一話
「姐さん」
僕は彼女をそうやって呼ぶのが好きだった。確かに熱を持ってしまった僕の心よりも、そちらの方が僕と彼女の関係性を浮き彫りにしている、そう思っての事だった。
「名前で呼びなさいって言ったでしょう」
彼女、姐さんは僕がその呼称を使うと少し不機嫌になる。僕はそんな事は知っていて、何度も馬鹿の一つ覚えみたいに彼女の弟になりたがった。彼女は気紛れに買ってきた赤い花、平たく言うと薔薇を剪定しながらそう言った。錆びて茶色になった、大振りの鋏を使って薔薇の棘をちょんちょんと切っていく。彼女の手によって気高く咲いていた赤い薔薇が、おとなしく慎ましいだけの赤い花になっていく。その様を、少し離れた所からじっと見ていた。手を怪我しないだろうか、と心配に思ったけれどその心配は不必要だと言わんばかりに手際よく薔薇の剪定を進めていく。手馴れたものだと感心してしまう。
僕と彼女の関係は曖昧かつ不明瞭だ。なんとなく集まった人達の中で、なんとなくあぶれた二人がなんとなく同じ時間を過ごしている。連絡先も、自宅も、名前も、花が好きな事も知っている。けれど、
「名前を呼ぶ人の席は、もう埋まってるじゃないですか」
「まぁ、そうね」
嬉しそうに笑う彼女。その笑顔に罪悪感は感じられない。幸せで満ち足りている。そんな表情だった。
「彼女の隣」そんな普遍的な
事だけは奪えなかった僕は、それでも側にいたいと願って彼女と時間を共にしている。「友達」と言う便利な言葉を使って。
彼女は薔薇の棘を剪定するのが上手い。僕は不器用で手を怪我してしまうから、棘のある花は触らせてくれない。痛みすら感じる事の出来ないその花の意味を僕は知りたいと願うのに、完全に満たされた彼女の手がそれを許さない。そして、その優しさ故に僕が側にいる事も許してしまうのだ。
側にいさせてくれるのに僕が傷付く事は許さない彼女は、とても狡い人だ。
「だから、僕の事は弟だと思って下さい」
そう自分で言って、彼女の返答を待たずして心の内側がぐしゃりと潰れた気がした。その時の僕の表情は恐ろしいほどに、いつも通りだった。ぐしゃりと潰れたそれは血を噴き出して、僕に跡を残すのだろうか。確かめられずにはいられなかった。自分で自分を偽っても、殺しても。触れない薔薇と、優しい彼女の緩い呪縛から少し逃れられた気がしたから。
薔薇の剪定を終えた彼女は、花瓶に水を淹れながら言う。
「随分年の離れた弟なのね」
彼女はまぁ良いでしょう、と小声で一言付け加えて、またしても手際良く薔薇の束を花瓶に飾った。棘を失い、大人しく花瓶に収まるその花は動物園の猛獣を思わせた。本当は触ると怪我をする、気高い野薔薇。
「そうでしょう、姐さん」
表情だけ操られたかの様に繕って、笑ってみせた。
ああ、この人は薔薇なのだと。触ると怪我をする事すら許されない、赤い花なのだと。
彼女には恋人が既にいる。なのに僕はこの人が好きなのだと思う度に、その笑顔で心が潰れていくのが分かる。向こう見ずに潰れた僕の心と、嫋やかな赤い薔薇はとても良く似ていた。