第七章
電車はもどかしい。どうしてこんなにも距離があるのかと思いながらも、俺は結局非常にゆったりとそこへ辿り着いた。のんびり揺られている間に、頭がどんどん冷静になった。俺がこうして彼女に会う意味があるのか、もしくは彼女の望み通り会わない方が良いのか。考えても答えは出ない。出ないままに、とにかく来てしまった。
家にあげてもらえる可能性は限りなく低いと思いながら、国道を歩き続け住宅街に入る。すぐ二本目の通りを曲がると、そこに探し相手は居た。ごく自然に、まるで俺を待っていたかのように、彼女は自分の家の前に立っていた。
「……麻理乃」
実際彼女は、ただそこに居ただけだ。唐突に現れた俺を見て、驚いて目を見開いている。
「信……」
彼女は驚いたように俺を見たが、やがていけないものでも見たかのように目を伏せてしまう。決して目を逸らすことなく、真っ直ぐ他人を見て来た麻理乃が俺から視線を逸らしたのは、これで二度目だ。
「遅くなってごめん、迎えに来た」
「え?」
麻理乃が顔を上げる。その顔はもう、憔悴しきっている。もともと白い顔がさらに青白くなり、頬も痩せている。俺がこんな顔にさせるまで追い詰めさせた。自分に自信がないなどと云って、すべてを押し付けた。
「遅くなったけど、迎えに来た」
「要らない、私……云ったでしょ」
だから帰ってよと、麻理乃はまた顔を伏せる。今にも泣きそうなのに、頑固に強がる。変わらない。たった一月で変わるわけがない。俺よりも臆病で怖がりで、曲がったことなんて絶対できない。影で一人で泣いて、強がりばかり見せる。変わらない麻理乃の姿。
俺が彼女を、ここまで追い詰めた。
「俺は、待つよ。いつまででも待てる」
麻理乃の肩が揺らいだ。
「それでも、嫌い?」
「嫌い……、大嫌い」
そう云って俺に抱き着く。震えている身体は暖かくて、ついこの間と何一つ変わらない。
「なんで……なんで、気付いちゃうの」
「うん、ごめん。どうせならもっと早く気付けば良かった」
「警察より早かったよ」
もうすぐ来るだろうけど、と麻理乃は俺から離れて肩をすくめて見せる。笑顔すら見せられるのは、いつもの強がりなのだろうか。
「もうすぐ来るって?」
言葉の意味が理解できずに居たところで、後ろで車の止まる音がした。振り返れば乗用車が一台、狭い路地に止まっている。車から降りて来たのは、二人のスーツ姿の男性陣だった。
「電話をした綾瀬麻理乃さん、ですか」
一人の男性が麻理乃を見て顔をしかめたが、麻理乃は臆することなく、
「はい、私です。直接行かなくて、すみません」と前に進み出た。
「成田さん?」
泣きそうな麻理乃の背をそっと叩いていると、もう一方から声をかけられた。数日ぶりに見る、柴田さんだ。気の毒そうな顔をしているのは、俺たちの事情をすべて把握したからだろうか。
「どうしてこちらに」
「ついさっき気が付いて来たんです」
「いえ……、我々も手間取ってしまったのですが、まさかこんなことになるとは」
「柴田さん、まだ決まったわけではないでしょう」
柴田さんはある程度事情を呑み込んでいるようだが、もう一人は麻理乃を見てさらに渋面を深くした。電話の内容を詳しく聞いたわけではないが、おそらくそれをまだ信じていないのだろう。
「お手を煩わせてすみません」
「では訊きますが、貴女が、上原亮二さんを殺害した」
「はい」
「貴女が、上原さんの遺体をあんな風に遺棄した」
「はい」
そこには一切の揺らぎがない。しかし警察は一人、軽く溜め息を吐く。
「貴女のような女子高生一人で、大の男性一人を殺したのですか?」
「そうです」
学校にも行っていない様子の麻理乃だが、恰好は制服姿のままだった。それが刑事の顔を渋面にさせた理由だろう。
「岡田君、とりあえず署で訊けば良いだろう。近場を借りて、ここだと目立ちすぎる」
