1.たこを食らう
(無職・大村ゆかり)
わたしは、海岸沿いを歩いていた。夕暮れ時で、気温のピークを過ぎた大気は冷たかった。お蔭で汗が引き、涼しげなそよ風が吹いてわたしの体温を冷ましている。しかも、初夏の雰囲気が磯の匂いと雑じって中々にいい感じを出している。これで、気分が良くならないはずがない。
……と、言いたいところだが、実のところを言えば、わたしは不機嫌だった。と言っても、ここしばらくわたしの機嫌が良かった事など一度もないのだが。
ここは岩盛島という本土からは少し離れた所になる小島だ。交通の便は悪いし、これといって目立った産業もないから、人口は少ない。少し、水産業が盛んなくらいだろうか? それも、近年は減少傾向にあるのだとか。
何故わたしがこんな辺鄙な所に来ているのかといえば、ここにわたしの親戚の一人が住んでいるからだ。ただし、別に観光目的で遊びに来た訳ではない。純粋に生活の為だ。わたしは先月、職を失ってしまったのだ。このままでは生活ができそうにもないので、生活保護をもらおうと市役所に行くと、家族親戚にまずは頼ってから、それでも駄目なら申請しろと言われた。それでそのままその言葉通りに比較的近くに住んでいて、世話をしてくそうな親戚を当ったのだ。
事情を話すと、その親戚は「へ?」という変な声を上げた。発音的には「え?」と「へ?」の中間辺りだったと思うけど、ニュアンス的には「へ?」な気がするから、まぁ、「へ?」だと思う。違いを説明してくれと言われても困るのだけど。
別に断ってくれても良かったのだが(そうなれば、生活保護を貰う言い訳ができる)、その親戚はわたしの頼みを聞き入れてくれた。それでわたしは複雑な気持ちになった。感謝半分、面倒臭い半分。
はじめ、親戚はわたしを温かく迎え入れてくれた。もしかしたら、せいぜい二日か三日、長くても一週間くらい滞在しただけで帰るとそう思っていたのかもしれない。わたしは引っ越しの荷物の荷解きもしていなかったし、そう思われても仕方ない。
しかしわたしが、それから一か月経っても出て行かないでダラダラとしていると、態度が変わり始めた。明らかに厄介者を扱うような感じになり始めたのだ。わたしはその態度の変化を感じ取り、イライラし始めた。まぁ、仕事をし始めようとすらしないわたしが悪いのだが、どうにもやる気が出ないのだ。やる気が出ない、と言えば実はまだ荷解きすらしていない。やる気が出ないから。
わたしはきっと、ずぼらなのだろう。好きでずぼらに生まれてきた訳じゃない。だからこれはわたしが悪い訳ではない。きっと遺伝子にそう組み込まれているのだ。他の優秀な人達と違って、だから真面目にきちんとできなくても仕方ないのだ。
わたしは“生まれ”の被害者である。
まだ暑い日中は、外に出るのが辛いので家の中にいる。しかし、こうして夕暮れ時になれば涼しくなるので、わたしは親戚の視線を避ける為に外を歩くのだ。小さな島なので少し歩けば海に着く。それで、わたしはなんとなく海沿いを歩いていたのだ。
わたしは外を歩きながら親戚の連中について考える。事情を話した上で迎え入れたのだから、何もあんな目で見る事もないのに。わたしは直ぐに出て行くなんて一言も言っていない。それに、家事も少しは手伝っているじゃないか。何て酷い連中なのだろう。これなら、初めから断ってくれた方がよほどマシだ。職を失ったのだって、ちゃんと理由があるのだし。わたしは、不当に扱われている。こんな不便な場所で、我慢してやっているのに。
しばらく歩くと、変な“のぼり”を発見した。たこ神さま。そう書かれてある。それを見てわたしはこう思う。そうだ忘れていた。この場所は不便な上に、異常な場所ですらあったのだ。たこを祀る変な宗教が存在しているのである。しかも、島の半分くらいの人間がそれに入信していて、聞いた話によると年々増えているのだとか。
ふん
とわたしは思う。何て気持ち悪いのだろう? こんな奴ら、みんな死んでしまえばいいのに。
こんな奴らなら、わたしを理解できなくて当然だ。あの仕事場もそうだった。わたしを少しも理解してくれない。
わたしはそもそも精神的に弱い人間なのだ。だから心が傷つけば、休みも必要だ。それで休暇を取ったに過ぎない。給料はその分、下げられているのだから大きな問題もないはずじゃないか。職場には嫌いな人間だっていた。にも拘らず、わたしは通ってやったのだ。なのにそんなわたしをクビにするなんて。何日間か休んだだけなのに。面倒で、どうにも身体がだるいのだから、休んだって仕方ないじゃないか。
これからわたしは、どうなるのだろう?
