば、白髪の宿命で生まれた子は十数年の刻しか生きられないのです。」
王家は『運命を導く目』を持つ神官から白き獣の居場所を聞き出し、白き獣を生け捕りにすることに成功する。
12歳になっていた少年が生き血を飲むと、それまで灰色だった瞳が真っ赤な宝石のような瞳になり、「体が熱い。体が軽い。」と言葉を漏らす。
その少年はその後、誰よりも強靭な体で王国の守護者となった。
父親は、文章を読み終えると膝を落としていた。
「娘は…」
「運命を導く目を持つ者は今は居ません。居たとしても白き獣を探すには数年の歳月と、千の兵が必要でした。」
絶望的だという事実を告げる神官に、父親は涙を流すだけしか出来なった。
「白い髪で生まれる子供はそれ以前から、そしてその後も世界のどこかで生まれています。ですから私達は、赤き眼の白き獣を生きたまま捕らえて王都まで連れてくる。という依頼をずっと冒険者ギルドに出しています。
ですから、望みは捨てないでください。
その日をこの地で待てとは言いません。今日の生誕祭ように、一年に一度だけで良いので、娘さんと一緒に、この大聖堂で祈りを捧げに来てください。
白き獣が手元にあれば、私達は必ずその少女に声を掛けるでしょう。」
それは大聖堂の思惑が入っていた。
白髪の者がその試練を越えた先で得られる、常人離れした身体能力に。
だから、『白髪の宿命』については、公にはしていない。
白き獣と白き者を独占する為に。
ティアルの生まれた場所に教会があれば、父親がどこかの教会へ娘を連れて祈りに行っていれば…それは大聖堂へと知らされ、『白髪の宿命』をもっと早くに知り得ていただろう。
「では、毎年の生誕祭の日に。私と娘は旅芸人として暮らしていますから。」
父親はそう言葉を残して大聖堂を後にした。
「ティアル、病気も治った事だし、旅芸人としての生活をやめて、どこか小さな街で暮らす事にしよう。俺は猟師の仕事に戻って、お前は街で働くんだ。」
クラリムの東広場にある旅馬車の中で、父親の言葉にティアルは驚き、そして寂しそうに下を向く。
「私…お父さんと旅をするのが好き。私の踊りを見て、笑顔になってくれる人達が好き。」
「そうか…じゃあ、あと1年だけ。1年だけ旅を続けよう。」
父親のどこか辛そうな笑顔に、ティアルは「うん。」と答えた。
「ハレッツさん、それは約束と違いますよ。」
布で閉じられていた馬車の入り口が開かれ、一人の男性が馬車へと乗り込んで来る。
突然の訪問者に、ティアルは驚きの表情を向ける。
「その眼…なるほど報告通りですね。…さてこれは困った。今更契約を破棄されると、私が困るのですよ。ねぇ、ハレッツさん。」
背が低く肥満体で、それは誰が見ても背筋が寒くなる程のいやらしい顔を見せる初老の男の言葉に、ティアルは父親の背中へと逃げ隠れる。
「無理です。娘は見てのとおり死ぬ運命から救われました。ですから貴方との約束は無かったものとしてください。」
父親は焦っていた。
いくら当人がいる街だといえ、娘の病気が治った事を知るには早すぎると。
「おやおや、本当に親とは身勝手な者ですね。娘の遺体を保存液で剥製し、それを私が白金貨20枚で買う約束をしていたのに。」
「娘の前でそれを口にだすな!」
声を荒げていた父親に、男はさらに言葉を続けた。
「まあ…致し方が無いとしても、では、養子の話というのはどうでしょうか?」
「何を言っているっ!」
「ですから、娘さんを今から私の養女にして頂きませんか。勿論、病気が治ったのですから、白金貨40…いえ、50枚を差し上げましょう。」
「なっ!」
「大丈夫ですよ。娘さんは私が責任を持って幸せな人生を約束します。貴方はこれからの余生を楽しんでくだされば。」
