4.神と霊
(怪談ルポライター・山中理恵)
「蛸の神様?」
と、その時私は声を上げました。それはよくお世話になっている女編集記者の鈴谷さんからの奇妙な質問に対して思わず発してしまった言葉で、それを聞くと彼女は「そう、蛸の神様」とそう返してきます。
その質問の内容はこんなものでした。
蛸の神様や、妖怪というのはいるものなのか?
確かに奇妙な質問ですが、実を言えば、私が受ける質問はほとんど奇妙なものばかりなので、それほど珍しい事でもないのです。私は少しの間の後にこう答えました。
「妖怪なら、蛸入道とか、衣蛸とかがいるし、蛸を祀っている神社とかもあるからそんなに珍しくもないわよ。蛸薬師とか。
それほどメジャーではないにしろ、ない訳じゃないって感じかしらね」
どちらかと言えば、同僚と言うよりも彼女は私の上司に当たる存在で、本来ならば敬語で話すところなのでしょうが、気心の知れた間柄で、私は彼女とはリラックスして話せるのです。それを聞くと彼女は興味深そうに頷いてからこう言いました。
「なるほど。それじゃ、蛸を神として祀る宗教があってもそんなに珍しくもない訳か」
私はそれを聞いて少しばかり驚きます。
「なにそれ?」
と、それでそう問いかける。すると、鈴谷さんは少しだけ嬉しそうな顔になってこう言いました。
「あら? 知らないの? 妖怪関係情報通のあなたらしくもない。実は新興宗教にそういうのがあるのよ。たこ神教。これがちょっと変わっててさ」
「新興宗教は興味の対象外なのよね」
と、言い訳交じりにそう返すと、「知らない事が少しくらいあっても恥ずかしがる必要はないわよ」と彼女は言い、それからこう話を繋げてきました。
「この宗教の教義が変っててさ。何でも人間の生殖行動… いや、ちょっと違うのかな? 子供を産み育てる事を禁忌としているのだって。人間はこれ以上増えてはいけない種だから、とかそんな理由で。
ねぇ、こんな宗教、他に聞いた事がある? 性を穢れたものとして扱うってのはあるけど、子供の誕生を否定するのはないのじゃない? そういう意味で、性を完全に否定したりはしないと思うのよね、宗教は。ところが、この宗教ではそれを否定している」
それを聞くと、私はこう返します。名誉挽回とばかりに。
「古代パレスチナのエッセネ派や、アメリカのシェーカー信者なんかは完全に性を否定しているわよ。もちろん、滅びゆく運命にあるのだけど。私が知らないだけで他にもあるのかもしれない」
ですが、鈴谷さんの反応は素っ気ないものでした。
「へぇ、そうなの? でも、かなり珍しいのは事実なのでしょう?」
「まぁ、そりゃね。そもそも性行為を完全に否定したら、子供ができないのだから、必然的に滅びるもの。今まで生き残っているって事は何らかの形で、性行為を認めているってなるわよ」
やや憮然として私がそう返すと、彼女はこう言いました。
「でしょう? ならさ、このたこ神教はそういう意味で貴重なサンプルって事にならない? 滅びる前に、どんな実態なのか調査するってのは面白いかも。
完全に性を禁忌として、人間は果たしてどんな状態で生活を送るのか?」
流石にそうまで言われれば、彼女の意図に気が付かないはずがありません。ため息を漏らすと私はこう言いました。
「つまり、私にそのたこ神教とやらを取材しろって言っているの? それって、怪談ルポライターの範疇を超えてない?」
そう私が言うと、鈴谷さんはニコニコと笑いながらこう言いました。
「でも、できるでしょう? あなたには、そういう方面の知識もあるし」
その彼女の表情を見て、私はまたため息を漏らしました。なんとなく、断りきれないだろう事を予感したからです。ですが、それでも私は半分は愚痴のような、無駄な抵抗のような言葉を苦し紛れにこう返しました。
「私って、日本的な素朴な神様は好きなのだけど、一神教的絶対神な神様は、あまり好きじゃないのよね」
