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第五章

 失敗した、と思ったのは風呂を出てからだった。まだ彼女と一緒に住む少し前で、誰かがこの家に居るという状態に慣れず、完全に気を抜いていた。極度の寒がりである俺すら暑く感じられたその日、俺はごく自然にTシャツを着た。リビングまで来てようやく、俺は両腕を晒していることに気が付いた。慌てて寝室に引き返すと、偶然彼女がそこに居た。寝室の本棚の前で、彼女は何気なく目を通していただけだったのか、入って来た俺にすぐ気が付いた。

「あれ、上がったの?」

「あ、うん」

 首にかけていたタオルでどうにか隠すも、俺自身が落ち着かない。仕方なく風呂場に引き返そうとしたのだが、もう既に遅かった。彼女の目には、隠しきれなかった俺の腕に残る傷が映っていた。

「あ」

 自然に声が漏れたらしく、彼女の口から出たのは最初それだけだった。両親が既に他界していることは話していたが、昔母の恋人に虐待されていました、なんて話はまるでしていない時だった。

「ごめん、着替えて来る」

 とにかくそれ以上見せてはいけない気がして俺が部屋を出ようとすれば、彼女は驚くぐらいの力で俺の腕を引いた。振り返った瞬間に目が合って、しばらく沈黙が続いた。

 視線が先に逸れたのは、彼女の方だった。掴んでいた俺の腕から手を離して、じっと傷を見る。傷と一言でくくれないほどに酷い右腕は、既に人の肌の色をしていない。主に煙草による火傷の痕、痣は薄くなったとは云え、痣の上から火傷の痕が残っているから、もう何所をどういった理由でやられたのか記憶にすらない。あの人は左利きだったから、向かい合った時に俺の左手を掴んで右腕をいたぶる。機嫌が悪い時になると、身体中が標的になるから、右腕だけで済めばその日はまだ楽だった。

 だがそのおかげで、俺の右腕は見るも無残なことになっている。無残を通り越して汚いとずっと思っていた。

「……痛い?」

 だから急にそう尋ねられて、俺は驚いた。ちゃんとした手当をしていないとは云え、古い傷だから痛いということはない。むしろこの傷に関して、痛かったかと訊かれたことなどなかった。

 ──あんなに酷い、なんて。

 叔母は驚いて。

 ──私、知らなかった……。

 幼馴染には泣かれた。

 ──痛い?

 だからその問いに、なんと答えれば良いのかわからない。

「痛いでしょう」

「だいぶ古いから、痛くないよ」

「痛いよ」

 彼女のほんのり焼けた白い腕と、俺の浅黒く汚い肌が交差した。それだけでもともと白い麻理乃の顔がさらに白くなったように見えて、それがあの時の母を思い出させて、俺はまたあの云い現わせない罪悪感が襲われそうになる。

「ごめんね、嫌なもの見せて」

 だから話を切り替えようと、俺は腕を抜いた。簡単にするりと腕は抜け、俺は風呂場へ戻ることができた。少し気を抜いて着替え部屋に戻ると、麻理乃はまだそこに居た。

「ねぇ、信。嫌なものじゃないよ」

「え?」

「信の腕でしょう、嫌なものじゃない。だから私に教えてよ。腕の理由教えてよ」

 既にしつこかった佐治には話した後で、俺は少しガードが緩くなっていた。それでもやはり簡単に話すことには躊躇いがあった。麻理乃の家は至って普通の、いや普通より仲が良いぐらいの家族だ。俺みたいな生活を送っている人間など、居ることすら想像がつかないのではないかと思うほどに。

「聴かない方が良いと思う。良い話じゃないから」

「うん、良い話じゃないなら、辛いことなら、本当は聴きたくない」

 正直な麻理乃は、正直に云う。それでほっとしていた。だが麻理乃は、同じぐらい頑固だ。

「だけど私は、信のことだからちゃんと聴きたいの。訊いたからには、絶対に最後まで聴くから」

 だからお願い、教えてよと。話したくないわけではないのなら話して欲しいと。彼女はむしろ懇願して来た。

興味本位で親の話を振って来る人は居た。端的に死んだと答えると、それ以上は踏み込まれない。その距離に安堵しながらも、本当は誰かに話したかったのかもしれない。父は事故死しました、義父候補に虐待されていました、母は自殺しました。誰かに一つでも云うと負の感情しか与えない俺の境遇を、わざわざ話す必要はないと思っていた。だからしみじみと誰かに話したことなどほとんどない。それでも麻理乃は、最後まで聴いてくれた。俺の長年の訳のわからない苦しみを、憎悪を、殺意を、途中でもう良いと止められそうな嫌な話を、最後までつたない話を聴いてくれた。

