5ミニッツ
自分でも気づかないうちに、まばたきもせず時計を見つめていた。もうすぐだ、もうすぐやってきてしまう。カチ、コチ、コチ……。頭のなかで秒針の音が大きく響く。
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン。
ああ、また恐怖の五分間が始まってしまった。さっきまでしんとしていた教室がざわめき、起立、礼の号令が私にとどめを刺す。この騒音に耐えなければ。
私が世界で一番嫌いな時間、それは授業と授業の合間の五分休みだ。
ふつう、子どもにとって休み時間は楽しいものだと思う。私も前はそうだった。仲のいい子の机に集まってみんなでしゃべったり、音楽を聴いたり、いっしょにトイレに行ったりして。
はじまりはちいさな「仲間外れ(ハブ)」だった。小学校も高学年になると、みんないっしょでわきあいあいなんてことはない。私はクラスでもそこそこのレベルの五人組に入っていて、そのなかでぐるぐると「ちょっと外されるメンバー」がローテーションしていた。
といっても、本気で無視するわけじゃない。さりげなく声をかけなかったり、「ほかの四人の方がもっと仲いい」雰囲気を出したりするだけ。なんでやるのかはわからないけど、私だって、マンネリを解消するためには仕方がないと思っていた。この一年間「仲良しグループ」でいるんだから、ちょっとの変化はあった方がいいんじゃないかって。リーダーのナオミには、逆らわない方がいいに決まってるし。
でも、ずっとハナエだったから。
一ケ月半のあいだ、ずっと。これは新記録だった。だから私はちょっとかわいそうになって、正義のヒーローみたいな気分でハナエに話しかけちゃったんだ。ナオミになんの断りもなく。
次の日から、私はハブにされた。ううん、ハブどころじゃない。口もきかない、目も合わせない、まったくの無視だ。
ほかのグループの人たちにも話しかけてみたけど、今更混ぜてもらえなかった。でも仕方ないよね。どこにもニンゲンカンケイってもんがあるし、ナオミがその子たちの悪口を言うのを、これまで私は笑って聞いていたんだから。
グループを外れたときから、私は誰とも話せなくなった。
五分休みは一日に何回も、容赦なく襲ってくる。他のひとたちがあんなに楽しそうでなければ、私の孤独も目立たないのに。わいわい、ガヤガヤ、クラスメイトが楽しそうに話す声をBGMにしながら、机に突っ伏して寝るくらいしか、私にはできることがない。
昼休みと違って、図書室に逃げ込むような時間もないし。
毎回トイレに駆け込めば、くさそうなアダ名で陰口を言われるだろうし。
着替えや教室移動のあるときは、まだましだった。やるべきことがあるってしあわせだ。そのしあわせをかみしめながら廊下を歩く。でも、ほかのクラスの子から「一人で移動しているさみしい子」って思われてるんだろうな。それはやだな。
できるだけ人に見られないように、移動は常に前のめりで早歩き。だから、移動先の教室には誰よりも早く着いてしまう。
今日の三時間目の理科は実験室に集合だった。休み時間の始まりに教室を出れば、一番乗りのはず——と油断していた。
力いっぱい扉を開くと、前のクラスの人だろうか、見たことのない生徒が座っている。
同い年くらいの、ひょろっとやせた男の子。一言でいえば、地味。二言でいえば、んー。やっぱり地味。
ちらりと見て、自分の席に座る。この人、早く教室に戻ればいいのに。教科書、ノート、筆記具を並べて、授業まであと二分。寝たふりでもしようかな……。
「あのー」
目を開けると、彼がびっくりするほど至近距離にいた。何?! 思わず身構える。
「ぼくのこと、見えるの?」
クラスメイトのガヤガヤが少しずつ、廊下から近づいてきた。
「ぼくのこと、見えるんだね?!」
ガヤガヤ、ガヤガヤ、ガラッ。騒がしい音たちが、到着した。
さっきから、変な汗が止まらない。指先もぶるぶるふるえて、これじゃ実験結果が変わっちゃうかもしれない。だってそこに知らない人がいるのに、生徒も先生も何もないかのように授業を進めている。彼がいるのに。授業を無視して座ったり、歩き回ったりしているのに。
——ユーレイ……なんだろうか?
