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第三章

 朝の五時。その時間になると、彼はやって来る。来なければ俺は安心して眠れるが、来れば地獄が始まる。もう嫌になるというほどの煙草の香りと、独特の酒臭さ。

 俺は息を詰めてその時間を待った。だからどうしても、五時が来るまで眠れなかった。もしうたた寝しても、五時前に自然と目が覚めた。そうして地獄が始まれば、俺はほとんど眠ることなく朝を迎えるのだ。

「おはよう、信」

 そうして何事も知らない母を前に、俺は痛む身体を隠して何事もなかったかのようにするしかなかった。子どもというのは不思議なもので、そういった負の感情を、親に隠すことが多いのだと云う。その一方で気付いてくれない母に、苛立ちと諦めと、そして絶望を感じていたのかもしれない。

「……信」

 見られたきっかけは、なぜだか覚えていない。体育の授業を休み続けていたら、問いただされたのだったか。それらの記憶は曖昧だが、初めて見られた時の、母の青褪めた顔だけはとても鮮明だ。あんな顔をさせてしまったことにすごく慌てて、動揺してしまったことは覚えている。転んだと誤魔化すほど俺の傷は軽くなかったし、誰にやられたかなどこの狭い世界しか存在しない家族では当たり前のように漏れてしまう。

 まるで俺が悪いことをしでかしてしまったかのような、犯罪者になってしまったかのような罪悪感が生まれて、とりあえず慌てて謝った。母の顔と罪悪感。それだけが、鮮明な記憶として残っている。

 気付かないのなら気付かないままで居て欲しかったのに、母は気付いてしまった。それが俺にとっての、唯一の後悔である。

 会社の昼休み、相変わらずぼんやりとしていたところに携帯が鳴り響いた。発信者は高倉静江。流石に出ないわけにはいかず、俺は席を立つ。

「あ、信君。ごめんね、仕事中に。今大丈夫?」

「平気……だけど、ちょっと待って」

 残念な雨模様の所為で、社内には人がごった返している。流石にこれだけの人の前でする話ではないだろうとわかったので、俺はどうにか人の少ない廊下の隅まで移動した。

「ごめんね、忙しいのに」

「警察から電話でも来た?」

「……あ、わかったの」

「俺の方に来たから、静江さんにも当然行くだろうなと思って。ごめん、先に伝えておけば良かった」

「そうよ、私はともかく、いろいろ訊かれたでしょう? 平気?」

 母の実妹である静江さんとは、五年前に叔父が亡くなってから疎遠になっていた。俺にとって唯一の親戚と云える人だが、叔父に散々迷惑をかけていたから、これ以上この人たちの世話にはなれないと俺が勝手に判断したのだ。子どもの居ない叔母たちにとってはそれが逆に淋しいのだと云うことを教えてくれたのは、彼女だった。だからここ数年は彼女も含め、久々に叔母もこちらに足を向けて来るようになっていた。

「大丈夫だよ。ただごめん、なんか実感なくて」

「そう、よね……。私も未だ信じられないもの」

「それより静江さんは大丈夫だったの、なんか訊かれなかった?」

「事務的なことばかりだったわよ。信君がこっちに居た時のことも訊かれたけど、事実しか答えてないからね?」

 疑われることはわかっていたから、俺のことを訊かれても驚きはしなかった。むしろずいぶん早々と静江さんまで手が伸びたものだと感心したぐらいである。身元が判明して出て来る関係者が戸籍も血液も関係性がない人間ばかりということは、あれ以来は親密に関係を築いた人が本当に居ないのだろうか。

 詳しい話はまた週末にでもそっちに行くという静江さんをどうにか押しとめて通話を切る。たった数分の電話なのにやけに緊張した。彼女と別れてから、また叔母と距離を置いてしまいそうなのを、俺はどうにか押さえている。心配してくれるのはありがたいのだが、親らしい態度に慣れていない俺はやはり対応に困るのだ。