 麻理乃と自然な関係が築けるようになったのも、たぶんその頃からだ。


 睡眠時間が普段足りない代わりに、休みの日は比較的のんびり眠るのだが、昨日は西田さんとの約束があって早く出かけた。今日ぐらいゆっくりできると思っていたのだが、九時に鳴らされたチャイムに俺は叩き起こされた。普段ならチャイムぐらいびくともしないのだが、それと同時に携帯まで鳴らされたら流石に起きる。電話に出るべきかチャイムに出るべきか、寝ぼけ眼で携帯に表示されている名前を見て、俺は大人しく玄関へと向かった。

「あ、やっぱり居たね。おはよ、信」

 高橋優奈は、騒音の主とは思えないほどにこやかに笑って現れた。

「もう少しで勝手に侵入するところだったよ。あ、入るね」

「いや、あの、優奈」

 寝起きの上に唐突過ぎて、頭がまったく回らない。だが優奈は変わらない真っ直ぐな性格で、コーヒー入れるよとさっさと中へと入ってしまう。勝手を知っているのは結構だが、お互いのプライバシーを守ろうと云っていたのは優奈だった気がする。本人が気にしないのなら良いかと、俺はひとまず顔を洗ってからリビングに顔を出した。既にコーヒーの香りがしており、優奈はと云えば冷蔵庫をあさっている。

「やっぱり空っぽだし。なんで酒しかないの、不健康にも程がある。冷蔵庫がかわいそう。パンすらないの?」

「……ないならないだろうね」

 昨日は西田さんが居たから、少しの朝食を形上取った。一日分の食事はその時に満足してしまったので、それ以外に胃に入れたものと云えば、帰ってからアルコールを流したぐらいだ。

「麻理乃ちゃんが居なくて、さらに莫迦になったのね」

 呆れたように云われるものの、麻理乃が居ても俺は次の日の食糧があるかどうかなんて気にしない。麻理乃に訊かれてそう云えば買いに行こうか、というような会話が成り立つぐらいだから、本当に食に関して興味が持てないままだ。

「コーヒーだけで良いよ。それより何しに来たの、今さら俺の食生活管理?」

「今さらしたって無駄なことぐらいわかっているからやらないよ。ちょっと実家に戻る用事があったからついでに会いに来てあげたの」

 会いに来てあげたという割には随分強引だった気がするし、むしろ家にあげてあげたのは俺の方だと思うのだが、口にしないほうが良いだろう。久々に会う緊張すら感じる間もなく、優奈はむしろ昔に戻ったようにさっぱりとしている。

「麻理乃ちゃんのこと、満から聞いたの。意味がわからないからちゃんと説明しなさい」

 やっぱりそれかと、ある程度予測していたとは云え、俺は小さく溜め息を吐いてしまった。麻理乃と別れたのは一月前なのだが、優奈の耳に入るまでは意外に時間がかかったらしい。

「なんで満が……」

「自然な流れで出て来たんだもん。最近信が弱ってるんだけどって相談されたの」

 なんで俺の相談をわざわざ優奈にするのか。満は能天気というかたまに抜けているところがあると思う。

 高橋満は俺の後輩で、昨年俺の幼馴染である優奈と結婚した。いつの間にか付き合っていつの間にか籍を入れていたので、結婚式の招待状をもらった時に初めてきちんと説明を受けた。俺と優奈が一時期付き合っていたことすら気にした様子もない満は、単純と云えば単純な性格をしていて逆に俺は助かっている。まぁ、今回ばかりはどうかと思うが。

 俺がある意味で衝撃を受けている間に、優奈はコーヒーを入れてごく自然に席へ座った。二、三日前は柴田さんが、それ以前は麻理乃が、それよりも前は優奈が座っていた席。不思議とそこに優奈が座っても、懐かしいとも感じなかった。