小説やドラマ、映画の中だったら当たり前に受け入れる設定だけど、全然信じられない。だってそんなの作り話のはずだ。死んだ人がみんなこの世に残ってたら、世の中ユーレイだらけになっちゃうし、彼はどう見てもふつうの男の子。のろったり、たたったりなんてしなさそうだ……。
机では、実験班のみんなが結果をまとめている。私は頭のなかがぐちゃぐちゃで、何の実験をやっているのかすらわからなかった。
いつも以上に五分休みがくるのが怖い。
彼がこの辺りをうろうろしているのは、きっと私の授業が終わるのを、大真面目に待っているんだ。気のせいか、授業が終わりに近づくにつれてソワソワし出したように見える。あと二十分……十分……五分……。
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン。起立、礼、ありがとーござーましたー。ワー……。
来た。どうしよう、動けない。
「ねえ、お願いだから怖がらないで!」
これ、悪夢なんじゃないだろうか。
この日の五分休みとお昼休み、それからまた次の五分休みを通して菅健人|(という名だという)が説明したところによると(彼は話ベタで、回りくどく繰り返したところもたくさんあったが、私はなんとか状況を理解した)、彼はいま幽体離脱という状態で、体は眠っていて意識だけがそこを抜け出しているらしい。相手が死んだ人でなかったというので、だいぶ気が楽になった。そうでなきゃ、まともに話なんて聞いてられない。
小五の夏、交通事故にあった彼は頭を強く打ったためずっと意識が戻らず、今も病院に入院している。同級生は現在中一、私の二コ上の代らしい。
「ぼーっとしていて車にはねられたんだけど、体に戻ろうとしても全然だめ。家族にも、誰にも見えないみたいでさ」
病室に飽きた彼は外へ出てきたのだが、驚いたことに、彼の魂はこれまで同様、徒歩移動しかできなかった。
「瞬間移動も飛行もできなくてさ、もうがっかりだよ。あ、でも映画館はけっこうもぐり込んだよ。電車もタダ乗り!」
そうして彼はアイドルの家をのぞくことも世界中を飛び回ることもなく(私なら絶対やる)、自分の通っていた学校や家、そしてその周辺をうろついているのだという。
「そのうち体に戻れると思ってたんだけど、もうだいぶ経っちゃって。それでさ、考えたんだよ。ぼくのことが見える人がいたら、それは神様のおぼしめしで、その人の悩みを解決したら元に戻れるんじゃないかって。だから……」
だから、何?!
「これからよろしくね、戸川さん」
絶対に嫌だ。
「横山先生、相変わらず話長いね」
『うん、意味もないのに』
「先月恋人にフラれたみたいだよ」
『え、いたの?! どんな人』
「犬の散歩仲間で、けっこうキレイだったけど。恋といえば、戸川さん!」
顔をちらりと菅くんの方へ向ける。改まって、なんだ。
「何か悩んでることないの?」
『ない』
嫌だ嫌だと思いながら、結局菅くんの魂につきまとわれたまま二日が経ってしまった。クラスで無視されている身としては、自分が誰かを無視するのは、とても気分が悪いしね。
菅くんは五分休みにもすかさず話しかけてくる。なんたって、この世でコミュニケーションがとれる相手が私しかいないのだ。それは私だって、同じようなものだけど。
私からはくっきりと見える菅くんの姿が、他の人に見えていないのがやっぱり不思議。これまで霊感があるなんて思ったことなかったけど、もしかして私には何かの力があったとか? それとも、相性みたいなものだろうか。
とにかく、誰もいない空間に話しかける変な人には見られたくないから、菅くんとの会話の返事は紙に書いて見せることにした。でも、時々ふつうに口に出してしまって、すごく恥ずかしい思いをする。
テレパシーとかできたら楽なのに、とボヤくと、ぼくもそう思うとボヤき返された。生きているときにできないことは、魂だってできないのだという。そういうものか。
誰からも見えないだけで、生きているのと変わらないんだな。
それってどんな気分なんだろう?