 戻ると佐治がやけににやにやした顔で俺を見ているから、無視を決め込んで席に座ったというのに、わざわざ椅子を近づけて大声で叫ぶ。

「綾瀬か!」

「……違うよ」

 またその話かと当事者なのに少し呆れる。

「なんだよー、今あいつに電話つながらなかったからそうかと思ったのによ」

「佐治しつこ過ぎー。新手のストーカーやめてもらえませんかー。俺の嫁に付きまとうなって信君に怒られるよー」

 柏さんがからかうとだってさーと佐治はぐちぐち、彼女の居ないことに対する不満をぶちまける。佐治が今、彼女に電話したにも関わらずつながらないのは、単に佐治の着信だから出なかっただけだろう。佐治はいつでもあんな調子だから、彼女に用もないのにしょっちゅう電話をしては無視されていた。俺がかけたらどうなるのか、会社の電話からかけたらどうなのか。少し気になったものの、結局かけるまで至らない。

 ──嫌い……、大嫌い。

 想像以上にその言葉が俺に響いているからなのか、あまりに唐突な別れに俺は文句も云わず引き下がっている。

「麻理乃ちゃんの卒業式行きたいんだけど、駄目かなぁ……」

 突然、部長がぽつりとつぶやいた言葉に、俺は思わず彼を見てしまった。

「え、何、部長、行く気だったの?」

「そりゃ行くよ。佐治なんて喜び勇んで行くだろ」

「そりゃもちろん! それって有給オッケーですかね?」

「莫迦、普通に考えて休日だろ。俺も行きたい」

 驚いたのは俺だけではなかったようだが、遠巻きに話を聞いていた人たちも、喜色で彼女の卒業式話に混じり始める。お祝いは何が良いか、打ち上げは何所にするか、云々。俺と彼女が別れたことはみんな当然知っているのだが、未だ信じていない。それこそあの人が殺された事実を俺が信じていないように、冗談もほどほどにと最初は流されたぐらいである。結果として彼女がマリッジブルーなのだという結論に達した会社のみんなは、平然と彼女の話を俺の前でもする。それですらたまに俺には大きく響いてしまうことに、気づいているのかいないのかはわからないが、悪意があるわけではないから俺も黙っている。

 前触れも予兆も、俺が気づけなかっただけかもしれない。だがそれでも、あまりにも唐突過ぎるから、何度も別れの数日前を考える。握りしめたままだった携帯のメールを開くと、意味もなく取ってある彼女のメールが羅列される。

『ごめん、今日は実家帰るね! あっちも荷物片付けないとヤバイよ……』

『みんなに会いたいなぁ、バイトしたいなぁ……』

『ごはんは食べるよね? うん、食べるでしょ。食べましょう!』

たった一箇月前だと云うのに、もう懐かしい気持ちになってしまう。もともとメールは大して好きではないから必要最低限しかしなかったのだが、彼女には極力返信をするようにしていた。その携帯も、最近は使用頻度がさらに落ちている。

『今日はこれからWK大学で特別講義。部屋の片づけは帰ったらやるよ!』

おかしな素振りも特になかったのに、この日帰って来た彼女に、俺は別れを告げられた。

「あー、ここで傷心に沈んでいる子がいるんですけどー」

 佐治のからかう口調にはっとすると、隣から携帯を覗いている。まったく油断も隙もない。小さく溜め息を吐いて携帯を仕舞えば、どうにも哀れに思えたのか、

「どうせそのうち戻って来るでしょー、笑っちゃうぐらい仲良しなんだからさ」

 柏さんはそう云って笑うものの、俺にはそんな日が本当に来るのかと信じられない。

「そういや綾瀬、俺に煙草くれとかこの間云って来たんだよな。いつからあんな生意気になったんだ、あいつ」

「え、あげたの?」

「あげるわけないじゃないですか、あんな餓鬼に俺のガソリン」

「あれ、でも麻理乃ちゃん、煙草嫌いだって云ってなかったっけー?」

 佐治と柏さんはからからと笑いながら彼女の話をする。

 ──どうしてそんなこと云うんですか、勝手に決めないでください。

 まるで出会ったばかりの頃、あまり好かれていないと思っていたあの頃に戻ったかのように、俺の中は不安定だった。

「はぁ! マジかよ!」

 いきなりの佐治の絶叫に、おそらくその場に居た全員が手を止めて彼を見た。隣に居る俺も当然と云えば当然だ。

「貢までさぼりやがったー。週末は忙しいってのになぁ」

 そう云って携帯をいじりまわすから、メールを見た感想なのだろう。また佐治の独り言かと、徐々に辺りが自分の仕事へと戻って行く。佐治が一人で騒いでいることは日常茶飯事で、ありきたりな日常なのだが、こういう時耳聡く入って来るのが柏さんである。