「いや…私は…」
「娘さんには貴族としての教養を身に着けて貰って、伯爵…いえ、王族の方との縁談も夢ではありませんよ。貴方も第二の人生を楽しんで下されば良いのです。」
男は、背後で待機していた執事に手を差し出し、執事は持っていた鞄から布袋を取り出す。
「どうぞ確認して下さい。白金貨50枚が入っていますから。」
男が差し出す袋を父親は受け取り、静かに中身を確かめる。
「…ティアル。この方の養女になって幸せに暮らしてくれ。それがお前の為だ。」
「お父さん! いやっ! いやよっ!」
「裕福な生活が出来るんだぞ。なっ! これはお前の為なんだ!」
背中にしがみ付くティアルを無理やり剥がし、男の前へと差し出すハレッツ。
「そうですよ。これは貴女が幸せになる為に選んだことですから。」
後ろに控えていた執事の手がティアルの手を掴む。
「いやっ! 私は養女なんてならない! 放してぇー! んっー!」
執事がティアルを締め上げるように抱きかかえ、口を塞ぐ。
護衛を兼ねた執事である男の体格は兵士や騎士と同等であり、小さな少女が抵抗など出来る筈も無かった。
「あまり声を上げないで頂きたい。私は穏便に済ませたいと願っているのですからね。私の誠意を聞き入れないというのなら…私としても、手荒な手段に出るしかないのですよ。」
「ティアル、大人しくしなさい。」
父親の言葉にティアルは暴れることを止め、声を抑えられる中で、嗚咽を漏らし泣いていた。
「ティアル、幸せな人生を送ってくれ。」
執事に抱きかかえられたまま連れ出されたティアル。
「それでは旦那様。私はこの少女と先に屋敷へと戻ります。」
「ああ、暖かいベッドと、メイド達に娘の世話をさせてくれ。」
「承知いたしました。」
ハレッツは袋を握り締めながら、娘を静かに見送る。
「何故、娘の病気が治った事を知ったのですか。」
歳からくる腰の痛みを庇う仕草を見せる『クラリム貴族商会 会長 ランドル・レツナ・オロナ』は獲物を狙うゴブリンのような笑みを浮かべる。
「我々が、貴方達を野放しにするとでも? 貴重な商品を見守る者を雇っているのは当然でしょう。まあ、人形としての価値はなくなりましたけど安心して下さい。あの容姿があれば、王族のご子息の目に留まるのは確実ですからね。」
夜の騒動。
東広場には、ティアル親子と同じように旅馬車で寝泊りしている旅芸人達が十数名程居る。
それに加えて、街の住人達も祭りの夜ということで、普段よりも人が居る東広場。
その中で起きた騒動に誰もが意識を向けるが、視線を向けることはない。
それは、『ランドル・レツナ・オロナ』の事を知っている者も、そうでない者も、目の前の出来事に係わりたくないという意思の表れだった。
住宅街の夜道を歩く屈強な体格をしている執事に、手を握られた少女の顔を見れば、大抵の人間は目を逸らすことになる。
「放して!」
ティアルは渾身の力で地面を蹴って、繋いだ手を引き抜くように後ろへと跳ぶ。
「なっ! どこにそんな力が!」
一瞬の出来事に執事は体勢を崩す。
ティアルは人通りの少ない路地を、好奇な目で見る人達を避けながら走った。
走った記憶など無かったティアルだったが、その足は軽やかに地面を蹴っていく。
だがその表情は苦しく、止まらない涙を流し続ける。
父親が娘を売る約束をしていた事実に驚き、悲しみ、絶望と思うほどの感情に押し潰されそうになりながら、ティアルは目指した。
「なにか困ったことが起きたら、この屋敷に来なさい。」
帰り際に、ティアルにだけ聞こえる、小さく囁く女性の笑顔だけが、今のティアルを動かす微かな希望となっていた。