「で、何があったの」

「何って……」訊かれても俺は返す言葉すらすぐに思いつかない。

 一箇月前のあの日は、特に何もなかったと思う。平日バイトがなければ、麻理乃は学校から真っ直ぐ俺の家に来ていた。ほぼ一緒に住んでいたようなものだが、麻理乃は学校が実家の方だから行ったり来たりの生活だった。学校を卒業したら引っ越すつもりで、最近は麻理乃の部屋を確保するため、部屋を一つ開ける作業をしていた。実家を引き下げる際に持って来たものをただ置いているだけの、物置のように使っている部屋。他の部屋は俺の雑多に増えていく本で埋まっていたため、麻理乃の部屋は自然そこへと決まった。ほとんどがごみだから捨てると云ったものの、麻理乃は自分から片付けると云い出した。

──信のこれ、思い出でしょう。捨てるなら、ちょうだいよ。

捨てるのなら片付けさせてくれと、彼女も云い出したら聞かない性格だ。俺は折れて、捨てる権利を放棄した。別段見られて困るようなものも思いつかないほど、何があるのか把握していない。重たいものもあるから俺も手伝える時はそれとなく手伝っていたが、未だ荷物は無駄に残って中途半端なままだ。

 だからあの日も、普段通り帰って来た。いつもならリビングに居る麻理乃が居なくて探したら、彼女の部屋で静かに座っていた。

 ──ただいま、麻理乃?

 ──あ、おかえり、なさい。

 声をかけた麻理乃は、何かに怯えたように肩を震わせてからゆっくり振り返って俺を見た。おかしいなと思った時には立ち上がって俺を見上げ、あのね、と言葉に悩みながらも云った。

 ──お願いがあるの。

 滅多に誰かを頼る子ではない。そういう云い方をされたのは初めてだった。

 ──別れて欲しいの。

「麻理乃ちゃんが、別れて欲しいって? で?」

「……いや、それで終わりだけど」

「それだけ?」

 ますます意味がわからないと、優奈は小さく溜め息を吐いた。別れようと云われたから別れた、ただ単に事実を伝えただけなのだが、もう既に呆れられている。叔母に説明した時もそうだった。そんなんじゃあわからないわよと呆れられた。だがそれが、すべての事実なのだ。

「だって麻理乃ちゃんだよ、有り得ない」

「その根拠のほうがもっと意味がわからないんだけど」

「あんたの大好きな麻理乃ちゃんがそんな簡単に別れようなんて云う? しかも麻理乃ちゃんが卒業したら結婚するはずだったんでしょ? どうしてあんたはそこで簡単に引きさがっちゃったわけ?」

 ──大嫌い。

 俺はそれで納得しようとした。俺は麻理乃に嫌われたから、嫌われたら終わりだという言葉の通り終わりにした。麻理乃は嘘を吐けない。だからとんでもなく卑怯だと思いながらも、俺は嫌いかをどうか尋ねたのだ。そうしたら、まるでその時それを思いついたかのように、麻理乃は云ったのだ。

 ──そう、嫌い……大嫌い。

嫌われたという事実を、頭の何所かで信じていない自分が居る。だが嘘を吐けない麻理乃が、そう云い切った。云いながら麻理乃は震えていて、今にも泣きそうだった。よく泣く子なのだが、たいていは堪えて溜め込んで一人で泣いてばかりいる。俺と同じで、人を頼ることを知らない。それを知っていながら、俺は詳しい話を訊くことなく、卑怯な手を使った。

 きっと嫌われてなどいないと、そう思いたかったからだ。

 いつからそんな自信ができたのか、傲慢にも程がある。だから俺は、嫌いだという麻理乃に何も返すことができなかった。云われないだろうと確信していたにも関わらず、嫌いだと云われたら、俺はそれに従うしかできなかった。

 俺のことを嫌でもよく知っている優奈は、心底呆れているらしかった。

「せっかく信が自分から踏み込んだのに、どうしてそこで終わっちゃうの?」

「終わる──」

 そう終わっている。連絡を取ろうともしないのは、未だその事実を受け止めていないから。あの人と同じだ。あの人が死んだことを、俺は未だ信じていない。それと同じく、麻理乃がもうここに現れないことをまだ事実と信じていない。

「麻理乃ちゃんが急にそんなこと云うなんて、本当信じられないのよね。……最近本当になんかなかったの?」

「あったら訊いてるよ、いつも通りだった」

「信は気付いて欲しくない時は感が良いくせに、変なところで莫迦だしなぁ。でも佐治さんもお手上げみたいだもんね。私が会いに行って話したいぐらいなんだけど」

「やめて、本当に」

「云うと思った。でも信、このままじゃ良くないよ」

「わかってる」

 云いながらも俺はつい視線を逸らしてしまう。わかってはいても、俺はやはりこのまま時を止めようとしている。やりようは幾らでもあるのに、あえて踏み込もうとしないのは実感がないからだけではない。また踏み込もうとして拒絶されることを恐れているだけだ。

