三話
彼女の名は誇り高き白薔薇。
「葵さんは彼氏とかいないの」
もくもくと湯気の立ち上る二人分のそれを目前にして、空っぽになったお腹がなるだろうかと言う時にその言葉はやってきた。アオイサンハカレシトカイナイノ。
「い、いないです」
少し動揺してしまったが、そう言ってそのまま箸に手を伸ばす。近所でも有名な名店と言うラーメン屋に男女が二人。一方は先輩で一方は後輩と言う、よく見慣れた風景だ。
「そうなんだ、じゃあ好きな人とかは?」
私に続いて彼は箸に手を伸ばす。後ろで戸の開く音がして、厨房で腕をふるっている店長らしきおじさんが威勢良く声をかけた。私が少し返答に困っていると、彼はいただきます、と呟いてラーメンをすすり始めた。
心が重たい。
欧州のかのプレイボーイは男女の交わりや愛情を、食事や食欲と同じものとしてみなしていたらしい。大きな口に吸い込まれていく茹でられた野菜達、スープと絡み合った中華麺、熱気のこもった店内、一口ごくんと飲み込んだ後の感嘆の一言。うまい、と彼は言った。
普段は何気ない所作が、まるでヌガーの様にべっとりと脳内にはり付いている。
「好きな人は、います」
隣に座っている彼から目線をラーメンに戻す。そういえば何も手をつけていない。
「へえ、どんな人?」彼は美味しそうに野菜やメンマを口に放り込んでいく。
「好きな人に好きな人がいて、それで私は片思いというか」
「意外、そんな風には見えないな」
そうですかね、と言った後ラーメンをすする。前々から行きたいと思っていたんだけど、女性には入りづらい雰囲気だったので良ければと彼にお願いした。彼は快く承諾してくれて、今現在に至る。
この人は色気とか性とか、そういった関係を想像させない。そういう意味では優しい人だと思った。でも、こう言う人にも性欲がちゃんとあって、私とこの人は男と女で。素知らぬ顔で私に下心を抱いていてもおかしくはないのだ。そう思うと、自然と身が硬くなる。防衛本能だ。
「勝率低いんです、私の恋って」強がってそう言ってみせた。家族の様に接してくれる彼に感謝の念を抱き、それと同等の想いを抱いてくれている事を望みながらスープをすすった。
お腹を内側から温め、食欲を満たしてくれる美味しいラーメンは情事のそれを簡略化した様で。お金を払い、注文をし、食べ終わると何も無くなる。跡形もなく、形跡は自分の内側に残る。
本当に、何の爪痕も残らないんだ。そう思うと自分が惨めに感じられ、気がつくと大粒の涙が頬を濡らしていた。
「え、ちょっと、葵さん、」
彼が慌てた様子でハンカチを取り出す。私はそれをありがたく受け取り、ハンカチで顔を覆った。
涙は止めどなく溢れてきて、嗚咽まで出てきた。それは確かに出来てしまった傷を見て見ぬ振りをした結果、突然ひび割れて痛み出した心の悲鳴だった。こみ上げる嗚咽を止める事ができない。おろおろする彼は、ご馳走様でしたと言い、カウンターに二人分のお代を払って私の腕を掴んだ。
「ちょっと、夜風にあたろう」彼は優しくも、強引に店外へ私を導く。ああ、この人は私を無理矢理抱いたりしない。泣きはらした目で彼の背中を見つめた。ホテルに連れ込んだり、ブラウスを引きちぎる様に(あの人との情事で、ボタンはちぎれてしまった)私を剥いたりしない。
本当の優しさというものは、性行為時の愛撫や甘い囁き等では無いのだと痛感すると同時に怖くなった。本当の優しさがそれなのだとしたら、あの人と私を繋いでいるものは何の意味も無いのだ。それは夜の帳に縫い付けられた、哀しい夢の様なものなのだろう。そう思うと、余計泣けてきて私の腕を確りと握ってくれている彼に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
夜も更け、人気の無い公園に入り、そこのベンチに私を座らせる。続いて隣に彼が座り、ただ黙って背中をさすってくれた。そうすると高ぶった感情は、暫くして落ち着いてきて、前髪越しに彼と目が合った。その時の彼の目には同情の二文字でしかなかったのかも知れない。あの時のあの人と同じ感情を抱いたのかも知れない。けれど、一瞬目の前が暗くなったかと思うと、彼はゆっくりと私の前髪をどけてそこに軽く口付けした。
驚いて目を見開いてぽかんとしていると、彼は「家まで送るよ」と低い声で言った。そして私は無言でそれにうなづき、こう言った。
「本当にありがとう、あなたの手をつないでもいいかしら」
彼はもちろん、とだけ言って私の手を握った。それは情事で火照った体よりも、もっと優しい温かさを持っている。
その温かさを私は忘れないだろうし、この手を離してはいけないと思い、ただ黙ってその手を握り返した。