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第四章

 金曜の就業時間、飲みに行くかーと飲めないくせに佐治が騒ぐ。たいていそれに柏さんが乗って、都合の良い先輩たかさんや、後輩の満、暁などが加わる。俺はそれらに背を向け帰る。大学が一緒だった柏さんは俺のそんな性格を知りつつも、熱心に誘って来た。佐治がそれに乗るとさらに煩いので、俺も五回に一度は行くようにしていた。

「成田さん、成田さんも行きましょう!」

 そこにもう一人加わった時は、正直面倒くさいと感じていた。だが彼女はなんの疑問も持たないままに俺を誘う。俺がそこに居ないことのほうがおかしいとでも云うように、成田さん行きますよと平然と誘う。そして俺は、だんだんとそれを断らなくなった。

 提供された居場所を、自分の場所として受け入れたのだ。

 取っ付き難いはずの俺に近寄って来る女の子というのは、残念ながらあまり珍しくはない。放っておいて欲しいのに、集団行動の中に無理矢理入れようとしてくる。「強制」されることが嫌いだから、必要以上周りに合わせることがどうして必要になるのかわからなかった。

「信君が来てくれたら俺が楽しいから来てよ」

 学生時代、柏さんはそう云ってよく俺を連れ出した。そのおかげで伝手もできたしバイトもできたし、柏さんには本当に感謝している。だからと云って社会人にもなって嫌々付き合うのも違う気がして、俺は俺のペースで会社のみんなと付き合っている。何もかも強制せず、許容してくれる会社には感謝している。だから必要以上に関わることなどないと思っていた。

「成田さんは恰好良いし優しいから好きですよ。ああもう、佐治さんも少しは見習ったらどうですか?」

 そう云って彼女は笑っていたが、実際俺と二人になると会話は格段に減った。柏さんや佐治と居る時は随分くつろいでいる顔を見せるから、やはり俺は取っ付き難いんだろうと思っていた。

「ち、違うんです。そうじゃなくて、尊敬してるんです」だからそう云われた時には驚いた。

「私、本は大好きですけど頭が追いついてないから。勉強してる、つもりなんですけど。結局つもりなんですよね。だから成田さんと話すと自分の足りなさがわかっちゃって」

 本の虫同士ではあるが、俺のレベルが高過ぎてまったく追いついていないと彼女は云った。ただ好きなものに対してレベルも何もないだろうと思っていたのだが、彼女が専門にしたいと聞いてからは話が変わった。俺は俺で彼女にいろいろと教えたし、彼女も進んで教えてくださいとやって来た。

 それまでは普段の彼女の発言を、俺はまったく本気にしていなかった。俺と居るのも仕事上仕方なくで、とりあえず面倒くさいから適当な距離を持って接しているのだと。

 だが違った。彼女はいつだって本音しか云わず、本音しか語らなかった。ある意味で俺と同じく正直で、ただ俺よりも生きていくのがうまい。本音をさらけ出したまま、うわべだけの嘘を吐くこともなく、ただ正直に生きていた。

「これからは私も本心だってわかり易く伝わるようにしますから、成田さんは私の云うことを嘘だって勝手に決めないでくださいね」

 自分の云い方も悪かったなぁなんてのんびり笑いながら、俺の失礼な態度に怒ることもしない。たいてい俺に愛想を尽かす人は多いのだが、彼女はなんだかんだ云いながら、結局俺のことを好いてくれた。

「私、嘘吐くの下手なんです。すぐ顔に出ちゃうし、吐けなくて気付けばばらしちゃうから。それだけは信じてください」

 そんなこと云わなくても、すぐわかると思いますけどねと笑った彼女に、俺はなんと返しただろうか。たった数年前のことなのに、思い出せない。

 ──嫌い……、大嫌い。

 否定の言葉もなかったあれは、果たして真実なのか。臆病な俺は、問い質せないままだ。

「信君」

 綺麗なバリトンで呼ばれてそちらを見れば、待ち合わせ相手は既にそこでずっと待っていたらしく、コーヒーを片手に手を挙げた。俺は慌てて駆け寄り、小さく頭を下げる。

「すみません、遅くなって。ご無沙汰していました、西田さん」

「いいやとんでもない。こちらこそ悪いね、せっかくの休みなのに」

 気にしていませんと答えれば、西田さんはそうかと小さく微笑む。笑う顔は年相応の五十代後半だ。詳しくいくつかは知らないが、初めて会った時は三十代だった。初めて親身に話を聞いてくれたことが新鮮で、俺にしてはだいぶ早く警戒心を解いてなんでも話した気がする。