「戸川さんの悩みは——」
好きな音楽の話と先生のうわさ話に続いて、それはいきなりやってきた。
「学校でだれとも話さないことと、関係があるの?」
菅くんは、地雷を土足で踏みつけた。
これまでトイレや体育の着替えのときには必ずどこかに行ってくれていたし、学校で別れたあと、家までついてくることもなかった。だからけっこうデリカシーのある人間かもなんて、油断していたんだ。
こんなに無害そうな顔をして、直球で、つっこまれたくないことを聞くなんて。
私がずっと返事しないことで、菅くんは答えをイエスと思ったようだった。
「戸川さんは、このクラスの中の何人と直接話した?」
話したわよ、勇気を出して。うまくいかなかったけど。『7』とちいさく紙に書く。
「クラスが三十八人だから、五分の一弱だね。男子とは話した? あのへんの女子は?」
少し考えて、首を横に振る。期待が外れるのはもうたくさん、そう思ってからは、誰とも口をきいていない。私の勇気は、もう枯れ果ててしまったんだ。
「じゃあぼくがこれから三つ課題を出すよ。まず初めは、観察すること」
『カンサツ?』
「よく見て、クラスメイトについて知るんだ」
聞き耳をたてるなんて下品だって、お母さんに怒られそうだ。
「いい刑事は、観察だけで犯人を見抜けるものだよ」
別に、刑事になんてなんないけど。でも暇つぶしにつきあってあげてもいいかな。私だって暇なんだし。
よーく見てみると出てくる出てくる、見えてくることはいっぱいあった。
横山先生は失恋のショックか、授業もちょっと投げやりな様子で、普段の一.五倍小言が多くなっている。
ナオミはエリとカナと相変わらずつるんでいて、ハナエは三人に一生懸命話題をふっているみたい。
男子はクラブ活動でサッカーをとってる子たちが一番目立つけど、女子と違っていつもいっしょに行動してるってわけじゃない。
女子のグループは全部で五つ。ナオミたちの四人組のほかに、運動のできるボーイッシュな二人組、ファッション好きの派手な四人組、ドラマ好きの気さくそうな三人組、マンガ好きで勉強のできる静かな四人組だ。
見ていてわかったのだけど、同じグループでもすごく気が合っているところと、そうでもないところがある。学校が適当にシャッフルしたメンバーのなかに、自分にぴったりの友だちがいるなんて、ありえないのかもしれないな。
みんなが折り合いをつけながら、何かを選んで生きているんだ。
私はできるだけ一人一人をていねいに見るようにした。見えていなかった世界が少し開けてきた気がした。
ある朝登校すると、菅くんの体がすこーし、薄くなっているように見える。目をこすって確かめたけれど、やっぱり足下の方が、うっすらかすんでいるみたいだ。これってもしかして——。
『ねえ! 体に戻りかけてるんじゃない?!』
菅くんは私に指差された足先をじっと見つめる。
気のせいか、あんまり嬉しそうじゃない?
「じゃあ、次に進もうか。観察して、話したいと思った相手に声をかけること」
『みんなに、とかじゃなくていいの? 話したい人だけ?』
「無理して合わせるなんて失礼だよ。戸川さんはそういうの、全部顔に出るし」
そうなのかな。前に話しかけたとき、マンガやバンドの話に全然ついていけなくて、相づちしか打てなかったことを思い出す。
でもそのころは、クラスでどのグループに入りたいか? とは考えたけど、だれと話したいか? なんて考えたことがなかった。でも今は言えるよ。だてに観察していたわけじゃない。
『穂坂さんと猫の話がしたい』
「よーし、じゃあ行ってらっしゃい!」
いきなり私に話しかけられて最初は戸惑っていた穂坂さんも、大好きな猫の話となると笑顔を見せてくれた。ほかの友だちも、穂坂さんの飼い猫の画像を見に集まってくる。
なんだ。仲良くならなきゃなんて気負わなければ、こんなにふつうに話せたんだ。
すぐにグループに入るなんてムリだけど、クラスに話せる人が一人できた。
それだけで、私にとっては大収穫だよ。
次の朝も、穂坂さんにはちゃんとあいさつ。自然と周りの子からも反応があった。菅くんは私の声かけを、満足そうに見てくれている。頑張ってみてよかったと素直に思う。一昨日までの教室とは、まるで別物だ。
そしてとうとう、最後の課題が発表された。
「最後に、ハナエちゃんに謝ること」
なんで? ゆるんでいた心が一瞬で凍りついてしまった。私はハナエに何も悪いことをしていない。助けたいと思っていたのに、私を切ったのはハナエだ。謝るどころか、許せない。
『イヤ』
紙いっぱいに大きく書くと、菅くんのことを見ないように、机に突っ伏した。なつかしいな、このかんじ。自分の世界に閉じこもるかんじ。
その日から、菅くんはハナエのそばにずっといるようになった。もちろん彼女は気づかないけど、私は気になってしょうがない。休み時間、授業中、給食や掃除の時間まで、つい目で追ってしまう。
考えてみれば「観察」の間も、つらくてハナエのことはあんまり見ることができなかった。あんな顔をしていたっけと、改めて感じるくらい。
そうしてハナエを見ているとわかってきた。あのころハナエがどうにかハブから抜け出そうとして必死だったこと。彼女は私に話しかけられて、二人で孤立することなんて、望んでなかった。ただ、グループの一員でいたかったんだ。
もしかしたら、私は嫌になっていたのかも。自分の過ごす日常が。雑誌で見た新商品の話、水曜日のドラマの話、ほかのグループのうわさ話、ナオミとエリとカナが交わす小さなクスクス笑い、そしてハブ。
もしかして私は、そこからひとりで抜け出すのが怖くて、ハナエをパートナーに選んだの——?
