必くんとかごのとり
学校の帰り道、わたしは必くんの隣で歩いていた。必くんはふらふら歩いて、時々空を見て、それから少し視線をずらして木の上を見ている。わたしと必くんは毎日一緒に帰るけど、意外と会話が少なかったりするのだ。必くんはもともと口数は少ない。人見知りでもあるから、学校でも話す人とは限られている。わたしは必くんが話したくなさそうなときは話しかけたりしない。会話がなくなってもわたしたちは全然平気なのだ。
必くんはきっと鳥を探しているのだろう。あたたかい春の陽気に鳥たちは盛んに鳴いている。そういえば……鳥という単語を聞いて思い出した。少し前を歩く必くんの背中を見つめたら、黒いランドセルが邪魔をした。
「必くん、インコって知ってる?」
さわさわと揺れる木の上に小鳥がいたようで、必くんはそれをじっと見つめていた。何回か名前を呼ぶと、やっとこっちを向いてくれる。インコと短く呟いた。必くんは、ん? と首をかしげて小さく笑った。ほっと心が休まる。そんなあたたかい笑みだった。
「インコ? かわいくて綺麗な羽をもってる鳥だけど、どうかした?」
「近所のおにーちゃんが、都会から帰ってきて、インコ飼ってるから連れてきたんだって。見に行かない?」
わたしは必くんの顔を覗き込んで言った。必くんは目をぱちくり瞬かせて、わたしの目をすっと見つめてきた。藍色の前髪から透ける瞳が綺麗だった。
「いいの? 僕も行って」
もちろん! と笑うと必くんは嬉しそうに綿を弾かせた。
田んぼが並ぶ農道を渡り、砂利道を通り抜けるとわたしの家がある。わたしたちはかばんをわたしの家の玄関に投げて、すぐに外に飛び出した。二つとなりの瓦屋根の家の前まで走っていくと、赤ちゃんの鳴き声が聞こえる。元気な女の子の声だった。
「おにーちゃん! 洋だよ。遊びに来たよー」
「はいはい、学校は終わったのかー」
「終わったー。インコ見せてー」
「なんだ、うちの可愛い天使を見に来たんじゃないのか」
腕に天使ちゃんを抱えて、お兄ちゃんは現れた。白いタオルの中に包まれた赤ちゃんは先月生まれたばかりだという。短髪で背の高いお兄ちゃんは太陽みたいな笑顔を向けて、それから必くんを見てこんにちはと言った。
「こ、こんにちは」
必くんは小さく言う。借りてきた猫みたい。わたしの後ろに隠れるように二、三歩後ろに下がった。わたしは必くんに頼られている気がして嬉しくなった。
「必くんだよ。鳥が大好きなの。インコ見せて!」
「はいはい、どうぞあがってください。靴揃えろよ」
お兄ちゃんはそう言うと奥に入ってしまった。失礼な人。必くんはもぞもぞと靴を脱ぎだす。インコが見れるということで少しそわそわしているのが可愛いと思った。
「洋ちゃんいらっしゃい」
お兄ちゃんの奥さんが言う。柔らかい印象をもつ小柄で華奢な女性だ。彼女の腕の中に眠る赤ちゃんをわたしは見たくてたまらなかった。
「赤ちゃん、見てもいい?」
「いいわよ、おいで」
見たことないけど、聖母様みたいな笑顔をして、奥さんは言う。少し緊張した。ゆっくり近づいて、奥さんの腕の中を覗き込む。初めて見た赤ちゃんはとても小さくて赤くて、そう、おさるさんみたいだった。
「サルみたい」
「こら、なんてこと言うんだ」
お兄ちゃんに後ろから怒られた。でも本当にそう見えるのだ。まだくしゃくしゃな顔をして、目も開いてなくて、真っ赤な顔をした小さなまんまるな顔。手に触れると強張って指を跳ね除けられた。
「まだ生まれて間もないからね。おさるさんみたいでしょ? でもね、すごく可愛いの」
「うん、すごく可愛い」
ぽろっと零れた言葉に奥さんはにっこり微笑んでくれた。
インコを見た。セキセイインコという名前の綺麗な羽根をした鳥だった。黄色い頭に黄緑色の身体。頭上から後頭部にかけて細かい黒の横しま模様が入っていてかっこいい。目の下には黒い斑点があって、首を傾げる姿はとても愛らしい。必くんとわたしを歓迎するように、鳥はちゅんちゅんと鳴いた。