身体がだるくなって、それで仕事を休んでしまうわたしは、きっとまともに働き続ける事はできないだろう。
どうにも、生きていくのが嫌になる。
どうして自分の思い通りにならないのだろう?
働きたくない。お金は欲しい。世間には株や何かをやって、働きに出なくても生活できている人もたくさんいる。わたしも、そんな風に暮らせないだろうか? 何も贅沢をするつもりはない。少しの娯楽と毎日の生活があればそれで良いのだ。ささやかな願いじゃないか。働きたくないだけだ。
働かない、と言えば、わたしぐらいの年頃の女は、普通は働かないで結婚をして子供を産んでいるのだろうか? だがわたしは、そんな事をするつもりは全くない。何故なら、そもそもわたしは、人類が増える事に反対だからだ。もっと人類は減らさなくてはならない。いや、この地球の事を考えるのなら、滅びるべきじゃないか。人類は地球の邪魔者なのだ。このままでは、地球の生態系は破壊されてしまうだろう。その為には、人類は滅びるべきなのだ。
そこまでを思った辺りで、わたしは海岸沿いに、小さな岩を見つけるとそこに座り込んだ。そろそろ疲れてきた。かなり歩いたと思う。そしてそれから、煙草がないかとポケットを探った。ライターと煙草の箱はあったが、中身は空だった。そういえば、煙草税が上がって値上がりしたから、買うのを諦めたのだったか。煙草税が上がるのは、健康に悪いからだそうだ。その上がった税が、喫煙者の為に使われるというのなら分かるが、そんな事はなく、何でも福祉の充実の為に使われるのだとか。
詳しくは知らないが、日本は育児に対する福祉が足らず、その補強が必要だとか騒いでいる人がいた。上がった煙草税は、その為に使われるべきだと。冗談じゃない。何で人類なんか滅びるべきだと思っているこのわたしが、それに協力してお金を払わなくてはならないのだ?
そういうお金は、わたしのような弱者にこそ使われるべきなのだ。
ふと、ライラ―を見つめながら、どこかに放火してやろうかという気持ちが生まれた。パッと燃え上がる火が見えたら、気持ちよさそうじゃないか。それで火を点けてみる。もちろん、実際に放火したりはしない。
カチッ ッポ
カチッ ッポ
カチッ ッポ
何となく、点けては消すを繰り返す。辺りはもうかなり暗くなってきていた。ただし、まだ海は暗黒に染まってはいない。赤く黒くそしてまだ少しだけ青かった。そのうちにわたしは、その中途半端に黒い海に、奇妙な気配があるのを感じた。
一瞬だけわたしが点けるライターの火の光に照らされてその存在が浮かび上がる。光っている二つの点は目だろうか?
わたしはそこでハッとなった。何か普通じゃないものがいると思ったからだ。もしかして、海の中からわたしを見ているのか?
