必くんと海
「わたし、要って漢字がよかったな」
ぽつりと呟いた言葉に、必くんは敏感に反応した。
夏の午後。いつもの川辺で、わたしは必くんに頼まれたアマツバメの絵を描くため持ってきたスケッチブックを抱きしめていた。必くんは川の中に足を突っ込んで、ばしゃばしゃとばたつかせた。その足を止めて、彼はわたしをじっと観た。
「どういうこと?」
彼の藍色の髪がさらさら揺れる。わたしは風で麦わら帽子がとばないように手で押さえつけて、自らの膝皿を見つめた。
「同じようなら、必要のようがよかった。そしたら必くんの隣に並べるのに」
拗ねたようにわたしは言う。が、言ったあとに顔が真っ赤になったのは言うまでもない。自分で思っておきながら彼に本当の事を言うのは少しどころではなく、かなり恥ずかしかった。慌てて鉛筆を手にする。アマツバメの代わりに暇つぶしに描きだした川とその中で元気に泳ぐ川魚に、しゃっしゃっと適当に線を加える。
必くんは川の中に立った。必くんは毎日夏の太陽の下に遊びに出かけるのになぜか焼けない。彼の白い足に水の流れはせき止められ、彼を避けて水は流れ続ける。必くんは川の流れをじっと見つめる。両手はぎゅっと握り締められていた。わたしは密かにそんな彼に視線を向ける。ばれないように。帽子のつばで顔を隠す。我ながらずるいと思うけど。文句を言うなら、毎日しつこく帽子をかぶせるお母さんに言ってほしい。
今日の必くんはずっと澄ましている。川の流れる音だけが変に大きく鼓膜を揺らした。必くんは上を見上げて、太陽の光に手をかざしながらわたしの名を呼んだ。
「……洋。僕は、自分のひつという漢字を今まで必要のひつだと思ったことはないよ?」
必くんの声はひどく優しかった。それからわたしのだいすきな必くんの笑顔をわたしに向けてくれた。さらさらとふたりを包む風が吹く。川辺はいつにもまして鳥の声ひとつ聞こえない静けさだった。
必くんは一呼吸おいてから、またわたしの名を呼んだ。
「洋。僕のひつは、必然のひつだ。君のようは、海のようだ」
「太平洋の?」
「そう、洋は海だよ。広い海。青い海。優しい海。僕は洋の漢字が洋でよかったよ。だって、海好きだもん」
綿の実が弾けた。わたしの実も弾ける。川の音も、水の色も、森の葉っぱも、ぜんぶが光ってみえた。きらきら光って、わたしたちを優しくあたたかく包んでくれるようだった。
わたしはスケッチブックを閉じた。書きかけの風景画はもうおしまい。オレンジ色の大きなスケッチブックを岩の上に置いて、わたしも川の中に足を忍ばせた。必くんはわたしの手を取ってくれた。彼の手をぎゅっと握り、両足は水の中に吸い込まれていった。わたしは必くんの手を離さない。必くんは足元でぱしゃりと飛び跳ねた川魚に興味津々だった。わたしは彼の横顔を見つめた。そうしたらこんな言葉がこぼれたんだ。
「必くん、わたしたちふたりの出会いは必然かな」
必くんはわたしの目をじっと見つめた。彼の瞳の中にわたしが映る。必くんはへらっと顔を崩して力なく笑った。
「きっと必然だよ。必ず出会うはずだったんだと思う。僕はそうあってほしいな」
「……うん、わたしも」
両手をつないでくすくす笑いあったら、わたしたちの上を喉と額が赤くて、黒褐色の羽をもつ、美しいアマツバメがひらりと飛んだ。あ、とわたしたちは声を上げる。顔を見合わせて今度は苦笑いする。
「やっと出てきたね、アマツバメ」
「洋。ちゃんと見えた?」
「うん、見たよ! スケッチしよ!」
大きく足を動かしたら、その足先がするりとすべってバランスを崩してしまった。川の中で思いっきりこけて、お尻から川の中にぼちゃん。おさかながびっくりしてわたしの周りからたくさん逃げ出した。必くんはびっくりして、服がびしょびしょに濡れるのも気にせず、わたしに顔を寄せた。たくさん心配して、わたしの体をすみずみまで触って、だいじょうぶそうなことがわかると、ずっとずっと笑っていた。じゅりりりとアマツバメも笑う。
必くんはやっぱり笑顔が一番似合うと改めて思った。