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第二章

「初めまして、信君。僕はね、お母さんの先輩なんだ」

 そう挨拶して来た時の笑顔は、既に霞がかかってしまっていて、たぶん今間近で彼を見たところでわからないかもしれない。人見知りの気があった俺は、当然のように警戒して、たまに遊びに来るその人にあまり近寄らなかった。そんな彼は、必要以上俺に近寄ろうとせず、ふと気になった瞬間に入り込み過ぎない程度にかまってくれる、ちょうど良い付き合い方をしてくれた。だから次第に警戒心も解けた。

「ねぇ、信。上原さんに新しいお父さんになってもらったら、駄目かな」

 俺の中で父というものへの印象はあまり強くない。父は俺が四歳の時、飲酒運転による交通事故で亡くなった。母に連れられて病院へ行った記憶は断片的にあるものの、亡くなった衝撃を感じられる年齢でもなかった。ただあの人は、居なくなってしまったのだ。もう会うこともないのだ。それを確認しただけだった。

 上原亮二。母の会社の先輩で、たまに来てもちょうど良い関係を築いてくれる人。

 あの人はそんなに嫌いじゃない。家に一人で居ることは慣れてしまっていて淋しいと感じたことなどなかった。それでも母さんがそれだけ嬉しそうに云うのなら。

 良いんじゃないかな。

 そう思ったことがまず、間違いだった。


「……成田!」

 いきなりの大声に驚いてはっとする。就業時間になってそれぞれ仕事をしていたはずだが、見回せば辺りの席はすでに誰も居ない。佐治が隣の席に残っているだけだった。いつものごとく未知の生物を見るかのような目で俺を覗いて来る。

「まーた何所かふっとんでだぞ。大丈夫か?」

「え、ああ、うん」

 気が抜けているのはわかっていた。原因は昨日訪れた刑事。あんな昔のことを思い出す必要もないのに、昨日からぐるぐると回ってしまって仕方ない。

「まぁおまえがぼけっとしてんのはいつものことだけど……」

 と、佐治は意味ありげに俺を見る。基本お節介な年上の同僚は、愛想を振り撒かない俺のことまでなぜか気にかけて、今では自他ともに認める「成田の親友」にまで昇格してしまっている。そうして俺も自然と友人と呼べる範囲にまで佐治を入れてしまっているのは、佐治のストレートな性格のおかげかもしれない。

「まだ気にしてるわけ、綾瀬のこと」

「……え」別れた彼女の話を持って来られて、余計にぐらつく。もちろん今考えていたこととは違うが、だからと云って話を振られたら引っかかるし、別れたことに衝撃を受けていることは確かだ。

「最近ようやく立ち直ったと思ったのに、なんだ、駄目か」

「いや、そういうわけでもないんだけど」

「俺からも説得しようとしたんだけどなぁ、忙しいとか云って電話切られんだよ。一昨日ぐらいから電話に出もしないしよ。生意気な餓鬼だな、本当」

「佐治、余計なことはしない」

俺はきっちり云い返したものの、佐治は納得いかないようでぶつぶつ云っている。

──大嫌い。

最後にそう云って居なくなったのは、バイトで会社に来ていた子。初めて俺のすべてを受け止めてくれて、初めて一緒に居られると思った子。今でも大事で俺にとってのすべてだ。

だからこそ、嫌いと云われた事実の受け止め方に戸惑っている。

「別れて欲しいの」

そう云われた時は、わけがわからないというのはあった。あまりにも唐突過ぎて、いったい何が起こっているのか理解できなかった。来年には結婚する約束でもう準備を進めていたし、周りも当たり前のようにそれを受け止めてくれていた。

もともと臆病な俺は、あまり自信がない。だからもしかしたら安心しきって調子に乗っていたのかもしれない。どうして、と尋ねても答えてくれない彼女に焦れた。

「俺が、嫌い?」はっと思いついたように、彼女は俺を見た。

 ──俺は俺に自信がないから、俺が嫌われたらそれで終わりだよ。

 俺たちの始まりにそういった話をしたことを、覚えていたのかもしれない。

「そう、──嫌い……、大嫌い」

 そう云いながらも、彼女は俺に抱きついてきた。今にも泣きそうなのに泣かない。震えている彼女に、俺はどうしてあげたら良いのかわからなくて、結局その提案を飲んだ。それから一度も会っていない。学校は知っているし、実家も知っているし、会おうと思えば会える。だけど俺は、それができずに日々をのうのうと暮らしている。

