17.たこの神とナノネット
(子供・三倉夕)
「素晴らしい」
窓の隙間から、その光景を見ていたあたしの耳に、そんな声が響いた。夕闇の中だったから、それを言ったのがどんな人だったのかは分からなかった。だけど、何となく声の雰囲気から、この島の人ではないような気がした。
……もしも、新田くんが「もう、いつでも帰ってくれて構わない」なんて、言わなかったら、あたしがこんな事態に巻き込まれるなんてなかっただろう。
初めて、たこ神教の信者がここにやって来た後で、新田くんはあたしに向かって、そう言ったのだ。しかも、とても辛そうな顔で。“ずるい”と、あたしはそう思った。そんな表情をされたら、帰れるはずがないじゃないか。
この小屋に着いてから、新田くんの様子は何となくおかしい気がする。辛そうに見えた。そしてその訳は、きっと、“僕は昔、お母さんを殺しました”という彼の告白とも関係があるのだろう。
彼は何を思って、ここに来たのだろう?
どうして、あんなに辛そうなのだろう?
本当に、犠牲になるのが目的だった?
もしそうなら、どうして、あの人の言葉にあんなに嬉しそうに泣いているのだろう。「お母さん……」なんて、呟いたのだろう?
夕闇の中に、違和感のある人物の声がまた響いた。
「あなたの言葉は、子を産み育てる事を、生物としての仕組みに深く刻み込まれている人間の行動原理として正しい。ですが、それでは問題は解決しません。
……もっとも、今のあなたの行動は、それとは関係なく価値のあるものですが。もしかしたら、誰かを救っているかもしれない」
その人物はそう言いながら、新田くんとあの人の前に出てきた。泣いている新田くんを見ているような気もする。それから向きを変えると、信者達の方向を向く。これは、こっちの味方に付くという意味だろうか?
近づいて来たお蔭で見えたその顔は、妙に目が細くてキツネみたいに思えた。余裕たっぷりの感じが頼もしい。なんか、こういう場面に慣れている気もする。新田くんを少し見ると、その人は次にこう言った。
「君が“里神の使い”ですね。この島の人達の噂になっていますよ。子供だとは、聞いていましたが、こんなに若いとは。無理をする事はありません。ここは、私に任せてください。あなたの主のナノネットも、あなたが危険な目に遭う事を望んではいないでしょう。あなたが犠牲になる事も」
ナノネット。
あたしはその単語が、この人の口から出てきた事に驚いていた。この人は、それを分かった上でここにいるんだ。ちゃんと原因を分かっている。なら、頼ってしまっても良いのかもしれない。この人は救世主なんじゃないかという期待が大きくなるの、あたしは胸に感じていた。
「あなたは……」
新田くんがそう呟いたのが分かった。
「ナノマシン・ネットワークの専門家ですよ。紺野秀明といいます」
新田くんがその言葉に大きく反応をしたのが分かった。
「今、何が起こっているのか分かっているのですか? どうして、タコ達が暴れて…」
その新田くんの質問に対し、「安心してください。大体のところは掴んでいます。ですが、まずは順を追って説明を」と、紺野という人は返す。
「あなたは、何者ですか? ナノマシン・ネットワークって?」
そう質問したのは、たこの神のあの人だった。どうもナノマシン・ネットワークを知らないらしい。紺野という人は答える。
「おや? あなたはナノネットを、知らないのですか。これは困った。しかし、ナノマシンくらいは知っているでしょう? 小さな、とても小さなロボットですが。そのナノマシンがネットワークを形成し、情報を交換し合う事で発生するものがナノマシン・ネットワーク。略して、ナノネットです。
これは細菌のように、分子を分解したり結合したりといった事もしますが、場合によっては動物の体内に入って、その精神に影響を与えもします。しかも、とても変わった事をするケースもありましてね。例えば、人の意識とタコの意識を繋げたりだとか。
覚えがあるでしょう? あなたが、ここに来てから体験してきた不思議な出来事は、全てナノネットによるものですよ。そして、今、そのナノネットに異変が起こっている。恐らく、あなたではそれを解決できません。それは神の祟りなどではありませんからね」