「あら? でも、これって一応、日本の神様でしょう? 新参者だけど。それに、蛸は昔から神様として祀られていたって、あなた自身が言ったのよ」
「でも、その神様は人類を滅ぼすとか言っているのでしょう? 少し壮大過ぎるわよ。日本の神様とは性質が違うわ。それに、日本の素朴な神様で、性を否定するなんて考えられないし。日本の民俗は、性に対して寛容っていうのがその性質と言ってもいいくらい。むしろ奨励しているのよ。
霊々と書いて、“カミガミ”と読む。私が好きなのそのニュアンスの神様なの」
その私の主張を聞くと、鈴谷さんは「あら、山中さんがそんな大胆な発言をするなんて珍しいわね」と、そんな風に言ってきました。誤魔化しているのです。それが誤魔化しだと分かっていても、私にはどうする事もできないのですが。
予想通り、結局は断りきれず、私はそのたこ神教とやらの取材をする事になりました。普段、仕事を回してもらっているので、彼女には強くも出られません。そこはやはり上司の立場の人間なのです。さて。取材をするとなると、下調べが必要となります。それで私は、怪異ネットワークを利用して、たこ神教あるいはその周辺の情報を集めてみる事にしました。怪異ネットワークというのは、妖怪だとか怪談だとか都市伝説だとか、そういうのが好きな人の集まりで形成された人間のネットワークです。もちろん、インターネットを利用しているのですが。怪異関係で知りたい情報は、ここに質問を流せば、大体は集まってきます。そして、それで私は少し奇妙な事実を拾ってしまったのでした。
直接、たこ神教が絡んでいる訳じゃない。けれど、何か気になる話が散らばっている。鈴谷さんも独自のサイトを持っていて、ネット上で情報収集はしていますが、直接関係があった訳ではないので、気が付かなかったのでしょう。
まず、目下のたこ神教は、岩盛島という島で信仰されているらしいのですが、この島に近い本州側の海岸沿いで、蛸に関する怪異の体験例が多数報告されているのです。例えば、複数匹の蛸が泳いでいて人を狙っていたというものや、蛸が話しかけてきた、というようなもの、或いは蛸に憑かれてしまった、というようなものまで。まだ、それほど大きな騒ぎになっている訳ではありませんし、誇張されてもいるのでしょうが、それを考慮に入れても捨ておけません。何故なら、岩盛島ではなんと、『蛸の養殖』が行われていて、しかも最近になって成功し、既に事業化しているというのです。
たこ神教が信仰される島で、蛸の養殖が行われていて、その島自体ではなく、その周辺で蛸に関する怪異が報告されている。これでは、関連を疑うなという方が無理です。実際、ネット上でも少しは噂になっていて、養殖された蛸が逃げ出しているのでは?などと書き込んでいる人がいました。
蛸の養殖は、あまり聞いた事がありません。コストがかかるし、水産資源の枯渇が心配されている今でも遠い海からの大量の蛸の輸入は行われているので採算性が合わず、蛸の養殖は研究すらもあまり進んでいないのだそうです。
いえ、いなかった、と表現するべきかもしれません。ここにこうして成功例があるのですから。コストを抑えた上での養殖に成功している。ただし、怪しい点もあるのですが。
技術的な部分はほとんどが企業秘密という理由で公開されておらず、しかも蛸を群れで生活させ生育している、という噂がある。確か、蛸は群れる性質を持っていないはずですから、これは奇妙なのです。海底に隠れて獲物を狙うという生態なので、“群れる”という行動は適さないからです。品種改良を行ったのではないか?というような推測が載っていましたが、品種改良でそんな事が可能なのかどうか、私は知りません。それで私は、こんな推測を立てたのです。蛸の養殖には、ナノマシン・ネットワークを活用しているのではないだろうか?