 嫌いだと。そう云われた衝撃が、未だ引きずっているのかもしれない。

「はーあ、頑固な奴らって嫌だねぇ。あの餓鬼、絶対捕まえてやる」

 佐治と俺と彼女と、知らないうちにつるんでいることが多かった。だから佐治も彼女とは若すぎるが娘のような、本当に身内に近い形で付き合っていた。別れる前に彼女がバイトを辞めていたのはただ単純に学校が忙しくなったとのことだが、今思えば何か他にも理由があったのかもしれない。それも今は、俺には想像することしかできない。すべての解決は結局のところ俺にある、あまりこのことに関して、首を突っ込んで欲しくない。

「佐治」

「わかってるよ。でもやっぱ、納得いかねぇよなぁ」

 彼女は非常に俺になついていた。付き合い初めてからも、お互いのバランスが非常に良かったのか、佐治なんてまるで自分のことのように喜んでいた。まぁ、自分が既に結婚して子どもも居るから他人の幸せを単純に喜んでいただけかもしれないが。

 だからこそ、みんなから不思議がられる。

 それでも理由が一番わからないのは、俺だ。確認することもしないで、このまま二度と会わないで終わる。酷いかもしれないが、これが臆病な今の俺だ。

「佐治、余計なことぐだぐだ云ってたら休憩終わるよ」

「お、飯食べるか? そういやおまえ、また最近食べてないだろ」

「まあ、前と同じかな」

 もともと一日一食主義というか、単純に少食で一食しか食べられない。最近どうにか一食と少し食べられるようになったものの、作る相手が居なくなった部屋では余計に食べることもなくなった。過保護が一人減ると、意外にも生活がだいぶ変わるものである。

「あーったく、しょうがない。俺が居ないと生活できそうにねぇよなぁ」

 それでも一人残る保護者は、俺を見捨てずに行くぞと声をかけてくれる。昨日と云い今日と云い、まったくもって、恵まれた生活をしているなと思うのだった。

「成田さん」

 マンションの前に人が居ることはわかっていた。昨日の不快な気持ちを思い出し嫌な予感はしていたが、それでももう無視はできなかった。

「昨日は唐突に申し訳ありませんでした」

 そう云って深々頭を下げたのは、昨日の刑事だ。まさか警察というものにまた関わることになるとは思いもしなかったが、今日は昨日と違ってほんの少し余裕がある。

「……こちらこそ、申し訳ありませんでした」

一度不意打ちをかけられたからか、今日は落ち着いて居られた。

「あの人の話でしたよね、どうぞ」

 人を家に上げることは滅多にない。それこそ最近は彼女か佐治だけだったのだが、今から連れ立って雑踏騒がしい渋谷まで出てする話でもない。俺の提案に刑事はすみませんと頭を下げつつ、先に歩く俺に続いて部屋にやって来た。

 扉を開けようとドアノブを引いたら、鍵がかかっていた。佐治の云う通り、まだ本気で落ち込んでいるのかもしれない。長い一人暮らし、鍵を開けることは既に習慣と化していたが、ここ一年はほぼ彼女が先に家に居ることが多かった。だいたい帰って来る時間になると鍵を開けておいてくれる、そんな習慣が既に染みついていたらしい。十四年も馴染んだ癖がたった一年で崩れるぐらい、慣れ切ってしまっていた。

 小さく溜め息を吐いて鍵を開けると、そこにはもちろん誰も居ない真っ暗な部屋が広がっている。慣れ親しんだ、十四年の景色だ。

「どうぞ」

 代わりに連れて来た刑事を振り返ると、少し様子を伺うようにして失礼しますと中に入って来た。叔父が用意してくれたマンションは一人で住むにしては無駄に広いが、慣れてしまえば住み易い。ひとまず刑事をリビングに通して俺はコーヒーを入れる。

「失礼ですが、お一人、ですか」

「……はい」

 独身であることは知っているだろうに、わざわざそう尋ねるということは、これだけ広いのだから一緒に住んでいる人が居るのではないかと思ったのだろう。俺の鍵の失敗もあるし、何せ刑事が座った椅子は正面にもう一つあるし、辺りを見回せば生活用品は何から何まで二人分そろっている。だがそれらの理由をわざわざ説明する必要はない。