「え、何、どうしたの、貢」

「金曜来れないんだってよ」

「麻理乃ちゃん居ないからって堂々さぼりは良くないよねー」

 にやにや笑いながら俺を見られるものの、否定する材料もない俺は黙り込むしかない。

 瀬戸貢は麻理乃と同じ、うちの会社のアルバイトだ。麻理乃と同じ時期に入った彼は、異様なまで麻理乃に執着している。俺と麻理乃が付き合っていると知っていながら、いっそ麻理乃教とも云えるほどの熱心さで麻理乃を追いかけるそれは、ストーカーと間違えられてもおかしくはないのだが、麻理乃とは親友という間柄だ。どちらかと云うと佐治に近く、俺との相性は麻理乃の件がなくても良くないだろう。

「それもあるかもしれないですね。講義とかだったらサボれって云えたけど、バスケじゃなぁ」

「あれ、まだやってたんだっけ? できるわけ?」

「入ってないけどバスケ部に助っ人で呼ばれたんだそうです。まぁちょっと小さくても一応高校まで現役でしたし、まだ身体は動かしてるみたいだからできるんでしょうね」

「あいつは人生器用だよなぁ」

 それには同意する。周りにうまく合わせながらもしっかり自我を通し、意外に管轄が狭く自分のテリトリーを崩さない。だが懐を許した人にはとことん甘く、異常なまでの愛情を注ぐ。その対象が麻理乃だ。麻理乃もそんなすごいことをした覚えはないのにと、いつも邪見に扱っていながらもたまに困った顔を見せていた。

 何所でもやって行けそうに見える、だがそれは周囲から見た貢だ。相容れないまでも、彼の非常に狭い世界観は俺と似ているからわかり易い。ただ俺はどうでも良い人にまで良い顔できないから、貢の器用さには敬意を示している。まぁ云ったところで「厭味ですか」とにっこり返されそうなので、一度も云ったことはないが。

「今日から練習して週末もびっしりだと。良かったな、成田」

「何が」

「そんだけ忙しかったら綾瀬を追いかけまわす間もない」

「……貢の学校から近いんだけどね、麻理乃の家」

 気にしていたわけではないが、本音がぼろりと漏れる。貢の大学から麻理乃の家まで、バイクなら十分足らずでたどり着ける。たった五分でも時間があれば麻理乃の近くに居ようとする男だ。練習と云っても終わったら駆けつけるぐらいはするだろう。

俺は貢のように盲目にはなれない。信者にはなれない。だがそれでも、俺の中で麻理乃の存在はとても大きく、そう簡単に譲れない。

「あっはは、成田笑えるー」

 佐治は俺の胸中などわかり切っているらしく、本気で笑っている。俺も可笑しいと思いながら、佐治に云い返す言葉を持てない。貢ほど執着できないのなら、彼が今麻理乃と居ようが居まいが関係ない。俺は麻理乃に別れを切り出され、それを承諾するしかできない。貢とは違う、ただの莫迦なのだ。

「さっさと迎えに行ってやれよ、あの餓鬼、頑固だから待ってたらおまえ三十路とか恐ろしいことになってるぞ」

 絶賛三十路道を歩いているはずの佐治は、自分のことを棚に上げて無責任な発言をする。三十などすぐだし、別に気にしたこともないのだが、何を云ったところで佐治には意味がない。

「ぐずぐずしてる綾瀬にはぐずぐずしたおまえがちょうど良いんだよ、早くしろ」

 佐治の云う通りだ。麻理乃のもとへ行き、すべての事情を聴かなければならないとわかっている。別れるにしても別れないにしても、麻理乃のもとへ行かなければならないとわかっている。だがそれでも、俺はぐずぐずと返答を先延ばしにしている。

 ──嫌い……、大嫌い。

今でもあの言葉が、耳に響いているからだろうか。そしてまた嘘ではないはずのその言葉を聴くことを、躊躇っているからなのか。

 それとも。

 あらゆる考えが頭をよぎっては霧散した。

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