第六章
俺の中の殺意というものがいつ自然に消え去ったか、いまいち覚えていない。叔父が一緒に住むと云ってくれたのを拒んだ結果、彼は実家からほど近いマンションを購入してくれた。中学生には贅沢すぎるそのマンションに、俺は中学から一人で住み始めた。小学生の間は流石にと一時期優奈の家に預けられていたが、非常に居心地が悪く申し訳ない気持ちが大きかった。そして人の家に居ることで、彼らに自分の傷が見られないかと緊張し通しだった。
がらんとした広いマンションに移った時、俺はようやくほっとした。一人の空間、何所にも誰も居ないその空間が持てたことに安堵した。ここは俺の領域で誰も入ることができない。そう考えると、この汚らしい身体を誰かに見られる心配をすることもなく、あの人の影に怯えることもせず、堂々と暮らせるのだと思うと安心できたのだ。
実際はあの人のことなど忘れられず、相変わらず不摂生な生活を治せずに居たわけだが、一人というのは非常に俺の気持ちを軽くした。既に生きている理由すらわからないまま、ただ日々を過ごしていただけの俺は、とりあえず自立して誰にも心配されないようにするのが第一だった。優奈の母などは心配だと最初の頃こそ覗きに来ていたものの、信君なら平気ねと次第にその足は遠のいて行った。そういうのが理想だった。そうして誰も自分に構わなければ、俺は誰の目にも留まらず普通の暮らしができる。
「だから麻理乃が住めば良いよ」
そう思っていた俺が、まさか誰かと一緒に住むことになるとは思わなかった。軽い気持ちで云ったその言葉に、麻理乃はだが動揺し、困ったようにあちこちに視線を走らせた。
至って平凡な家族に守られて暮らしている自分が、どうしようもなく恥ずかしい。麻理乃はよくそう云う。親に頼るのが自然なのだと云われても、自分では納得できない。当然のように親にお金を払ってもらい、当然のように食事を用意してもらい、当然のように住まわしてもらい、そういった生活がどうしても許せず嫌悪してしまう。もう働ける年齢なのだから、こんなに良くしてもらう理由はない。だから早く自立したい。でもお金はない。
独り立ちしたいだけなのかと思ったら、単純にそれだけの話ではなく、麻理乃は一人になりたかった俺と同じような衝動に駆られていた。誰も自分に構わず、誰の目にも留まらず普通の生活を送りたい。そうするには年齢が足りず、そうできないながらにどうにかしたいと云うジレンマを抱えていた。
だから、ここに住めば良いと俺は答えた。だがそれでは、麻理乃にとっては頼っている相手が家族から俺に変わるだけで、大して今と変わらない。だから麻理乃は、困ったように視線を迷わせる。
「要らないから」
面倒くさい子だなと思った。俺と同じで、すごく面倒くさい子だと。だからこそ、わかり易かった。どう云えば麻理乃が納得して頷くのか、答えは簡単だった。
「そういう罪悪感は全部、俺には要らないから」
「でも」
「麻理乃はただ、俺を生かしてくれるために、ここに居れば良い」
俺は生活能力が皆無だから、変わりに麻理乃が俺を生きさせるようにしてください。俺が生活を支えるのではなく、俺の生活を支えるためにここに居てください。
「本当に信は、どうしようもないよね」
笑った顔が少し泣きそうだったのは、見ないふりをした。
「あの後、何も音沙汰ないからつい心配しちゃって」
そう云って静江さんはがさがさ荷物から花を取り出すと、それをごく自然に仏壇へと飾ってくれた。俺が掃除以外の手入れをしないから年中殺風景な仏壇に、色鮮やかな物花が並び、写真すら飾られていないはずが突如として明るくなった気さえする。
静江さんはなんの躊躇いもなく、線香を供える。俺はその様子を、ずっと見ているだけ。
俺が父母に線香をあげたことは、少なくともこの家に移ってから一度もなかった。親不孝なのかもしれないが、正直ここに仏壇があることすら実は嫌である。流石に静江さんに対してそこまでのわがままを云うことはできず、写真だけは勘弁してもらって、仏壇はどうにか俺の家に存在している。ただ俺にとって父はあまり記憶になく、母と云えば憐れまれた屈辱の記憶しかなく、顔を合わせたいと思わないのだ。そして母を見るとどうしてもあの頃を思い出してしまうから、仏壇は普段から使わない物置部屋に鎮座している。そこに俺が入ることはまったくと云って良いほどないのだが、麻理乃がたまに掃除してくれていたおかげで綺麗な状態を保っていた。