住宅街であることを考慮してくれたのか、柴田さんが提案するも、岡田さんは渋面が直らないまま俺と麻理乃を見比べる。あの人を殺す人間は俺以外に居ないのなら、俺が一番に疑われているはずだ。そしてこの人はおそらく、俺を疑っているのだろう。意見が合わない二人に挟まれた容疑者に口を挟む権利はあるのかないのか。
「ちょっと待ってください!」
膠着してしまったところにまるで止まってしまった流れを進めるかのように、慌てて路地に入り込んで来たのは、ずいぶんと久しぶりに見る顔だった。
「違うんです、こいつは何もしてません、全部俺が一人でやったことです」
そう云って柴田さんの前に頭を下げたのは、見間違うはずもない瀬戸貢だ。麻理乃は現れた彼の姿に、強がっていた表情を初めて歪めた。
「やめてよ、貢……」
「やめねぇよ。おまえ本当、莫迦じゃねぇの」
麻理乃に悪態を吐きながら、貢は綺麗な顔を路上に付ける勢いで俺ですと頭を下げた。いきなりの闖入者に目を瞬かせていた岡田君よりも先に、柴田さんが頷いた。
「綾瀬麻理乃さん一人でやったと云われるよりは、説得力がありますね。何せ相手は五十代の男性ですから、そこだけはちょっと引っかかっていたんですよ」
「違います、貢は……」
「麻理乃は黙ってろよ」
上げた顔は明らかに麻理乃の介入を拒絶している。本当にこの男は、人生を何所までも麻理乃に捧げてしまっている。貢にとって唯一の世界とも云える麻理乃への忠誠は当然のことなのだろうが、流石にこの件については俺も黙っていられない。
「貢」
「俺、あんたを絶対許しませんからね、成田さん。こんな長い間放置して、麻理乃に全部やらせて、全部あんたの所為ですから」
「貢、だから違うの」
「良いよ、それで。その通りだから」
実際俺は、麻理乃に何もしてあげなかった。嫌いだから別れたいと、嘘が下手くそな彼女の言葉を信じて、嘘だと思いながら問い詰めなかった。もし貢だったら、その場で絶対に嘘だと、絶対に別れないと麻理乃を引き留めることができただろう。だが俺にはどうしてもそれができなかった。
嘘を吐いてでも別れたいという、彼女の意思を否定することができなかった。
「貢」
しかしそう呼びかけた俺に、貢はこれまで見たことがないほどの憎悪を剥き出しにして睨んで来た。今までの冗談半分の憎しみでは説明ができないほどの、本当に怒りだった。
「俺、あんたを絶対許しませんからね、成田さん。こんな長い間放置して、麻理乃に全部やらせて、全部あんたの所為ですから」
「貢、だから違うの」
「良いよ、それで。その通りだから」
実際俺は、麻理乃に何もしてあげなかった。嫌いだから別れたいと、嘘が下手くそな彼女の言葉を信じて、嘘だと思いながら問い詰めなかった。もし貢だったら、その場で絶対に嘘だと、絶対に別れないと麻理乃を引き留めることができただろう。だが俺にはどうしてもそれができなかった。
嘘を吐いてでも別れたいという、彼女の意思を否定することができなかった。
「だから俺は、やっとわかったから麻理乃を迎えに来たんだ。麻理乃がやったことがようやくわかったから」
「全部俺がやったことです」
麻理乃のためならこうして平気で嘘を吐ける、それが瀬戸貢だ。
「そうやって麻理乃の意思を消すことが、おまえの望みか」
「それで麻理乃が守られるのなら、俺はなんだってする!」
あんたの所為で、と貢はようやく俺を見た。俺もあの人にこんな視線を向けていたんだろうか。そう思うほどに貢の目は憎悪に溢れていて、貢になら殺される理由があるかもしれないとさえ感じた。
「詳しくお話を聞きたいので、三名とも来て戴けますか」
結局折れたのは、柴田さんだった。
「受験で受ける予定だった大学の特別講義で、たまたまあの人を見たんです」
麻理乃は閉ざされた部屋で、静かに話し始めた。とても落ち着いていて、いつも通りの麻理乃だった。
「信の部屋に、あの人の写真、実はあるんです。それを見たことがあって、雰囲気は違ったけど同じ顔で、しかも上原さんでしょう? 驚いて、決めたの。私の前に現れたってことは、そういうことなのかなって。それからはすぐやることを自分でもびっくりするぐらい計画的に決めていったんです」
