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序章

序章


 ──ごめんね、ごめん、ごめんなさい……。

 たまに見る夢では、母が震えてすがりながら俺に泣きついていた。ああこれは見たくない、一番見たくないものだと思ったところで世界は反転し、ぎしっと床のきしむ音で目が覚める。これは夢ではない、現実だ。そこではっと目が覚めて辺りの音を執拗に確かめる。

 しとしとと、雨の降る音だけが明け方の室内に響いていた。

 俺はもう一度、瞬きをしてから、傍らにある携帯に手を伸ばす。

 三月三日。間違いようのない数字を確認してから、そっと身体を起こす。何年経ったところで、何があったって、この目覚めの悪い夢を見ずにはいられない自分に呆れつつ、曇った空を見る。静かな雨が空からぽつりぽつりと落ちては、干からびたコンクリートを濡らしていく。どうやらまだ降り始めのようだった。

 いつもと変わらない朝、だが少し特別な日の朝。俺はいつもと同じように目覚め、いつもと同じように身支度をする。出かけるにはまだ早い時間だが、不思議と眠気はなかった。もう用意をしてしまった方が後々慌ただしくはならないだろう。

 仕舞ってあった書類をテーブルに広げ、下手な字でもそれなりに気を遣って丁寧に書き綴る。ただの個人情報の羅列だが、俺にしては珍しく集中して綺麗に書き上げた。丁寧に印を押して、しばらくそれを見る。

 これで良い。数年前に叶えるはずだったものが、ただ延びただけのこと。そのおかげで数年前の覚悟よりずっと強固なものになった。

 ──嫌い……、大嫌い。

 母の声よりもさらに重たく俺を呼び寄せる声、それを忘れず今日を迎えたのが何よりの証拠だと云える。そんな自信があった。

 不安で辛くて痛くて、それを口にしたところで誰も救いの手など差し伸べてくれない。だから一人で耐え抜かなくてはならない。それが当たり前だと思っていたし、人は当然そうして死んで行くものだと信じていた。

 だが目の前で実際に細かい震えと暖かな体温を感じた俺は、それが大きな間違いだということに気付いた。遅いながらに、気付いたのだ。この暖かさもこの振動もすべて現実のもので、俺が一緒に居てあげたのなら、きっと経験する必要がなかったものだと。

 彼女は不安で辛くて痛くて、きっと泣いていた。それを俺が気付けば、彼女一人で耐え抜く必要など何所にもなかったのだから。

 書類がすべてあることを確認し、俺は完全防備をして外に出る。マンションから出てすぐに、空から降る白いものが目につく。もう三月だと云うのにはらはらと降る雪を眺め、俺は思わず目を細める。さっきまでは雨だったと云うのに、いつ雪になったのだろう。寒いのは非常に苦手だ。この冬すら超えるのは耐え難いと思っていたのだが、約束した今日のため、俺はこの寒空でもどうにか外に出ている。そう、季節はもうすぐ春がやって来る。約束をした三月がやって来た。あっと云う間だったような、じりじりと遅かったような、どちらとも云えない感覚を持て余しながら過ごした日々だった。ただ云えるのは、一日一日を噛みしめるように過ごしたと云うこと。三十年生きて来て初めて、日々を生きていると実感できる年月だった。

だから俺は、その日々を少し惜しむように、躊躇しながらも足を進める。

 今でもまだ、あの時の震えていた感覚を覚えているから。

──嫌い……、大嫌い。

 震えて泣きつかれたのに、出て来た言葉はそればかりだった。

「……そっか」

 だから俺も、そう返すことしかできないままで。

 彼女を見たのは、それが最後になる。

 ──年前の、寒い寒い冬だった。


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