つまり、蛸と蛸をナノネットを介して連携させ、集団での養殖を可能にしている。コストを抑えられているのは、だから。
これならば、本州の海岸沿いで蛸に関する怪異が報告されている点にも納得がいきます。岩盛島の養殖場では何らかの手段で、蛸ナノネットは抑えられています。しかし、そこから逃げ出した蛸ナノネットは、制御が効きません。それで、遠く離れた本州では制御不能となり暴れている。もっとも、何か事件に発展した例はまだないようですが。
しかし、そう結論付けてから、私は考え直しました。いや、それが蛸ナノネットによるものと分かっていないだけで、実は既に何かしら事件が起こっているのかもしれない、とそう思ったのです。
そう多少不安になった私は、たこ神関連でも蛸の怪異関係でもなく、純粋にこの蛸の養殖事業を調べてみました。何か変な出来事が起きていないか…
蛸の養殖を行っているのは、“海に千年”という水産食品を扱う食品会社で、自らスーパーも経営しているそうです。養殖蛸は、この会社の目玉商品の一つで、いわゆるプライベート・ブランドというヤツです。蛸の養殖を担当しているのは、この会社の蛸養殖部門ですが、この部門は元々は若者達が始めたベンチャー企業“噂のタコツボ達”を買収したもので、蛸の養殖技術もその会社が開発したのだとか。
そのベンチャー企業が怪しい。と思ったのですが、ネット上で調べられるのは、ここまでが限界でした。もしも、このベンチャー企業の従業員に、ナノマシン技術者、またはナノネット技術者がいたら、今回の事件の背後にナノネットが存在している可能性は大きくなります。
因みに、たこ神教はこのベンチャー企業が創業される数年前から存在していて、元々は無認可の非公式宗教団体、というよりも民間信仰に近いものだったから、どれくらいの時期に発祥したのかは不明だそうです。
この企業関係で何か怪しい事が起きていないかと探ってみると、これが出てきました。数は少ないですが、大きいのが二つ。一つはCAS冷凍保管庫という、蛸を長期間冷凍保存しておく為の保管庫で、三人の殺人事件が起きたというもの。未だに犯人が分からず、調査中との事です。時間はそんなに経っていなくて、一週間ほど前に起こっていました。そして、もう一つが岩盛島での行方不明事件。蛸養殖を取材中の経済雑誌の記者に連絡が取れなくなり、既に四日間が経過しているとの事です。これを知った時、“ちょっとぉ、鈴谷さん”と、私は心の中で呟きました。恐らくは知らなかったのでしょうが、危うくこんな事件が起きている島に何の心の準備もしないで行くところでした。あまり深入りはしない方が良さそうです。特に、蛸養殖の方には。
それらの情報を集め終えた後で、私は紺野さんに相談してみようかと迷いました。いかにもナノネットが絡んでいそうな匂いがしましたから。
あ、紺野さん… 紺野先生というのは、紺野秀明という名前のナノマシン・ネットワークの研究者で、とても頼りになる人です。ナノネット関連で問題が起こったら、この人に相談すればほぼ間違いない、というくらいの。しかも、人柄も柔らかくてとても話し易いのです。
ただ、結局私は相談は控えようと思いました。私が相談すれば、恐らく紺野さんは真摯に対応してくれるとは思いますが、ですが、だからこそ安易に相談もできないのです。何故ならこの人はとても多忙だからです。私の相談は、きっと重い負担になるでしょう。もしも空振りだったら、大変な迷惑をかけてしまう。相談するのはナノネットが絡んでいるという、もっと決定的な証拠を掴んだ後にするべきです。
ですが私は、その代わりと言ってはナンですが、探偵をやっている藤井さんという人に電話で連絡を取りました。この人は、紺野さん絡みの知り合いで、探偵というだけあって調べ物の能力には優れています。藤井さんは珍しく私が電話をかけたことに多少は驚いていましたが、私が調べて欲しい事があると告げると少し不安そうな声で「まさか、ナノネット関係じゃないでしょうね?」と、尋ねてきました。
「ご心配なさらず。関係があるかどうかは不明ですが、いずれにしろ、調査の内容には影響がありませんから」
藤井さんは、紺野さんとのコネを利用してナノネット絡みの事件を解決してからというもの、そういった依頼を多く受けるようになってしまって、多少ナノネット関係の事件に恐怖しているというか、うんざりしているようなのです。
「どんな調査です?」
少し声を明るくしてそう訊いてきた藤井さんに、私はこう答えました。
「“海に千年”という食品会社があるのですが、この会社の蛸養殖場部門の初期メンバーにナノマシン関連の何かを学んでいた人がいないかを調べて欲しいのです。この蛸養殖場は、元は別企業で、若者が興したベンチャー企業です。だから大学が、ナノネット関連だったとかあるかもしれない。
あ、もちろん、調査費は払いますよ。取材の経費で落ちると思いますし」
私がそう言うと藤井さんは、「なるほど、なんとなく察しましたよ」と言って少し笑います。それから、ちょっとおどけた感じで、続けてこう尋ねてきました。
「あなたにはそれなりにお世話になっているし、サービスしておきます。どれくらいの期間で調べましょうか?」
私は「できるだけ早くお願いします」と、そう答えます。それを聞くと藤井さんは、「私も人の事は言えないが、あなたも厄介な事に首を突っ込んでしまう性質ですね」と、笑いながらそう言って電話を切りました。
まぁ、こういう話は好きですからね。
電話が切れてから、私は心の中で、それにそう返しました。そして、この取材を少し楽しみ始めている自分にその時気が付いたのです。