西田保徳さんは、母が死んだ時に世話になった精神科医だ。一応はまだ「子ども」に分類された俺に寄越されたのは、共に暮らすべき家族ではなく精神科医だった。

「せっかくだ、何か食べよう。食べるだろう?」

「え、ああ良いですよ、コーヒー戴きます」

「信君、また痩せたようにしか見えないよ。少しでも良いからせめて何か腹に入れなさい」

 こんな朝早くから何かを口にしようとはどうしても思えないのだが、結局この後一人で居たら何も食べないと判断して、大人しくコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

「体調は……落ち着いてなさそうだね?」

「特に変わりありません」

 俺がトラウマというものを抱えているとしたら、それは母の遺体を見つけたことによる衝撃ではなく、あの人から受けた虐待の数々から生まれている。働きつめていた母に比べて、非常勤講師という立場にあったあの人の方が自由な時間を持って仕事をしていた。だからあの人が一緒に住むようになってからというもの、母と二人で居ることのほうが少なく、あの人と二人で過ごす時間のほうが多かった。その時間は、俺にとって地獄でしかない。特に休日は食事など与えられるわけもなく、母が帰宅する前に誤魔化し程度に何かを食べさせられるぐらいだった。当然それを俺が進んで受け取るわけもなく、俺の少食はそこから来ている。睡眠時間が三時間しかないのも、朝五時を過ぎないと熟睡できないからだ。そういった体質が確立されてしまって既に十四年、今さら直すこともできず、たまに連絡してくれる西田さんには悪いことをしている。

「そうか。せっかく信君も落ち着くかと思ったのに……本当に残念だよ」

 そうして西田さんも、やはり彼女の件について触れて来る。彼女が居ることで、俺の生活が少し変わっていたことに一番安心していたのは西田さんだ。どうがんばったところで食べなかった食事を進んでするようになったり、眠ろうと努力してみたり、そういった小さなことをするようになったのは、彼女が煩く世話を焼いてくれたからだ。

「すみません、いつまでも心配ばかりかけて」

「いや、まぁ男女の仲だしね、仕方のないことだよ。やはり不思議ではあるけれど」

 毎回彼女の話の度に云われる「不思議」という単語に、俺も苦笑するしかない。

 俺と彼女の関係は、非常に良好で自然だった。だから唐突な別れ話に、周囲は一通り驚いて、だいたいは信じていない。俺自身や彼女を知っている先輩や同僚も好き勝手云い放題だ。彼女がバイトを辞める時に行われた大掛かりな送別会で、俺たちは結婚を発表した。若い妻をもらうことになる俺をからかうような口調が多かったものの、みんなに認められたことが純粋に嬉しかった。誰もが祝福してくれた送別会から四箇月、既に周囲は俺たちの結婚を把握していて、一月に一度会う程度の西田さんにまで話は伝わっていた。それだけに、今回の別れ話は本当に唐突で驚かれるものだった。

「西田さんも、そう云いますか」

「いやあ、ごめんごめん。悪気はないんだ。本当にただ不思議なんだよ。君たち二人は一緒に居るのが自然というか、しっくり来ていたからさ」

 自然。俺と彼女に対する感想は、それが圧倒的に多い。俺もそれは感じていた。まるで当たり前のように一緒に過ごす感覚。誰かと一緒に住むということに慣れていない俺が、一人のペースをつかみ直すまでに時間がかかるほど染みついていた。

「まぁあまり掘り返しても良くない。ただでさえまた生活リズムが戻って来てしまっているんだから、少しは直さないと」

「はい」

 苦笑しながら返事をするも、彼女が居た時と同じようにするのは不可能だと思う。頼っているつもりはなかったが、俺一人でこの悪循環でしかない生活を治せる気がまるでしない。一応の返事をしたところで、コーヒーとサンドイッチを手にウェイターがやって来た。待ちかねていたようにそれらを受け取り、ウェイターが完全にその場から去ると、西田さんは少し周囲を見回してから口を小さく開いた。

「それで、上原さんのことはどうなっているんだい?」

 月に一度会うことは決めているが、日にちは多忙な西田さんが指定して来るため、だいたいがまちまちだ。そんな彼が突然、明日会えないかと電話して来たのだから、当然その話だろうと思っていた。だからそこまで驚くこともない。