 簡単に入れたコーヒーを置いて、俺は刑事の正面に座る。家で食事もしなくなった俺は、そういえば久しぶりにここへ座った。

「昨日は大変失礼しました、改めまして警視庁の柴田と申します」

 慇懃に頭を下げる姿は、乱雑な刑事の印象とはまったく違った。以前世話になった警察も、ずいぶんと親切な人だったことは覚えている。

「……あの人のことでしたよね」

「はい」

「本当にあの人、殺されたんですか」

「はい、実に無残な殺され方でした」

昨夜ケンさんの家で見たニュース以外でも、今朝自分の家でニュースをきちんと見たし、会社で新聞も読んだ。身元不明のばらばらにされた遺体は、葛飾区に住む非常勤講師上原亮二だと判明。今朝のニュースで映された写真は最近のものに変わっており、ぱっと見ただけではわからなかったが、ずいぶんと記憶の底に沈んでいた面影はあった。

 本当にあの人が殺されたのか。未だその事実が処理できていない。

「ご存じありませんでしたか」

「あの事件自体は会社でたまたま見て知っていましたが、それがあの人だということは昨日初めて柴田さんから伺いました」

 そうでなければ、俺が思い出す必要もなかった名前だ。最近落ち着いて来て忘れられつつあった名前を掘り起こされ、逆に動揺している。名前を聞いたぐらいで震えが来たりするようなことはなくなったが、嫌な気分にはなるし俺自身の口からその名を出すことには抵抗がある。

「上原さんと最後にお会いしたのはいつになりますか?」

「母が死んでからは一度も。葬儀にも顔は見せていませんから、もう……十四年ですか、それぐらい経ちます」

「そうですか、では近況などはまったく?」

「知りませんでした」

 俺は無意識のうちに右腕にやっていた手に力を込めた。

「むしろ知りたくもないし、二度と会いたくもありません」

 柴田さんは意外そうに俺をじっと見たが、本心なのだから仕方がない。だからこそ、未だ信じられない。本当に死んだのだろうか。居ないと実感できたら、俺は日々を平穏に送れるのか、さっぱり現実味がない。

「上原さんは、成田弥恵さん……お母様が亡くなられる前に家を出たとか」

「はい、籍を入れる前に何度か諍いがあって、結局籍は入れていません。──私のところに来たのは、母の件を調べたからですよね」

 母の会社の先輩だったあの人は、気が付けば母の恋人となっていた。父が死んだ時もまだ母は若かったから、再婚するのは自然の流れで俺も新しい父を拒否するほど実父を覚えていなかった。だが結局、俺とあの人に、戸籍上も血液上も親族としてのつながりはない。それでも警察が俺のところに来たのは、調べればあの人から俺につながる糸が簡単にあるということだ。引きちぎってしまいたい糸は、母によってつくられてしまった。

 調べるのはさも当たり前のことなのに、柴田さんは非常に申し訳なさそうな顔をする。

「大変失礼ながら、ここに来る前に当時の関係者から話を聞いています。口論の原因は上原さんによる貴方への暴力、それに気付けなかったことによる弥恵さんの自殺。──お間違いありませんか」

「はい、間違いありません。母が死んだ理由については本当にそうかはわかりませんが」

 母は結局、自責の念に駆られて死んだことになっている。酷くあっけない最期だった。あと少しで俺は、あの時の母と同じ年齢になる。それだけの年齢であれほど思いつめてしまうぐらい責任を感じていたのだと思うと、俺は親不孝なのだと思う。まったくそんな母に気付けず、俺ができたのは哀れな最期を見つけることぐらいだった。

 十一歳の俺は傷つけられる自分がかわいそうなだけの、まだ子どもでしかなかった。

 俺があの人から受けていた暴力に気付けなかったことを、母が悔いていたことは知っている。母は死ぬ前の数日間、気付けなくてごめんね、ごめんねと、何度も俺の傷を見ては撫でた。母に気付かれたことが俺にとって最大の屈辱であることも知らず、ひたすら謝り続け、ひたすら傷を見ては泣いた。それだけで自殺にまで走ったかどうかは、あの時を思い出しても俺にはわからない。ただ、あの人が殺された件で警察がそこまで調べているというのなら、確実なことはただ一つ。

