第一章
会社に着いた時間がいつもより早かったのは、珍しく熟睡できたからだ。本当に不思議なぐらい、すんなりと眠りにつけたからか、起きた時間もいつもより早かった。いつまでも家に居るとだらだらしてしまいそうだったから、俺はおそらく入社以来初めてであろう三十分前出社をした。案の定、いつも無駄なぐらい早い柏さんは、ぼんやりと見ていたはずのテレビから視線を俺に移して目を見開いた。
「え、信君? ほんもの?」
「偽物が居るとは思えませんけど。何かまずかったですか?」
「だ、だってどうしたの? 何かあったの?」
そこまで驚かれるのは、別におかしいことではない。すみませんいつもぎりぎりの出社でと、逆に頭を下げたくもなる。
「成田にだって奇跡はあるだろ」
「部長、それ俺より酷いこと云ってますよ」
テレビから目を離さずさらりと酷いことを云った部長ではあるが、作業が終わらず休日出勤もしているはずだ。金曜に休みをもらって連休していた身としては肩身が狭いので、部長のもとまで行って頭を下げる。
「すみません、お休みありがとうございました」
そこでようやく俺の方を見た部長は、疲れた様子さえ見せず静かに微笑んだ。
「ああ、ちゃんとゆっくりして来たか?」
「はい、ありがとうございました」
叔父の命日だったため、金曜に休みをもらって静岡まで行って来た。近い上に法要があるわけでもないから別段無理に休みを取る必要もなかったのだが、今回は叔母に時間を取りなさいと云われていたため、一日休みをもらっていた。
「良いなぁ、信君。俺もまったりしたーい」
「おまえが云うな、カシ」
早く会社に来てしていることと云えば、コーヒーを飲んでまったりするだけの先輩に、テレビを見ながらではあるが仕事をこなし始めている部長はきっぱり叱る。飛び火だよとふてくされた柏さんは、聞こえないふりを決め込んでテレビの方を見る。
「……区で男性の右足と思われるものが発見されました」
ふと静かになった空間に、ニュースの声がやけに大きく響いた。新聞を取らずテレビも見ない俺は自然と世間に疎くなるのだが、会社でこうして流してくれると意識せず知ることができるから便利だ。
「広域にちりばめられた可能性も考え、警察は広範囲に渡る捜査を進めています。現在見つかっているのは、右足だけで……」
「ばらばらだと。酷いもんだ」
「……ですね」
おそらく三十代から五十代の、とアナウンサーは情報を投げ続けるが、見知らぬ男性の死に対する感想はと云えば、それしかない。
三人でぼけっとテレビを見ていると、ぞろぞろとみんなが出社し、仕事の時間が近付いたため、俺も大人しく席に座った。
「あれー! なんで成田が居るの? え、何、今日なんかあったっけ?」
煩いぐらいに騒ぎ立てる佐治はいつも通りだからまだしも、難波さんまで驚いた顔をして俺を見て来るのは、流石に罪悪感が残った。いつも遅くて本当にすみません。にぎやかな外野を無視するため席に戻っても、視線をまたテレビに向ける。
「ばらばらの遺体には火傷の痕もあり、どうやら殺害後につけられた可能性が高いということです。警視庁は殺人事件と見て、身元の確認を急ぐと共に……」
火傷の痕。ここのところない大きな事件だからか、センセーショナルに取り上げられそうだ。珍しく目にかけたニュースに、俺はそれぐらいの関心しか払わなかった。
会社から真っ直ぐ家へと帰ると、マンションの入り口前に珍しく人待ち風な男性が居た。ここらは閑静な住宅街で、こんな場所にぽつんと人が立っていることなど滅多にない。犬の散歩やウォーキングなら見かけるものの、マンションの前に立っているということは、待ち合わせか何かだろう。五十代ぐらいの男性に見覚えもなかった俺は、そのまま行き過ぎようとした。しかし彼は俺を認めると、軽く頭を下げて来た。
「唐突に失礼ですが、成田信さんでしょうか」
「……はい」
人の顔を覚えるのは苦手だが、間違いなくこの人には会ったことがないと断言できた。もともと愛想の良くない顔がさらに顰められたことだろう。しかし相手も五分五分で、愛嬌を振り撒くことは苦手そうだった。堅苦しい顔のまま口を開く。
「初めまして、唐突に申し訳ありません。警視庁の柴田と申します」