それを聞くと、あの人はとても驚いた表情を見せた。この説明は、同時に目の前にいる信者達も聞いているはずだった。そして、その紺野さんの説明に、少なからず機嫌を悪くしたようでもあった。普段なら分からないが、今が気が立っている。理屈は通じないのかもしれない。
「あんた、何を言っているんだ? 神様を馬鹿にするのか? ナノネットだって?」
紺野さんは答える。
「馬鹿にするつもりは一切ありませんよ。たこ神教とタコの間には、間違いなくナノマシンが存在している。しかし、それとあなた達の信仰心は別問題だ。と言うよりも、その前提を受け入れた上で、このたこ神教は誕生したとも言える」
毅然とし、落ち着いた態度に気圧されたのか、信者達は何も言い返さずにその紺野さんの説明を聞いていた。
「あなた達にも覚えがあるのじゃありませんか? このたこ神教は、元々は土着の信仰でしかなかった。宗教法人ではないし、組織だってもいなかった。そしてその頃は、“たこ”は信仰の対象ではなかった。違いますか?」
その言葉に、信者達は黙った。あたしは当然知らないけど、どうやら“たこ神教”とやらはそんなに昔からある宗教じゃないらしい。そして、その昔を覚えている信者もいる。だから何も言い返せなかったんだ。
信者の人達はその矛盾を、どう処理して来たのか。もしかしたら、忘れた振りをして来ただけかもしれない。けど、紺野さんはそれを思い出させてしまったんだ。
「たこ神教が誕生する数年前、この岩盛島でたこの繁殖を志した人物がいました。一体、どんな目的でそれを行ったのか、今となっては分かりませんが、その人物はどうもそれにナノマシン・ネットワークを使用していた疑いがある。申請を出して許可を得れば、当時は可能でしたが、どうやらその人は無許可でそれを行っていたらしい。そして、ナノマシン利用が法的に完全に禁止されると、その人物は、この土地から姿を消しました。しかし、ナノネットは残ってしまった」
一度、そこで紺野さんは言葉を切った。信者達の様子を観察する。大人しく、自分の言葉を聞いている事を確かめたのか、少しの間の後で、続きを語り始めた。
「その頃から、この島ではタコがよく捕れるようになりました。当然、島の食文化にもそれは影響を与え、よくタコが食卓に上るようになった。
……ですが、それはナノマシン入りのタコだったのです。摂取し続ければ、島民の生活にも影響を与えるようになる。そして、どういった経緯かは分かりませんが、やがてこの島にはたこ神教が誕生した」
そこで紺野さんは言葉を切った。それから、“たこの神”役のあの人を見る。
「ただし、タコの養殖に使われていたナノネットには、精神に影響を与える能力が充分に備わっていなかった。それも関係してか、どうやらネットワークの核を、自らの内に長期間維持する能力もなかったようだ。だから、その“核”が外部に必要とされたのです。
過去、どんなものが、その役割を担ってきたのかは分かりません。しかし、それにはどうやら人間が用いられる傾向があったようだ。そして、その役割を担う人間を見つけ繋ぎ止める働きをしてきたのが、この“たこ神教”です。つまり、“たこの神”とは、ナノマシン・ネットワークの核になる存在の事だ。もちろん、その人間は誰でも良いという訳にはいかないでしょう。ナノマシンと感応し易い体質を持った人間でなければ務まらない。
そしてだから、そんな人間を見つけたなら、この宗教とナノマシン・ネットワークはその人物を放すまいとするはずです。もしかしたら、その場所から遠く離れようとすると、身体に影響を与えるくらいの事はしているかもしれない。
ここで注目すべきなのは、その役割を担うのは、信仰心は関係ないという点です。体質しか重要ではない。ただし、それは飽くまでナノネット側の話。人間社会に存在している宗教となると、そうはいかない。その人物の性格と、文化はとても重要になってくる」
その紺野さんの説明に、あたしは納得した。今回はその齟齬が、大問題だった訳か。あの人は、性格的にも問題があったようだし。
そこであたしはふと思った。
でも、きっと、その点が新田くんには重要だったんだ。そして、だからこそ、彼はあんなに嬉しそうに泣いたのだろう。実を言うなら、あの人の事があたしは好きになれなかったのだけど。今は、少しだけ好きだ。そう思う。