「よく気付きましたね、あの人だって。もしかして西田さんのところにまで警察が来ましたか?」

「いや、来ちゃあ居ないよ。まぁ時間の問題だとは思うけどね」

 仕事柄、警察の知人も何人か居るという西田さんのもとに刑事が来るのは至極当然のように思えた。むしろ協力関係にある身だ、一番突き易い人だろう。

「聞いたことのある名前だとは思ったんだけどね。まさかあの上原さんだとは思わないだろう。結局、昔の顔写真が出て来てやっと気づいたんだ」

 俺のカウンセリングをするため、西田さんはあの人の顔も名前もばっちり知っている。俺の前で「上原亮二」が禁句だったことや、あの人の写真があると動揺したことなど、俺は当時の自分の様子をたまに西田さんから教えてもらっている。

 実際あの人と暮らしている時は平気だったことが、あの人が居なくなってから駄目になった。今まで持続していたものがなくなった安堵感より、いつまた来るのかという恐怖が先立ってしまって、結局平穏に眠れなかった。それでも時というものはいくつかを解消してくれる。だから母の死後、俺にとって何ができなかったか確認することは、少しずつ前に進んでいる証拠になるのだという。

「警察は何度も来ているのかい? しつこいようだったら一応云っておくが」

「いえ、二度だけです。しかも一度目は俺がまだあの人が死んだことを知らなかったから、ほとんど反射的に追い返してしまいましたけど……警察が俺を疑うのも仕方ないと思いますよ」

「信君」

「良いんです、俺が殺したいと思った相手は、あの人なんですから」

 実際に殺そうと決心したことは、母の法事以来ない。一回忌、三回忌、七回忌、どれをとってもあの人は現れなかった。非常に狡猾なあの人に勝つには法律に保護してもらえるうちだと思っていたが、その間にあの人に会うことはなかった。会わないうちに俺の中の殺意というものは徐々に薄れて行った。消えたわけではない、減っただけで確実にまだ心の何所かには残っている。だから敢えて反論もせず、俺は殺意があることを認める。

 俺の傷を見た人は数えるほどしか居ない。だがそれでも、たまたま見えてしまっただけで人を不快にさせるこれらは、十一歳が持つには重た過ぎた。二十八になった今も夏場で長袖を着続ける生活を続けるとわかっていたら、あの時の俺は死んだ方がましだと考えただろう。

「信君」

「ごめんなさい、でも本心ですから」

 俺があの人への恨みを否定しないことに、西田さんは顔をしかめる。だがそれは、まぎれもない本心だ。嘘を吐く必要は何所にもない、俺のそのままの姿。それをまるごと認めてくれたのは佐治と彼女だった。そんなことを云うなと今までの大人は頭ごなしに反対したものの、俺は本心を否定される意味がわからなかった。だから西田さんの前でも、こうして繕うことなく本音を云う。もしそれでも捕まるのなら仕方ない。俺はどうしても、嘘だけは吐けない。

「まぁ今後あまりにもしつこいようなことになれば、私もできる限りのことはするよ。いつでも連絡してくれて良いからね」

「いつもすみません、ありがとうございます」

 俺は西田さんにとって、悪い患者の一人だ。十四年も経っていながら、まったく立ち直りの兆しすら見せない。だがそれでも、彼は見捨てることなくこうして毎回俺に会ってくれる。たとえ家族が居なくとも、そうして手を差し伸べてくれる人が居る自分を不幸だと感じたことはない。

「そうだ、信君。手術はどうする?」

 訊かれるまですっかり忘れていたことを掘り起こされ、俺の思考は一瞬止まる。

「……すみません、考えておきます」

「うん、どうせすぐやろうって簡単にできるわけじゃあないからね。信君が落ち着いてからで構わないよ」

 彼女は俺の傷を知ってからというもの、熱心に手術を勧めてくれた。知り合ったばかりの西田さんに相談して、医者を捜してもらったのだと云う。傷を消すという発想自体俺にはなかったものだから、そんな提案を出してこられた時には随分と間の抜けた顔をしていたと思う。

 ──お金、すごくかかるけど。その……私もがんばって働くから!

 非現実的な話をあまりにも真剣な顔でするから思わず笑ってしまったら、酷いと怒られた。笑うのは確かに悪かったが、彼女がそこまで考えてくれたことが嬉しかった。この気持ち悪い傷を持ち続ける必要がなくなった気がして、俺は前向きに手術を考えていた。

 だがその気持ちも、今は消えかけている。むしろあの人が死んだからこそ、この全身に渡る傷を、俺は持ち続けていなければいけない気がした。

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