終章
柔らかな午後の光が差し込む平日の午後、仕事を休んだ俺はようやくにして家を出る。本当ならもっと前に出ても良かったのだが、いつもの通りぼんやりしている間に午前が終わってしまった。
マンションを出て最寄り駅まで歩くと、なぜかそこに佐治が居た。
「あ、成田」
俺を見つけた佐治はそわそわとしていて、緊張しているのが丸わかりだ。繰り返すが今は平日の午後で春休みなんて平和なものはまだ訪れていない。
「仕事さぼってこんなところで何してんの」
「さぼってねぇよ。これは部長命令ってやつで……」
そう云いながらもわたわたと云い訳をする。相変わらず過保護な会社だと思いながら、俺は小さく笑う。
「ありがと。じゃあね」
「……ああ、成田」
「何?」
「みんなで、待ってるからさ。そう伝えてくれ」
「わかった」
俺を見送ったらもう会社に行くはずなのに、なぜか佐治はその場で立っている。俺が見えなくなるまであそこでそわそわと待っているのだろうと思うと、なぜか笑えて来た。まったく笑えないことばかりの決着がつくと云うのに、俺は非常に穏やかな気持ちで居られた。
駅を越えて歩き、騒がしい渋谷の街まで出る。この雑踏があまり好きではないから普段は渋谷までは出ないのだが、今日は用事が用事なので仕方がない。
人でごった返す駅にはなるべく近寄らず井の頭通りを歩き、目的の区役所までやって来た。区役所の前も人が多いには多いが、駅ほどではないからそれほど辟易することもない。
「やーっぱり、来ましたね」
だが俺を一番に出迎えたのは、残念ながらここ数日嫌というほど見た顔で、決して待ち合わせ相手ではない。
「……そりゃ来るでしょ、約束してるんだから」
当然のように答えた俺に、軽く舌打ちをした瀬戸貢は、嫌そうに顔をしかめている。
「本当に、厭味な人ですよねー」
いったい何所らへんに厭味の要素があったのかさっぱりわからない。貢とは前からこんな不毛な会話のやり取りだ。たいてい俺が悪いのだろうが、何が貢の気に障るのかよくわからない。どっちもどっちだ、というのは佐治の意見である。
「貢はなんでここに居るの」
「そりゃ成田さんとここで待ち合わせしてるって聞いたから」
「ああ、要するに邪魔をしに来たのか」
「あのね、成田さん。本当にいらっとするからやめてくれませんか」
迷惑そうな顔をされても困る。貢が来るのなら邪魔をしに来た、もしくは阻止しに来たというのが適当だろうと思ったのだが、これもまた貢の勘に障ったらしい。
「だって貢が俺と話す意味がないでしょう」
不思議なのが、ここ最近見飽きた顔なのだ。よく俺の家近辺に来てはわけのわからない喧嘩を吹っかけて帰って行く。喧嘩を買うような面倒くさいことはしない俺にしたところで、対してストレス発散にもならないだろう。話すだけで苛立たせるのなら、こうして顔を合わせる必要もない。それが当然だと思って云ったのだが、貢は脱力したように溜め息を吐く。
「あーもう、これだから成田さんは困るんですよね……」
「だから結局、何しに来てるわけ?」
「云っておきますけど、俺まだ許してませんからね」
「それはわかってる」
「どうせなら、緑色の紙も用意しておいた方が良いんじゃないですか?」
「大丈夫、要らないから」
彼女が罪を犯したのは俺の所為で、だから今度こそ、絶対に手放したりはしない。どんなに引き留めておく自信がなくても、俺が必ず迎えに行くとそう決めたのだ。
きっぱりと云い切ると、貢は小さく笑って踵を返した。
「あれ、行くの?」
またまた唐突の退場に、俺は思わず声をかけてしまう。てっきり来るまではここに居るかと思っていたのだ。
「麻理乃の意思を一番に考えるようになったんです、少しは大人になったでしょ」
別れの言葉も云わずそっけなく去って行くのはいつものこと。いったい何をしに来たのかと思ったが、逃げるように去って行くその姿を見て気付く。
きっと彼女が来たのだ。
そう感じて振り返ると、確かに彼女は、そこに立っていた。
「──おかえり、麻理乃」