2.未分化な主体と客体
(心理学者・野辺勉)
私の師は、その症状を離人症に分類していた。離人症とは、自己同一性が一定しない症状の事で、過去と今の自分との連続性を把握できないなどの症状をいう。例えば、過去の主張と今の主張が異なっているにもかかわらず、本人はその矛盾を意識していない、間違った事だとは思っていない、というケースなどが当てはまる。
野球部のエースが、合宿中に後輩のルール違反を激しく叱った。しかし、後に他の部員が同じルール違反を犯しても、その時は少しも怒らず、むしろそれくらいの融通は利かせてもいいのでは、というような事を言った。本人は、もちろんこの二つの出来事を記憶している………。
この例のように、記憶に残っていながら、まるで過去の自分の行いを別の人間の行いであるかのように扱い、切り捨てられるのである。そして、その齟齬に苦しむ事もない。
師はこれを前頭葉の未発達によって起こる症状の一つではないかと予想していた。前頭葉は理性を司る部位であるとされ、ここが破壊されると人間は、気分が抑えられず、直ぐに怒ったりと感情のコントロール力を失う。当然、未発達ならば行動にも問題が生じる。
具体的には、行動スキーマの未形成が考えられると師は述べてもいた。
行動スキーマとは、人間が行動する際の軸となる、概念のようなものである。何らかの状況に直面した時、この行動スキーマに合わせて、人は自分の行動を決定する。そして、この行動スキーマは常に修正され続ける事により洗練されていく。言い換えれば、自分で作り上げなければ、それは形成をされない。もちろん、これは自己同一性にも重要な役割を果たしている。
この行動スキーマが充分に形成されていなければ、人の行動はその時々によって変わってしまうのである。普通、行動スキーマは本人の自己同一性にとって重要なものだから、矛盾が生ずれば、自己が破壊された、或いは否定されたかのような感覚を覚え、人は苦しむものだ。が、そもそも行動スキーマが未形成ならば行動の矛盾に苦しむ事もない。否定されるべき行動スキーマはそこに存在してはいないのだから。
師は、この点は自己の正当性を信じて疑わない性質にも関係するのではないか、と考えているようだった。そもそも否定されるべき自己を持たない人間の世界は、常に正しいのではないかと考えたのだ。お前の考えは間違っている、と指摘してもそもそも“考え”自体がない。これでは否定できない。本人が自己の否定を実感しなければ、後は常に正しい不定型な自己… いや、これは自己と表現すべきではないのかもしれない、常に正しい“主観”があるだけ。
だからこの症状を呈する人は、他人の助言を受け入れないという事がよくある。自分の世界は常に正しいのだから、他人の声に耳を傾けないのも無理はない。
未発達な子供が、自己の正当性を信じて疑わない事はよくあるから、この考えにも一応は納得ができる。
私には師のこの主張を、否定するつもりはない。しかし、これだけでは不足しているのではないか、とも考えていた。別の側面にも注目をしなければ、説明ができない。
そう言ってみると師は明らかに不快な様子を見せた。そして、私の話をあまり聞こうともしなかった。しかし、師のその行動は、私の主張の正しさを証明していたのだ。師の行動は自分が“行動スキーマの未形成”により執ると主張していた、“他人の声に耳を傾けない行動パターン”と同じなのだ。だが、師は“行動スキーマ”が未発達な人間ではない。ある程度の人望を集める人格者ですらある。そして、にも拘らず、その自己の矛盾に気が付いてはいなかったのだった(少なくとも、表面上はそう見えた)。
私が主張したい、別の方向から見たこの現象の“説明”は、自他の区別がつかない、つまり未分化な主体と客体という要因である。
どこまでが自己で、どこからが他人なのか、普通の人が考えるよりも、この境界線に対する人間の認識は、曖昧なものだ。例えば、自分の所有物にも自己の範囲を広げてしまうような現象がある。明らかに不要な物を捨てられない心象。その一つの要因には、確実にそれを自己の一部として認識しているといった点があるだろう。また、自分の所属する組織にまで自己を広げるケースもある。自分のチームを否定されると怒るのは、それを自己に含めているからだ。特殊なケースには、放火魔のそれがあるかもしれない。放火魔は、自らが放った火が、対象を燃やし尽くす様を見て快感を感じるのだが、そこには“自分が放った火”を、自己と同一視しているという心象があるのではないかと予想できる。