そう云いながら警察手帳を少しだけ見せた柴田氏は、またまた小さく頭を下げた。滅多に日常生活では聞くことのない、警視庁の、という部分から頭が回らなかった。
「昨日殺害された上原亮二さんの件についてお話を伺いたく参りました。お帰りになられたばかりのところ申し訳ありませんが、少しお時間よろしいでしょうか」
ウエハラ。
心拍数が嫌でも上がる。
「……殺害、された……?」
「ああ、お仕事のお帰りですからね。夕方のニュースをご覧になっていませんか?」
「……はい」
今朝見たきり、テレビに意識は向けず仕事をこなした。たまに外に出たりしていたから、ニュースなど今朝きり見ていない。
「昨日の朝、葛飾区で切断された遺体が発見されました。身元不明でしたがすぐに頭部が発見され、捜査の結果、上原亮二さんだと判明したのです」
それが今朝見たニュースであるとわかるまでだいぶ時間がかかったのは、思いもよらない名前が出て来たからだ。
「上原さんは独身で、ご家族も居ません。ご親族というものを辿ると、貴方が……」
「やめてください」
咄嗟に発した言葉と共に、右腕がきりきりとうずいた。思い出したくもない、あんな男のことでこんなにも過敏になる自分に腹が立つ。それでも云わずには居られない。
「身内になったことなんてありません、赤の他人です」
「しかし」
「失礼します」
俺は止める柴田氏を無視して、マンションの中に入る。階段で二階に上がり、扉に手をかけたところで鍵に差し止められた。そうだ、鍵を開けないといけないのかと、ポケットを探って鍵を探し立てたが、今度はそれを取り落とす。拾おうとかがんだところで、気持ち悪いめまいが襲う。
──昨日殺害された上原亮二さんの件について。
殺された。
わけのわからない混乱が、頭の中を侵食する。鍵を取ろうとした手が震えている。
──上原さんは独身で、ご家族も居ません。ご親族というものを辿ると、貴方が……。
「シン?」
突然声をかけられて、はっと顔を上げると隣に住むケンさんが立っていた。休みでくつろいでいたのか、シャツにパンツと云う部屋着らしいラフな格好にタオルを首にかけている。汗がひたりと流れる俺の顔を、青い瞳で俺を見つめる。
「がんがん音したけど、どうしたの、具合悪いの?」
「……あ、ううん」
鍵を握りしめてどうにか立ち上がる。少しふらついたものの、貧血はよくあることだ。もともと丈夫ではない身体との付き合いは慣れている。少し視界がぼやける中、俺よりも年下の好青年に頭を下げる。
「ごめん、煩くして」
「そうじゃなくて、最近さらに体調悪そうだからさ、ずっと気にはなってたんだよ。また食べてないの?」
「……うんそう、食べてないから、立ちくらんだだけ」
事情を説明するのもおかしいかと思い話を合わせると、いつものあまり健康的ではない俺の状態を知っているだけにケンさんはすぐ察してくれたようだ。だがそれは生憎と放っておいてくれる類のものではなかった。髪をがりがりと掻き回し、苛立ちをあらわにしている。
「あー、もう! 一人でも食べないとダメだよ。ほらほら、おいでよ」
ケンさんは手招きして、自分の部屋に入ってしまう。正直行く気分でもなかったのだが、断るのも面倒くさいし今日は本当に何も食べていない。まだぼんやりとしている頭を直すためにも、俺はケンさんの好意に甘えることにした。部屋に入ると夕食の準備中だったのか、良いにおいが漂っている。独り身でここまでしようと思う、その労力がすごい。
「まったくシンは無理ばっかりなんだから。あ、適当に座ってね。この間、サクラさんにもいろいろ訊かれちゃったんだよ。シンのこと」
「あー……そう。適当に流しといて」
云われるまま椅子に座ると、ケンさんはぶつぶつ云いながらキッチンに引っ込む。
いつから俺の周りはこんなに過保護ばかり集まったのか、気付けば俺はマンション内でも会社でも世話のかかる奴になっている。ケンさんは俺より後に越して来たハーフで、日本語はぺらぺらだが、イギリス生活が長いため日本の生活に疎い。隣で年も近かったせいか、また彼の奔放な性格のせいか、いろいろ訊かれるうちに自然と話すようになったのだが、俺よりも年下の好青年は、ふらふらと歩き回っては友人になったホームレスと語らう、不思議な生活をしている。