「瀬戸君には? 何か訊いたの?」

「……あいつにも会ってないから」

 今日も今日とてバスケだろう。バスケをやるには低い身長かもしれないが、確かに書籍を大量に持たせたところで平気な顔をしており、体力はほとんど衰えていない。辞めてまだ二年だ、勘を取り戻すのも早いだろう。思い出すと異様にぴりぴりした気持ちになるから、それ以上は考えないことにした。

 そっと幼馴染へと視線を戻せば、彼女は俺を見返して呆れたように溜め息を吐いた。

「信、顔色も良くない、どうせまた食べてないんでしょ」

「食べてるよ、食べてる」

「もう本当にどうしようもないんだから。少しは心配させない生き方してよ」

 満と結婚してからほとんど接点がなかったというのに、俺がいったいいつ心配をかけたのかと問い返したくなるものの、やはり優奈を簡単に切り離せない部分が俺にもある。

「──聞いたよ、あの人のこと。警察がちらっと来たってさっきお母さんから聞いた」

 優奈なんてほとんど記憶にないだろうに、どうしてわざわざ優奈の母にまで訊く必要があるのだろう。よっぽど今あの人に関わっている中に、容疑者らしい容疑者が居ないのだろうか。

「大丈夫なんだよね……?」

 いつも強気な優奈にしては珍しく弱々しい声で尋ねて来る。それが逆に異様な気がして、なんでもないはずなのに俺までちょっとした不安に陥れられる。

「何が?」

「あんたに決まってるでしょ。少しは動揺ぐらいしなさい」

「これでも驚いてるけど……まだ実感ないし」

「そう。そんなもんだよね」

 優奈は全部知っている。ひたすらに隠し続けた傷を知っているのは、優奈と佐治と、麻理乃ぐらい。叔母は俺が暴力を受けていたことを知っているようだが、俺の傷跡まで見ていない。優奈は当時の俺を知っている人だ。たまに俺の目の前から消えて欲しいほど嫌になることもあったが、完全に消えてしまうとまたあの頃の自分が存在しなかったかのようで落ち着かず、結局優奈のことを遠ざけることができないでいる。

「どうせ俺が一番疑われていることはわかっているから」

「え? ……そうかもしれないけど、でも信が疑われるってことは、ないと思うよ」

 俺としてはむしろ動機面で一番に疑ってもらいたいところなのだが、優奈はその可能性を全否定する。

「だってあの人が亡くなったのって十一日の午前中だよ。その時って信、叔母さんのところに行ってたでしょう?」

「……ああ、そうなんだ」

 亡くなった日まで冷静に見てなかった。確かに九日の平日に休みをもらって土日含め三連休、俺は静岡まで行っていた。五年前に亡くなった叔父の墓参りが目的だった。予定外だったのは、麻理乃も連れて行くはずが、生憎と一人で行くはめになってしまったことぐらいだ。ずいぶんと前から日程は決めていて、会社にも休みの旨は伝えてあるし、静岡に居る叔母たち知人と会っている。叔父が亡くなってからたまにしか顔を出さなくなったものの、未だ叔父の知人と会うとからかわれることが多く、何かと顔見知りが多い。

 俺はあの人を殺していないし、殺すこともできなかった。それは立証される。

 毎年のことだから、会社のみんなも、優奈も知っている。叔父には迷惑ばかりかけてしまって、俺が何も返せないまま亡くなってしまった。俺にとって本当の親よりも親に近い感情を抱くことができたのは、叔父だけだった。一切血のつながらない俺を、本当の子どものようにしつけてくれた。そんな彼の死を看取ったのは、社会人一年目のこと。以来命日に静岡へ行くのは毎年のことだから、会社のみんなも知っていることだ。

 偶然ではあるものの不在証明されたというのに、俺は心の底から落ち着くことができなかった。俺があの人を憎んでいることは確かだ。誰にも負けない自信があるほどに、むしろ誰にも譲りたくないと思うぐらいに、俺はあの人を嫌悪している。だが俺はあの人を殺していない。

俺はもしかしたら、犯罪者になることを、他の誰かがやってくれた罪が俺に来ることを期待していたのかもしれない。俺はやはり、ずるくせこい。

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