私はハナエに話しかけたとき、いっしょにハブられて二人きりになったっていいと思ってた。でもハナエはそんなこと望んでなくて、グループに戻ると早速私の悪口を言い始めたんだ。
ひとりよがりの友情物語、青春ごっこ。我ながらめちゃくちゃカッコわるい。私はあのとき、私より立場の弱いハナエなら、きっと「親友」の役を引き受けてくれると思っていた。ハナエの気持ちも考えないで。
放課後少し残ってもらえるように、ハナエに頼んだ。無視されてしまったけど、仕方ないのかな。一人残った教室には窓から真っ赤な夕日がさして、とてもきれいだ。
明日もチャレンジしてみよう、そう思ったとき、居心地の悪そうな顔をしてハナエが教室へ戻ってきた。そうだよね。私と二人でいるところなんて、見られたくないはずだ。
「来てくれてありがとう。あのね、ハブになったとき、かわいそうって思ってごめんね」
うまく言えなくてもどかしい。でも、とにかく謝らなくちゃ。
「ハナエの気持ちも考えずに、利用しようとして、ごめんね」
気持ちが高ぶって、顔が真っ赤になっているだろう。でも、きっと夕日が隠してくれる。
ハナエは「何言ってんの?」と言って、変な表情で帰っていった。また悪口を言われちゃうかもしれないな。でも、私の心はすっきりだ。
廊下に出ると、菅くんが立っていた。ずっとそこで待っていてくれたみたいだった。
謝ったよって報告すると、こっちが恥ずかしくなるくらいほめてくれた。
「ぼく、さ」
だいぶうっすらと透けるようになった菅くんが、切なそうに口を開く。
そう、これが最後の課題。お別れのときがやってきたんだ。
「ずっといじめられてたんだ。クラスのリーダー三人組に。だれも助けてくれなくて、五分休みのたびに怒鳴られたり、殴られたりしてた」
菅くんの足下が、また少し色を失っていく。
「車にひかれたとき、ぼーっとしてたって言ったけど、あれ嘘。本当は、車の方に歩いて行ったんだ」
ひざも。
「結局その車は逃げちゃって、ただの事故ってことになったんだ。家族も自殺なんて思わなかったし、いじめてた連中も何とも思ってなかった。ダッセーとか言って終わり」
太ももも。
「あいつら今は彼女とか部活とか、毎日すごく充実してるみたいでさ、何やってんだろって思った。こんなやつらのために、なんてことしちゃったんだろうって」
手の指も。
「ぼくも戸川さんと同じ。ずっと、休み時間が怖かったんだ」
菅くんの体が消えていく。
「これでもう、思い残すことはないよ」
「ちょっと待って。死ぬみたいに言わないでよ」
「でも、自分でもわかんないんだ。これからどうなるのか」
だって、生き返るために私の悩みを解消するんでしょ? そう言ってたじゃない。
「幽体離脱って、説明書も何もないからさ。何をしたら生き返れるとか、本当にわかんないんだよ」
じゃあ、なんで……。
「ぼくがあのころ言ってほしかったこと、だれかに伝えたかったんだ。人生はここだけじゃないし、今だけじゃない。絶望するなんて、まだ早いって」
どんどん菅くんの体が見えなくなる。そうか、本当は怖かったんだ。だから自分の足先をじっと見つめてたんだ。
「そうだ、中学まで確かめにきてよ。生き返ってたら、三年になって待ってるからさ」
こんなときだというのに、ふきだしそうになる。本当にツメが甘いんだから。もし学区が違えば中学は同じじゃないし、丸々一年以上休んでいる菅くんは、たぶんそのころも三年生になれていないはずだ。
でも、ちょっとでもまた会える可能性があるなら——。
私が中学にあがるまで、あと一年と四ヶ月。それまで私も、かっこわるいほどあがいてみせるよ。本当の友だちができるまで、めげたりなんてしないんだから。
「うん、また会おうね」
お互い、休み時間を目一杯楽しめる人間になって、再会しようね。
菅くんの情けないような、困ったような笑顔が、風にとけて消えた。