「綺麗な羽根……」
必くんが呟いた言葉には重みがある。わたしが同じことを言ってもこの重みはない。鳥が大好きな彼だから重みのある言葉。必くんがきらきらした瞳でインコを観察していて、わたしは嬉しかった。鳥が好きな必くんが好き。改めてそう思った。
「かわいいだろ? サキっていう名前なんだ」
「サキー!」
名前を呼ぶとこっちを見た。首を傾げてとんとんと跳ねる。愛らしい仕草に胸がきゅんとなる。お兄ちゃんのほうをむいて、かわいいね、と笑った時、背後から「サキー」と声が聞こえた。
「え、必くん呼んだ?」
「ううん、呼んでないよ」
そういって彼はなんだかくすくす笑っている。どうしてだろう。でもたしかに、今。必くんの声ではない。高くて苦しそうな声だった。必くんはもっと、優しくて凛とした声。
「洋」
「ヨウ」とまた声がする。なんだか気持ち悪かった。咄嗟に必くんの服をつかむ。誰だかわからない声が自分の名を呼ぶ。怖かった。
通いなれたお兄ちゃんのおうちだけど、所々に昔のものが目に入って怖いのだ。こけしとか木の置物とか、お仏壇とか。うちにもあるんだけど、人様のものが不思議に怖い。なぜか震える。震えるわたしを見かねて、だいじょうぶだよ、わたしの手の上に自分の手をのせて、必くんは微笑んだ。そしてかごを指差した。
「洋、見てごらん。インコがね、話しているんだ」
「え?」
インコはくりくりと目を動かして言ったのだ。
「ヨウ」
その後、必くんとお兄ちゃんによってネタばらしが行われた。サキと呼んだのも、わたしの名を呼んだのもこのインコ。サキの仕業である。インコは人の声を真似して話すことができる鳥だってことを、わたしは知らなかった。賢くて人懐こい鳥。ポピュラー? なペットだってことを教えてもらった。
ネタばらしされたものの、その後インコが少し苦手になってしまった。かごの前にはもう寄らない。奥さんと一緒に、インコのかごみたいに柵で囲まれた赤ちゃんベッドで眠る赤ちゃんを見つめていた。すやすやと眠る赤ちゃんはとても可愛い。
反対に、必くんはかごの前にどっかり座ってインコを見つめていた。稀に見ることができないから、とこの目にしっかり焼き付けるみたい。インコに話しかけるわけでもなく、ただ静かにインコの行動を見ていた。とんとん跳ねたり、首をくりくり傾げている姿は可愛いが、しばらくすると飽きてしまうのではないかと思ったのだが、小一時間彼はそこにいた。そしてあるとき言ったんだ。
「この籠の中から出たいと思ったことはないの? 狭いよ、人にじろじろ見られて、怖くない?」
鳥は答えない。必くんの言葉の意味がわからないよ、と言った具合に首を傾げて必くんから顔を背けた。必くんは体勢を変えて話し続ける。畳がぎしぎしっと鳴いた。
「僕は、人が苦手だよ。見られるのが怖い。狭いところもきらい。もっと自由になりたいんだ」
わたしは必くんの横顔を見つめる。藍色の髪から覗く瞳は空虚で、必くんじゃないみたいだった。たまらなくなって声をかける。畳に押し付けたてのひらが赤くなって痛い。
「必くん、どこか行っちゃうの?」
「……洋、赤ちゃんと鳥は似てると思わない? 籠の中に閉じ込められてさ」
立ち上がった必くんは、赤ちゃんベッドに近づく。わたしの隣に立つと、上から赤ちゃんを静かに見つめて、そしてゆっくり手を伸ばした。必くんが赤ちゃんを傷つけるわけないのに、その瞬間を見つめるのがすごく怖かった。止めなきゃ、なにするの? やめてって言わなきゃ。そう思ったけど口には出せなかったし引き止めることもできなかった。必くんは赤ちゃんを両脇から抱っこして、そのまま言う。腕の中に包もうとはせず。
「君は窮屈じゃない?」
そう尋ねる必くんは大人っぽくありながら子供っぽかった。ねえどうして? とお母さんに見たもの聞いたものをすぐ尋ねる幼稚園児みたいに幼くみえた。