マンション管理人の桜さんは、俺を中学生の時から見ているからか、何かと世話を焼きたがる。別に嫌なわけではないのだが、長らく家族が居ないから、こうした心配をされることがどうにも違和感となって残る。いつまで経っても慣れないのだ。
俺がぼんやりとしている間に、ケンさんは手際よく料理をテーブルに並べていく。しかしそのおいしそうな料理は、まったくもって統一性がない。肉じゃが、ミニパスタ、ごはんのおともはお味噌汁ではなくコーンスープ。独り身なのに何人分作ったのかという質問は敢えてしない。友人らしいホームレスへ差し入れるつもりで大量に作っているというのは知っている。俺が食べたところで友人の取り分は大して変わらないだろうから、大人しく食べることにした。
「静岡でいっぱい世話焼かれてきたかと思ったのにさぁ。何してたのさ」
「特に何も」
確かに食べられないほどの食事を出され、要るものはないのかと世話は焼かれた。だが用件と云えば叔父の墓参りぐらいだ。残るは叔母に近況報告と、叔父の知人に顔を出して冷やかされただけ。普段は一人の叔母に何か手伝えることがあるかとも思ったが、叔母はなんでも一人でこなせてしまうので、ぼんやりした俺が居ても役立たずなだけだった。
「でも結婚は破棄になったって、ちゃんと話しに行ったんでしょ?」
「一応したよ、納得してなかったけどね」
「そりゃ俺たちだって訳わかんないんだからさ。シンがちゃんとわかるように説明しないと駄目なんじゃないの?」
ケンさんの云うことはいちいちその通りで、わざわざ休みを取ったというのに、俺自身もいまいち呑み込めていない話を叔母にすることになってしまった。結果意味がわからないと云われてもそれは仕方ない。
婚約者と別れ、婚約は破棄になった。そうとしか云える言葉がなかった。唐突に別れを切り出された身としては、他に何を云えば良いかわからず、ただ曖昧な現実を淡々と語ることしかできなかった。
「本当に別れてから会ってないんだ?」
「会ってないよ」
「なんだぁ、俺もマリノには一箇月ぐらい前に会ったのが最後だもんなぁ。あれ以来来てないんだよね」
「一箇月前?」初めて聞く話に、つい反応してしまう。
「そうそう、たまたま帰りがけかな。エントランスで会ったから声かけたんだけど、具合悪そうだしなんか急いでたみたい。シンは仕事で居ない時間だったけど、慌てて部屋に入って行ったよ」
一箇月前と云うのは、ちょうど俺が彼女に別れを告げられた頃だ。何か原因がないのかと、どうしても気になってしまう。別れる前日までは何もおかしなところはなかった。唯一変だと思ったのは、別れを切り出されたあの日だけ。
──お願いがあるの。
ぼんやりしていると思い出す。彼女がなんと云っていたのかまで忘れたら、それこそ本当に原因不明のままだ。未練がましく泣いているわけではない、ただ単純に何が起こっているか未だ理解できていないほど、あまりに唐突過ぎて理解が追いついていないのだ。だから悲しいとか淋しいとかそういった負の感情も沸き出て来ない。
──殺害された上原亮二さんについて……。
唐突にさっきの非現実的な話を思い出して、思わず顔を伏せる。あれも未だ、信じられないことの一つ。確かめてみたいような、確かめないほうが良いような、どちらが正しいのかわからず揺れる。ふと時計を見ると、もう七時を過ぎていた。
「ごめん、ケンさん。テレビつけても良い?」
「ん? 珍しいね、良いよ」
俺の性格をほとんど知っているケンさんは、驚きこそしたものの気にした風もなくテレビをつけてくれる。ちょうど流れたのは国営で俺が確認したかった情報がそのまま聞こえてきた。
「……部が発見され、殺害されたのは葛飾区に住む非常勤講師・上原亮二さん五十五歳と判明しました」
映し出された古い顔写真を前に、俺は認めるしかなかった。映し出された写真は古いもので、俺がよく知っているあの時のものだ。
認めなければならない。殺されてばらばらにされた男性は、俺が殺したいと思っていたあの男、上原亮二だということを。