ヒトの頭のようにも思える。丸い。
わたしはそう思うと、恐怖を感じながらもそれに近づいて行った。そして、わたしが近づくと“それ”はこう話しかけてきたのだ。
『さっきから聞いていれば、随分と自分勝手な事ばかりを言っていたな』
なんだ、これは?
わたしはそう話しかけられて、目を凝らしてそれをよく見てみた。不思議と驚きはしなかった。
顔のようなものが出ているが、それは人には思えなかった。何とか入道という妖怪がいるが、そういう印象に近い。剥げている。更に辛うじて、水面下にいくつもの触手のようなものが伸びているのが分かった。
これは、たこ… なのか?
そう思った。
「なんだ、お前は?」
その次にわたしはそう訊いてみた。すると、それはこう答える。
『“たこ”だよ。あんたがさっき、思った通りだ』
たこが喋るか? と、わたしはそう思いもしたが、実際喋っているのだから、仕方あるまい。それでわたしは、こう言ってみた。
「自分勝手って、なに?」
わたしは自分勝手な事を言っているつもりは微塵もなかったのだ。するとたこは、呆れた口調でこう返してきた。
『なんだあんた、自分でそれが分からないのか? 何から何まで、ドコからツッコミを入れれば良いのか分からないほど、自分勝手な事を言っていたじゃないか』
わたしはそれを聞いて、ムッとなった。
「具体的に言ってもらわないと分からないわね」
するとたこは、いよいよ呆れたという風にこう説明してきたのだった。なんで、たこなんぞに馬鹿にされなくてはならいのだろう?
『さっき、人類は滅びろとか言っていた癖に、煙草の値上がりに怒っていたろう? 断っておくが、人類が滅びていったら、そもそも煙草なんか存在しないよ。しかも、あんたは働いてない立場なのだろう? 働いていないあんたが、そうして生活できているのは、何より人類のお蔭だよ。他の人達が働いてくれているから、そうしてあんたは働きもせずに生きていけるんだ。
感謝こそすれ、恨むなんて筋違いだ。
それに自分のために金を使え、みたいな事も言っていたが、人類の滅亡をあんたが本気で願っているのだとすれば、あんたは人間社会の敵になるのだろう? なら、どうして人間社会の為に使う税金を、自分の為に使えなんて主張ができるんだ?』
わたしはそのたこの主張に思い切り歯を食いしばった。なんだ、このたこは? なんで、こんなに偉そうなんだ?
『もし仮に、あんたが本当に地球の生態系の為に、人類は滅びるべきだと考えているのなら、何故今すぐにでも、無人島で暮らさないんだ? あんたが人間社会で暮らしているというのは、生態系を破壊し続けているって事だ。それが嫌なら、砂漠にマングローブを植えに行くでも構わないが』
わたしは何か言い返してやろうかとも思ったが、いい理屈は何も思い浮かばなかった。それで、こう怒鳴る!
「煩い! お前はたこの癖に、なんでそんなに偉そうなんだ!」
するとたこは笑った。
『ふっふっふ』
なんだか、むかつく笑い方だ。
『それは私が、偉いからだよ。何しろ、私は神なのだから』
はぁ?
