必くんとチューリップ
このお話は、必くんとわたしがまだ小学校の低学年くらいのときのこと。
メジロが必くんの家に挨拶しに来たとき、わたしも必くんの家のピンポンを押すところだった。快晴の空の下、お母さんが育てたチューリップを必くんのおうちにおすそわけに来たのだ。メジロはちゅんちゅん鳴いて、屋根の上をとことこ散歩していった。
「こんにちはー! 必くんいますかー」
「はーい、いますよー。洋ちゃんですか?」
大きな声で挨拶すると、玄関から見て左の和室から可愛い声が返ってくる。ぴょこっと必くんのお母さんが顔をのぞかせて、にんまりと笑う。彼女の目が糸みたいに細くなった。必くんの藍色の髪はお母さん譲り。彼とこの人はとてもよく似ている。見た目も性格も。わたしは必くんと同じくらい彼のお母さんのことも大好きだった。
「洋ちゃんです! 必くんのお母さんこんにちは!」
「こんにちは! 必くんは今お昼寝をしています」
「えー」
わたしの口から盛大な溜息がでる。必くんのお母さんはくすくす笑って手招きした。左手の薬指に銀色の指輪がきらりと光った。
「とりあえずあがって。必くんの寝顔はかわいいぞぉ」
わたしはサンダルを脱いで、ちゃんと揃えた。お友達の家にあそびにいくときはお行儀よく。靴は揃えること。挨拶以外で大きな声を出さないこと。迷惑をかけないこと。お母さんとの約束である。
裸足でべたべたとことこ歩いて、縁側へ顔を出した。やっぱりそこで必くんは寝ていた。お日様の光がちょうど良く差し込む時間帯だったので、縁側の床はあたたかった。窓も少し開いて、風でカーテンがくらげみたいに膨らんだ。
「洋ちゃん、その抱えてるチューリップは?」
必くんのお母さんが、丸いお盆にオレンジジュースをのせて、畳を擦って歩いてきた。必くんのほっぺたに一突きしたあと、大事に抱えていた花束を彼女へ渡す。わしゃわしゃって紙の擦れた音がする。
「お母さんが育てたの。はいぷれぜんと」
「ありがとう。きれいねー」
「お母さん、今年のチューリップは素直に咲いてくれたって言ってた」
彼女が綿が弾けたようにぽんぽん笑うから、わたしは嬉しくなってお母さんの顔を思い浮かべてふふんと笑った。お母さんは厳しいけれど、優しく綺麗な人。庭作業が好きで、自然が好きで、自慢の母である。
「赤に白、黄色にピンク。ありがとうね。お部屋が華やかになるわ」
わたしたちは向かい合って笑いあった。母のお花が褒められるのはとても嬉しい。
ジュースを一口飲むと、膝歩きで必くんのそばに近寄る。必くんは小さな寝息をかいてすやすやと眠っていた。彼の顔を上から覗き込んでも彼は起きない。床の板の上で、まくらもおかないで静かに眠っている。そばにはわたしの絵があった。この前あげたばっかりのカラスの絵。全身真っ黒で全然楽しくなかった、わたしの気に入らない絵だった。いやだと言っても必くんはもらうと言って聞かなかった作品である。
「これ、」
「必くん最近その絵ばかり見ているわ。よほど気に入ったのかしらね」
「だってこれ、全然楽しくなくて、最後はぐちゃぐちゃに塗ったのに」
「うーん、どうしてかしら。気が付くとその絵ばかり見ているわよ」
必くんは目を覚まさない。わたしはなぜこの絵を好むのか聞きたかった。もっと上手に描けた絵はたくさんあるのに。無我夢中でタオルケットにくるまる肩をゆさゆさと揺する。何回も彼の名を呼んだ。次第に声も大きくなってった。
「必くん起きて、ねぇ必くん」
「洋ちゃん、聞いて」
わたしを制するように必くんのお母さんは言った。その瞳はまっすぐわたしに向けられていた。
「必くんね、洋ちゃんこないかなって待ってたみたいよ。カラスの絵を見ながら。ほら、縁側からだと人が来たのわかるでしょ?」
「なら一層必くんに起きてもらわなきゃ」
「洋ちゃん、お願い。寝かせてあげて?」
口調が変わったと思った。小さいながらも声色の変化くらいはわかる。わたしは必くんの体から手を離し、後ろを振り向く。必くんのお母さんは小さく嘆息すると、立ち上がり、わたしの横に座って我が子の髪をかきあげた。必くんがもぞもぞと少し動いた。
「必くんね、きっと今洋ちゃんの夢を見ているわ。だってこんなに嬉しそうなんだもの」
「ほんと?」
「うん、きっと楽しい夢ね。ニコニコしてる。だから、じゃまをしないであげて、ね?」
「うー。せっかく遊びに来たのにー」
不満げにそう言うと、彼女はわたしの頬をすりっと撫でた。それから真摯に目を向けて、おまじないするように唱えた。
「……洋ちゃん、あなたはもう少し思いやりの心を持ちなさい。あなたのお母さんのように、優しい心をもって。そしたらきっと、もっとたくさんの人があなたのことを好きになるわ――」
大人になった今でもその言葉は耳から離れない。
チューリップの花言葉が「思いやり」という言葉であることを知ったのは、わたしがお花屋さんでバイトを始めた、高2の春のことだった。