洋と文鳥
あとからよく考えたら、あれは予兆だったのかも知れない。
僕は病院に向かうタクシーに乗りながら外を眺めていた。母さんの陣痛がはじまって、学校が終わって、洋のお母さんと洋と病院に向かっている今も、僕は他人事のようにしか感じられなかった。隣で初めてのタクシーにはしゃぐ洋と、あれこれ独り言を呟く洋のお母さんのほうが、母さんのことをいくらか心配しているようだった。
窓からいつもは通らない並木が見えた。ぼーっと眺めているだけで進んでいく道。通り過ぎていく木々。人々。窓からこうやって景色を見るのは少しも飽きなかった。タクシーがブレーキをかけてゆっくりと止まる。今まで通り過ぎていた木が僕と並んだ。その木の上に止まっていた文鳥と僕は目があったような気がしたんだ。ふと目を凝らして文鳥だ、と思ったときにはその子はもう飛び立っていた。彼を目で追うとタクシーも動き出す。僕と彼は別の方向に向かっていった。たったそれだけ、偶然みたいなことなのに、その子に避けられたような気がしてたまらなかった。
病院につくと母さんの出産はもう終わっていた。初めての大きな病院に僕たちは少し緊張していたんだと思う。右足と右手が一緒に出ていた。緊張した面持ちの僕と、目をきらきらさせて病院内を見回す洋は、足早に病室に向かう洋のお母さんについていくのが必死だった。その時にすれ違ったお爺さんとか、車椅子のお姉ちゃんがとても印象的で少し怖いくらいだったことを覚えている。
心の準備もまだできていないのに病室のドアは開けられて中からお祖母ちゃんがでてきたときは心臓が飛び上がった。
「あら、必。お母さん頑張ったのよ。おつかれさまっていうんだよ」
お祖母ちゃんはほっとした顔をして、僕たちを通すと花瓶をもって出て行った。僕が話す前に洋が話す前に、母さんに声をかけたのは洋のお母さんだった。
「ちかちゃん!」
「あれ、せんちゃん?」
洋のお母さんの声に返事するように母さんの細い声が聞こえた。僕も病室に入るとひどく疲れた顔をした母さんの顔が見えた。母さんは僕の顔を見ると、ふんわりと笑ってくれた。僕はやっと安心する。僕はおなかの中の赤ちゃんより母さんの無事な姿のほうが見たかったんだとやっとわかった。
「泉ちゃん、ありがとうね。必を連れてきてくれて」
「いいのよ、睦ちゃんの顔見たかったし。おつかれさま。頑張ったね」
母さんは病院の服を着て、ベッドに横になっていた。笑っているけれどとても疲れているのがよくわかった。僕は椅子に座って母さんの細い指をきゅっと握った。母さんは僕のあごをするりと撫でると、いつものように学校楽しかった? と聞く。僕はうなずいた。窓から風がすーっとすり抜けていく。僕が待っていたのはこれなんだ。母さんがちゃんと僕を見てくれる。それだけでこんなに幸せな気持ちになるのかと驚いた。
「必くんのお母さん、赤ちゃんは?」
洋がおかっぱ頭をぶんぶん振ってたずねた。初めての病室に飛び跳ねる気持ちはわからなくもないけれど、もう少し大人しくしようね、洋。
「もうすぐくるかな、洋ちゃんは男の子か女の子、どちらだと思う?」
「うーんとね、男の子! 必くんとそっくりだったらうれしい」
洋の元気なその答えに母さんはなにも言わず、笑うだけだった。
病室は本当に白い部屋だった。僕は好き。落ち着いた空間だなと思った。薬品の匂いも癖になる。しばらく洋の話に耳を傾けていると、こんこんとノックが聞こえて年配のおばさんがにこにこした様子で病室に入ってきた。僕たちの顔を見ると、洋に言った。
「よかったね、弟くんだよ。いいおねえちゃんになってね」
母さんの隣に生まれたばかりの赤ちゃんをそっと横たえる。おばさんの腕がどけられて、赤ちゃんの顔を見たとき、僕はその中で誰よりも驚いていた。
母さんと父さんに生まれた赤ちゃん。僕の弟である男の子は、洋にそっくりだった。真っ赤な顔で目も開けていないけれど、とてもよく洋に似ている。僕ではなく、洋に。くしゃくしゃな顔は洋が怒ったときの顔にそっくりで、洋のお母さんは口から言葉は出てこない。僕も出てこない。
「……驚いたでしょう。わたしもびっくりしたの。こんなに洋ちゃんに似ているなんて」
「え、わたし?」
「……似ているわね、驚いたわ」
洋はぱちくりして僕に聞きなおす。似てる? って。僕は曖昧にうなずくとお母さんの顔を見つめた。母さんは僕の顔を見ると、僕の手を赤ちゃんの手に触れさせた。赤ちゃんはびくっと動いて僕を避けた。
「必くんびっくりした? でも必くんの弟だよ。男の子。必くんより少し体重は軽いかな」
「……母さん、この子の名前は」
「ぜん。善悪の善。たくさんいいことをして、たくさんほめてもらえるように。わたしもよくほめてあげられるように、思いをこめてお父さんと名づけたわ」
「ぜん……」
「いい名前ね、睦ちゃんらしい」
母さんはその時はじめて心から笑ったんだと思う。目が糸みたく細くなった。
この子、善はたしかに文鳥に似ている洋に似ている。大きくなったら洋みたいに黒い頭に白い頬、赤い唇の綺麗な男の子になるんだろうなぁと思うと、善の成長が楽しみになった。白い布に包まれた善の頬をつんと指で押してみた。善はのそのそと身体をよじってから、口角を上げて少し笑った。僕と善の生活は始まったばかり。