とわたしはそれを聞いて思う。なんだ、このたこは。おかしくなっているのか? 馬鹿な誇大妄想をしている。いや、おかしくなっているのはわたしかもしれない。そもそも、たこが喋っている時点でおかしいのだ。夕暮れの海岸で、神と名乗る喋るたこに遭遇するだなんて。
しかし、そこでわたしは、はたと気が付いた。
――そういえば、この島には、たこを神と祀る宗教があったのだ。
それで少し怖くなる。まさか、このたこは本当に神なのか? たこはわたしの中の怖れ、或いは畏怖を敏感に感じ取ったのか、こう語り始めた。
『そもそも、一人の人間という立場で、人類の滅亡を判断する事自体がおかしい。人間社会に依存しているあんたは、そんな事を判断できる立場にはいないだろう。それが可能なのは、神くらいのものさ。それくらいの立場じゃなければ、人類の存続を語るに値しない』
わたしはその言葉に自分を見透かされたかのような気になって、思わずこう叫んでいた。
「何を思想するのも、何を考えるのも個人の自由のはずだ! それとも、神である自分でなければ、人類の滅亡を判断できる権利を持たないとでも言うつもり?」
そのわたしの叫びに、たこはまた『ふっふっふ』と笑った。わたしはその笑いにまたむかついた。
『人類の存続を自由に操作、なんてのは無理だが、それでも判断するくらいはできるかもしれないな。何しろ、私はお前のように、人間社会に依存してはいないのだから。人間社会がなくなっても何も困らない。お前にとっては羨ましい立場かもしれないな』
わたしはそれを聞くと、こう尋ねる。
「まさか、あなたはわたしにたこ教に帰依しろとでも言うつもりかしら? 断っておくけど、絶対に入信なんかしないからね」
たこはそれを聞くと、笑った。
『ふっふっふ。そんな事は少しも考えちゃいないさ。それどころか、私はお前に神になってみないか?と誘うつもりでいる』
はぁ?
と、わたしはそれを聞いて思う。神に? いよいよ、わたしは自分が信じられなくなった。わたしが神にだって? 誇大妄想を抱いているのは、わたし自身なのかもしれない。しかし、たこはそのタイミングで、わたしの心を見透かしたかのようにこう言った。
『もしも、神になれば、お前の望む暮らしができるぞ。お前は、働かないで暮らし続ける事が可能だ。何しろ、神なのだから』
その時、その言葉に、不覚にもわたしは惹かれてしまった。この何処にも出口がないような暮らしから抜け出せる… それは、とても魅力的な提案にわたしには響いた。
これが夢であるにしろ、幻であるにしろ、駄目で元々だ。この訳の分からないたこの言葉に乗ってやるのも悪くはないかもしれない。そんな事を思ってしまった。それで、
「どうすればいいの?」
気が付くとわたしは、そうたこに尋ねていた。たこは嬉しそうな声を出しながら、こう答えた。
『簡単だ。私を食らえばいい。ただし、生のままな。その浜辺に、包丁が落ちている。それで私を殺して、食べるんだ』
暗くて分からなかったが、ライターで火を灯して探すと、確かに包丁が落ちているのをわたしは見つけた。
これ…
あまり上等とは言えない刃物だったが、それでもたこを殺すには充分だった。わたしはそれを持つと、裸足になり、海の中へと入っていった。
たこの足が、ゆらゆらと水面下に漂っているのが分かる。想像していたよりも、近づいてみると大きく感じた。大きなたこだ。神と名乗るだけはある。もしも、この足で捕まえられたなら、わたしなんぞはほとんど何も抵抗をできずに殺されてしまうだろう。たこには毒があるとも聞いている。たこがわたしを騙しているのだとしたら、わたしは簡単に殺されてしまう。
だが、たこはわたしを殺そうとはしなかった。そのまま水面から顔を出して、わたしを待っている。
たこの前まで来ると、わたしは包丁を振り上げた。そして、たこの頭に向けて、それを振り下ろす。
ザク
まるで、ゴムか何かに思い切り刃を突き刺したような感触があり、その後でこんな声が響いた。
『よくやった。これで私は、解放される。これからは、お前が神だ!』
意味が分からなかった。その後でわたしは酷く苦労してたこを陸に上げた。家に持ち帰ろうかとも思ったが、既に相当に疲れていて、運ぶ気になれない。それにこのたこを見つかってはまずい気もした。たこ教の信者に、途中で遭遇しないとも限らない。それでわたしは、包丁でたこをぶつ切りにすると、そのままたこを食べ始めたのだ。
たこはとても美味しかった。新鮮で、コリコリとしていて。そして、それでわたしは“神”になったのだった。