「俺を疑っているのでしょう?」

「え?」一瞬だけ、丁重な姿勢を崩さない柴田さんが虚を突かれた顔をした。そこまで驚くようなことでもなく、ごく自然な流れだと思うのだが、意外だったようだ。

「疑われてもおかしくはないと思います。むしろ自然でしょう」

「ええ……、確かにそうでしょうが、まだお話を聞きに来た段階ですから」

 そういえば刑事というのはいつも二人組だった気がするのだが、柴田さんは一人だ。あれは単なる小説の定番か、それともやはりまだ様子見だったのかもしれない。そんな相手に、いきなり爆弾を投げかけてしまったのだろうか。

「それでも、俺にはあの人を殺す動機がある」

「動機だけでは疑いません。上原さんの親密な交友関係が狭いものですから、一人ひとり確認を取っているだけです」

 言葉自体は型通りの返答だが、柴田さんは本気で驚いているように見えた。俺がいきなりそんなことを云い出すとは思わなかったのということは、あまり当時の状況が伝わっていないのだろうか。

「今まで何所かにあの人が居るという意識は、必ず俺の中にありました。それでも二度と会うことも関わることもないと思っていました。ただ正直に云えば、子どもの頃の俺は、あの人を殺したいと思ったことがあります」

 一度だけ、人を殺したいと思ったことがある。そう吐露したのは、まだ記憶に新しい。きちんと話した記憶があるのは、佐治と彼女だけ。それもすべてここ数年のことで、他の誰にも云ったことがないこのどす黒い感情を、いつから冷静に他者へ云えるようになったのだろうか。

「子ども心にですが、母の葬儀に現れたら殺してやろうと思っていました。でもあの人は来ませんでした。それ以来そういった意識をしていませんでしたが、あの人が殺されて疑われるのは俺でしょう。あの人を恨んでいるのは、誰に訊いても俺が一番だと思います」

 むしろそうでなくては嫌だという意地すらある。これまでの人生で上原亮二を殺したいほど憎んだのは、俺であることだけは自信を持てる。だから新聞を読んであの人が死んだことを知っていたら、警察が来たところでもっと冷静に対処できたかもしれない。ただ、いきなりあの人が死んだことを知らされて動揺が先に立ってしまった。まさか俺の関わらないところで殺されるなんて、想像もしなかった。

「でもやっぱり、死んだと云われても、実感はちっとも沸きません」

「では訊きますが、今目の前に上原さんが現れたら、貴方はどうしましたか」

「……わかりません、本当に想像もできない。死んだら喜べるものだと思っていましたが、そうでもないですからね」

 あの人が死んだからと云って、生活が変わることもない。最近変わったことと云えば、目の前に居るのが彼女ではなく刑事で、家の鍵を自分で開けなければならなくなったことぐらい。あの人に形成された、一日一食と三時間睡眠の悪循環でしかない生活態度は治らない。

 俺の反応をどう捉えたのかわからないが、柴田さんは小さく頭を下げた。

「お疲れのところ貴重なお時間をありがとうございました。申し訳ありませんが、またお話を伺いに来てもよろしいでしょうか」

「かまいません。ただあの人の近況とか、そういったものは知りたくありません」

「結構ですよ、ご協力して戴けるのなら助かります。思い出したくないお話にご協力、ありがとうございました」

 思い出したくないお話。

 思い出したくなくとも、思い出さずには居られない。毎朝の習慣は治ることなく、俺はやはりあの人の影を捜してしまう。これが治るのなら、あの人のことなどとっくに忘れていただろうに。

「失礼します」

 玄関までぼんやりと柴田さんを見送りリビングに戻ると、見飽きた部屋が広がっていた。あの人と母と暮らした家ではない。叔父が買ってくれた、あまりにも広すぎるマンションの一室。ここにあの屈辱でしかない日々はないものの、結局俺はここでもあの人の影に怯えて暮らした。

 そっと右腕の裾をまくりあげ、一番酷い古傷を見る。未だ消えることのない火傷の数々は、俺の身体全体に巡らされている。痛みすら忘れつつあるが、それでも傷は消えてくれない。

 ──どうして消えないの。

 そう云って泣いてくれた彼女は、もうここには居ない。そちらのことのほうが、俺に打撃を与えている。テーブルに置かれたコーヒー二つが、無駄に淋しさを誘っていた。

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