「よし、ありがとうね」
線香をあげて気が済んだのか、静江さんは振り返って俺に笑った。俺が嫌だと知っているからか、静江さんは長居することもなくその部屋を出るよう促してくれた。年の離れた姉妹は仲が良かったらしいのだが、そういった思い出をあまり聞くこともしていない。だから静江さんにとって姉の存在がどういうものなのかいまいちわからないが、俺のわがままを優先してくれてしまうのはたまに戸惑ってしまう。
来なくて良いと押しとどめたはずの静江さんは、仕事を放って来てしまった。あの人の件で気になるのはもちろんだろうが、それに加えて俺の説明不足が引っかかっているのだろうとは予測できた。
要件の前に姉へ挨拶する、静江さんはいつでもそうだ。俺の家に来て一番にすることは、義兄と姉への挨拶。それだけで静江さんにとって姉の存在が大きいことは計り知れるのだが、具体的にどういうものなのかはやはりわからないままだ。
「無理して来なくても良いのに」
廊下を歩きながら出て来たのは、やはりそんなかわいげのない言葉。しかし静江さんはそんな俺を咎めることもせず、やんわりと笑いながら答えてくれる。
「ごめんね、でもやっぱりあの人がと思うといろいろ気になっちゃって」
こういうふとした瞬間に、気遣われていると実感して、なんとも云い表せない罪悪感が突き刺さる。お互い唯一の身内だから当然かもしれないが、俺にはその当然がわからない。家族ならではの遠慮のなさというものを、俺は知らない。
「特に何もないよ、一回事情を聴きに来ただけで」
あの後、警察からの訪問はまるでない。飽き性のニュースは既に新たな事件へと移ろい、捜査の情報は更新されず、俺はあの日柴田さんから聞いたことしか知らないままだ。一人の人間が殺された情報が唐突に入ったかと思えば、忘れ去られるのも一瞬である。会社で目に留まって持って帰って来てしまったあの人の事件が書かれた新聞は、リビングに放置して読むことすらしていない。
「本当に何もないならそれで良いんだけどね。それより信君、また食べてないの?」
「食べてるよ、それなりに」
流石に空腹感がないわけではないので、お腹が空いたら食べる。ただそれが人より少ないだけでそれほど心配することではないと思うのだが、やたら周りが口煩いから、最近はさらに痩せたようにでも見えるのだろうか。
「麻理乃ちゃんに会ったの?」
「ううん、まだ」
そう云いながら俺はまったくと云って良いほど行動していない。行動する気がないとも云える。会って話をしなければならないことはわかっていながらも、麻理乃と話す度胸もなく優奈に云われた通り「終わり」を迎えようとしている。
「麻理乃ちゃん、ちょっと前に電話はくれたけど、結局何も教えてくれなかったからね」
「え?」
麻理乃が静江さんに電話をしたと云うのは初めて聞いた。静江さんと俺の関係を知っているからか、麻理乃は無理矢理入って来るようなことはしない。麻理乃と静江さんが俺の知らないところで連絡を取り合うなんて、今までに一度もなかったことだ。
「あれ、知らなかった? いろいろごめんなさいって謝られちゃったのよ。悪いと思うなら、理由を教えて欲しかったんだけどね、すぐ切れちゃって」
「静江さん、それいつ?」
「えっと、信君がこっち来る前だから……ああそう、八日だね。ほら、治の命日だから覚えてるの。信君はもうそっちに居るのかって訊かれたから、明日には来ることを教えて、それで切れちゃった」
八日。麻理乃と最後に会ったのは先月の二十日で、既に静岡へ行く話は出ていた。麻理乃は叔父に興味を持ってくれて、挨拶したいと云うので連れて行くことにしたのだ。結婚前に回る場所が墓ばかりで、まったくかわいそうなことだったが、結局それも意味がなくなってしまった。意味がなくなってしまったのか、なくなりかけているだけなのに、俺がそれを捨てようとしているのか。
釈然としない麻理乃の電話に違和感が残る。麻理乃も行く気がまだあったのだろうかなどと理由を上げ始めたところで、静江さんは何も気にしていないのか、そういえばと話を変える。