信が疑われることなく、また自分が捕まっても信が気付かない方法。それを考え出すのは、意外に簡単だったと麻理乃は云う。
「私って頭悪いからさ。とりあえずあの人を見た時、よくわからないものが込み上げて来て、結局授業中ぼんやり信の腕のことばっかり考えてた。急いで帰ってみて部屋に一人で居たら、私がやらなきゃって思ったの。信の昔の思い出見てたらさ、そうしなくちゃいけないんだって。今は私が法で守られている、十七歳なんだから」
麻理乃が決断したところに、何も知らない俺が帰って来る。あの日は、そういう日だった。前触れも何もなかったという俺の動揺だけが宙ぶらりんになった。
俺が疑われることなく、そして俺に気づかれないまま自分が逮捕される方法。
麻理乃が考えた結果、それは俺と別れた後、俺が静岡に居る間に彼を殺すことだった。
「部屋に居るとね、嫌でも思い出しちゃったんです。信が一生懸命話してくれたこと。きっと話すのは嫌だったと思うんです。いつも淡々としてるのに、あの時だけなんだかすごく怯えている子どもみたいに見えて。この人の中でまだ傷が消えてないんだなって思ったら、すごくやるせない気持ちになって。そんな信にしたのが、あの人なんだって。あの人は平然と笑いながら子どもの気持ちをどうの、なんて講義をしているんですよ。なんかそれを聴いていたら、もう私がやるしかないって、そう思っちゃったんです」
全部一人でやり切るつもりだった。火傷はもともと報復のつもりでやろうと思っていたけど、切断するつもりなんて最初からなかった。今度の受験生ですが講義がおもしろかったので、少しお時間戴けませんか。そんな風にうまく呼び出して、殴打に自信はなかったから刃物を持って行こうとした。そんな時に、貢に見つかってしまった。
瀬戸貢は住宅街で騒いだのが嘘のように、今は非常に落ち着いていた。麻理乃がすべて正直に話したからだろうか、憑き物が落ちたかのように、とんとんと語る。
「麻理乃の様子が変だった。ただでさえあの人と別れてから変だったのに、その日はすごく硬い顔してて、からかってもまったく反応がなくて、何所行くか訊いただけで怒鳴られた。最初機嫌が悪いのかと思ったけど、よく見たら麻理乃、震えてて」
気が付けば無理矢理事情を訊いていた。どんなに説得しても、やらなきゃいけないと麻理乃はそれしか云わなかった。麻理乃がそう決めたのなら、貢がやることは一つだ。
「切断すれば少しは時間が稼げるかなって。成田さんとか、変に聡いところがあるから、ばれないように念入りにした。実際に殺したのは麻理乃だよ。でも切断したりとか捨てたりしたのは俺」
提案したのも全部俺だと、貢はあっさりと罪を認めた。
「煙草は信の職場の人からもらっちゃいました。ばれちゃって叱られたけど、貢にあげちゃったってことにしたんです。あ、貢まだ誕生日来てませんね、怒られるかな。あれでもあと少しで二十歳なんですよ。煙草の件はごめんなさい、流してください、なんて無理かな」
麻理乃より二つ上の貢は二年ぐらい前から喫煙者だったが、まだ堂々と警察の前ですえる年齢ではない。申し訳なさそうにそれを暴露する麻理乃は、とても静かだった。
「信の話を思い出していたら、あんなに傷つけちゃいました。自分でも怖いと思いましたけど、信は生きていながらあれぐらいやられたんだから、ずっと痛かっただろうなって。そればっかりであの人に対しての申し訳なさはまったく生まれないんです。本当にごめんなさい、でもそれが事実です」
結局私はそればかりでしたと、麻理乃は続ける。
「信にばれないようにやったのに、結局ばれちゃって。莫迦だなぁって。だからもう、誰に何を云われようと良いんです」
私は法に守られている間に殺人をやり遂げようとした確信犯ですと、麻理乃は静かに、頭を下げたのだった。