他人の意見を聞き入れるというのは、その人間を客体として認識しそれを受け入れているのである。幼児がわがままを言い、自分の母親に対して癇癪を起すというのは、母親を自己の一部として認識し、何でも自分の思い通りになる対象と思っているからだ。客体と認識できなければ、人はそれを自分の不快を抑えてまで聞き入れる価値のあるものとは思えない。どんな助言であろうと、客体と認めているものからの発言でなければ、人はそれを跳ね除けてしまうのだ。自分と同じ考えならば受け入れるが、それは真の意味で他人の考えを受け入れている事にはならない。
以上を踏まえた上で、先の私の師の行動を例に考えてみよう。師はもちろん、私を下位の存在として認識している。部下の一人である。支配下にいるものだ。そして、支配下にあるものとは支配者にとって自己の一部だ。つまり師にとって私の言葉とは、他人の言葉ではなく(不快な)自分自身の言葉なのだ。だから受け入れようとはしなかった。断っておくがこのような心理は誰にでもある。私に特別師の人格を貶める意図はない。純粋に私の主張を説明するのに適した事例の一つとして挙げただけだ。その点は、勘違いしないでもらいたい。
主体と客体が分化していく事は、人間の成長、自己形成にも繋がっていく。これは心理学だけでなく、哲学の方面でも主張されている内容かもしれないが、客体を想定する事で、主体と客体の間に境界線が生まれ、そこに自己が浮き彫りとなるのだ。
自分と他人は違う。こう認識する事がとても重要とも言える。
発情中のチンパンジーの雄が、他の雄に見えないようにして、雌に対して求愛行動を執る。という事例があるが、これは他の雄と自分とは違う、と認識できているからこそ執れる行動とも言える。つまり、この雄は主客が分化しているのだ。
当たり前だと思うかもしれないが、人間の小さな子供には、このような認識はできない事が知られている。例えば、このような実験結果がある。
子供たちに色鉛筆のケースを見せる。中に何が入っているか?と尋ねると、「色鉛筆が入っている」とそう答える。しかし、中に入っていたのはお菓子で、子供たちはこの罪のない悪戯に驚いたりするのだが、続いて自分の親にこれを見せたら何が入っていると言うと思うか?と質問すると、「お菓子が入っていると言う」と答えるのだそうだ。
自分は既にお菓子が入っていると知っている。だから、同じ様に自分の親もお菓子が入っていることを知っていると思ってしまう。つまり、自分と親が違う存在であると認識していないのである。
ある程度、成長するとこの傾向は減るらしい。「親は色鉛筆が入っていると思うから、きっとお菓子に驚くだろう」、とそんな答えに変っていくのだという。つまり、主体と客体の区別ができるようになってきているのだ。
主体と客体の区別が明確でない人間は、自分が思っている内容を、他人も同じように思っている、と認識してしまう。もちろん、これは誰にでもある傾向だし、その一時だけはそんな風に思ってしまう事も多々ある。しかし、これが常態となれば話は別だ。限度を超えれば、何らかの病気であると判断せざるを得ない。
酷いケースでは、自分が思っていただけの内容を、例え他人が知っていたとしても、それに驚かないような事もある。
これは妄想や夢の類で本当にあった出来事ではないのかもしれないが、近頃見つけたネット上に公開されていたある女性の日記で、奇妙な妖怪のようなたこが現れ、そのたこが自分がただ“思っていただけ”の内容を何故か知っていたにもかかわらず、それを不思議とは感じず、そのまま会話をし続けるというものがあった。これなどは、その一例かもしれない。
他にも、私の知っている女性で、そのような症例を示すケースがあった。その女性は子供を産んでおり、一人でその子を育てていたが、自分の子が自分の思い通りにならない事に困惑していたようだった。あの母子が、今どうなっているかを私は知らないのだが、思い出す度に心配になる。
母親の主客の未分化が更なる問題を呼び、状況を悪化させてしまう可能性は多いにあるのだ。