「麻理乃ちゃんの荷物はもう運んでるんだっけ?」
「まだだよ、俺の部屋片付けてた段階だから」
ちょうど通りかかった麻理乃の部屋を覗いて、静江さんは足を止める。俺もあまり入ることがなかった部屋だが、静江さんは部屋を見て少し顔を明るくさせた。
「あれ、懐かしいものばかりね」
ひょいと静江さんは部屋に入り、ダンボールに収納された卒業アルバムなどを拾い上げる。俺に両親が居なくなってから親代理をしたのは叔父と静江さんだ。頻繁に来ることができなかったから、近場では優奈の両親も俺の世話をしてくれた。
学校関係のものはもったいないと叔父が運び込んだ。それらはなんとなく捨てることができず取ってある。中学、高校、大学、すべて喜んでくれたのは叔父だ。血のつながりなど一切ないというのに、頑固な俺を息子同然で見てくれた唯一の人。
それらは、実家から引き下げたものの中に、つまり麻理乃の部屋になるはずだった場所に、置きっぱなしになっている。
静江さんに釣られるように、俺も近くにあったものに目を通す。ファイリングされた中にあったのは、高校時代の進路調査票。そんなものまで取ってあったのかと、思わず苦笑する。書いたことは覚えているが、まさかこんな大事に取って置かれることになるとは思わなかった。
──未定。または就職。
叔父に少しでも返さなければならない。そう思って俺は、進学するつもりなどなかった。両親の遺産を使って進学する気はなく、俺に気ばかり回す叔父に何か返せないかとそう考えていた。俺の中で当時、叔父の存在は一番大きかったのだと思う。
──十八歳までに、やらなければならないことがある。その結果が決まるまで、進路は保留にしたい。
明らかに他の学生とは違う異質なことを書いている。高校二年で進路の話が出て来てから、叔父はいつも以上に過保護になった。母が亡くなったことを叔父が珍しく悔いていて、泣き出しそうになるぐらい謝罪をしていた。
──これじゃあ尚哉さんに合わせる顔がないよ。
ひたすらに尊敬していた父の名を持ち上げて、叔父は初めてとも云えるあの人への怒りを漏らした。母が死んだ当時、叔父と叔母が介入するには遅過ぎた。母が傷つけられていく俺に気が付かなかったように、離れて暮らしていた叔父叔母に、俺たちの悲鳴は聞こえなかった。
だから叔父が悔いるのは、気が付かなかった自責の念もある。だがそれでも、あの人への怒りを口に出したのは、あの時期だけだった。
十八歳のうちに、やらなければならないこと、それは間違いなく、殺人だ。
母の七回忌は、俺が十七の時だった。ほとんど親族が居ない上、自殺とあってとても小規模なものだった。あの人が来る可能性などないのに、俺はもし来たら、今度顔を合わせたら間違いなく殺すつもりで居た。俺が十八になる前に。俺が法律で守られている間という、非常に汚い理由で。
「麻理乃……」
──そう、嫌い……、大嫌い。
泣きそうな顔をして、彼女はそう云った。
俺はそこではっとして部屋を出た。確か会社から持って来た新聞がリビングにあった。結局一度も読むことがなかった、あの人に関する記事。十一日、切断された遺体、火傷の痕。
「火傷の、痕……」
どの程度のものなのかは書いていないが、殺害前と殺害後につけられた火傷らしい。わざわざ殺害した後に、身体中に火傷の痕を残した。
──切断された右腕におびただしい数の火傷の痕。左手、背中にも見受けられるそれは、煙草によるものだと思われる。
瞬間に俺は、自分の右腕を押さえつけた。見せたことはほとんどない、それこそおびただしい数の火傷の痕。あの人が俺につけた、二度と消えない焼けた傷口。俺は病弱なふりをして体育の授業を休み、二十八になった今も長袖しか着こまないのは、誰にも見せられないほど汚い身体をしているからだ。見ただけで誰もが不快に顔をしかめるさまが浮かぶほどに、俺の身体はあちこち煙草による火傷の傷跡だらけ。
隠し続けている俺の火傷の痕を知っている人は、数えるほどしか居ない。
──十八歳のうちに、やらなければならないこと。
「信君?」
追いかけて来たらしい静江さんに、説明する余裕はなかった。
「ごめん、静江さん。出かけて来る」
俺は一言謝ると、外へと飛び出した。