16.犠牲になる
(母胎の主・大村ゆかり)
わたしの機嫌はかなり悪かった。再三、再四、信者の連中が訪ねて来ては、わたしや子供達の悪口を言うからだ。初めは、子供達がこの場にいる事に怒っていたが、徐々にわたしの普段の生活態度への悪口の占める割合が多くなっていき、そんな態度だから神様が怒って祟りを起こしただなんだと言い始めた。
ふざけるな。神様はわたしなのじゃなかったのか? そもそも、わたしはここに好きでいる訳じゃないのだ。
やってくる度に、新田が何とか彼らを鎮めて、無事で済んでいるが、わたしの腹の虫は治まらなかった。なんで、あんな悪口を言われなくちゃいけないんだ!
そんなわたしの様子を察してか、新田がこんな事を言って来る。
「神の敗北だそうですよ」
――神の敗北?
謎の発言が多い子だが、その発言の意味も分からなかった。わたしの様子を見ると新田は少し微笑んでこう続けた。
「僕も詳しくは知らないのですがね。キリスト教においての神は全ての創造主だから、悪魔もその創造物である事になる。そして、悪魔は神の弱さであり、その悪魔を憎み、殲滅する事は神の敗北なのだとか」
「それが何よ?」
きっと、この子の事だから、わたしの機嫌が悪いのくらいお見通しで、そんな事を言っているのだろうとは分かっていたが、それでもわたしはそう訊いた。
「いえ、なんだか怒っているみたいだったので」
その返しにわたしは怒鳴った。
「わたしはあいつらの創造主なんかじゃないし、それにあいつらにとっての神はそんなものじゃない!」
すると穏やかな表情のままで、新田はこう応えた。
「分かってますよ。でも、全ての感覚は自らで創りだしたものです。相手に敵意があろうがなかろうが、それを受け止める自分がそれを敵意としなければ、敵意ではない。全ては己がそれを、どう受け止めるか。仮に敵意だとしても、それを憎むべき悪魔にするか異なった何かにするのかは、自分次第ですよ。
そういう意味では、誰しもが自分の世界の創造主です。なら、この話は僕らにも適応できるのじゃないでしょうか?」
わたしはその新田の言葉の意味が理解できなかった。この子は、子供の癖に時々、小難しい理屈を言う。もっとも、何となくの骨子は分かったが。つまりは、あの連中を憎むなという話だろう。でもそれは無理だ。何しろ憎んでいるのは、わたしではなく、連中なのだから。あんな理不尽な悪口を言われて、何も感じないはずがない。……だけど。
わたしは海中のたこになった。海の主だ。たこの感覚で、海を行く。たこが捕れなければ、あいつらが戸惑うのは分かる。生活の手段なのだから。だからわたしは、たこが捕れるように働きかけるつもりでいた。
――しかし、見つけてしまった。
海の上。ボートに乗っているだろう、人間の存在がわたしには感じ取れた。いつも、悪口を言いに来る連中のうちの一人だ。
そいつの映像がわたしの頭に浮かぶ。醜い顔で、わたしの悪口を言っている。悪魔としか思えない。
瞬間、わたしの頭に血が昇った。男が海中に手を入れるのが分かった。どうやら、近くに大きいたこがいるらしい。
わたしは、たこに命じて、そいつの腕を捕まえさせた。少しだけ、脅してやるつもりだったのだ。海中に引きずり込む。すると、そいつの顔が恐怖に染まったのが分かった。気分が良い。もう少し、もう少し…。
そこで、腕を掴まれた。
わたしは正気に戻る。その瞬間、わたしの操っていたたこに、棒が突き入れられる。わたしはその男を放した。
見ると、横には新田がいて、彼は、わたしの腕を掴みながら、酷く悲しそうな表情で首を横に振った。
「神の……、敗北ですよ」と、そう言う。
間。
新田は酷く深刻そうな顔をしていた。どうもこいつにも、海の様子や何かを感じ取る能力があるようだ。恐らくは、海の主だろう、あのたこの存在もきっと分かってる。だから、今何が起こっているのかも分かっているのだろう。
どうしてだろう?
今までは、そんな事はなかったのに。憎悪が増幅したとでも言うのだろうか?
そう。わたしが先に男を襲ってから、島のたこ達が人を襲い始めてしまったのだ。しかもわたしのコントロール外で。こんな事は今までに起こらなかったのに。ここ最近、少しだけ違和感を感じていたような気もするが。
「恐らくは、もう限界です」
新田は言った。
「怒りの感情が増幅しているのが分かる。ナノネットの状態も不安定です。僕の能力で止めるのにも限界がある。それに、僕は小規模の範囲にしか影響を与えられません」
新田が語り終えると、私は言う。
「それが?」
もちろん、まずい事態に陥っているだろう点は分かっていた。今は、きっと人を襲い始めたたこの騒動で、その対応に追われて岩盛島の人々はここにはやって来てはいない。しかし状況が落ち着けば、ほぼ間違いなく矛先はここに向かう。私と、この新田という子共に。理屈が通じる相手じゃない。
新田はしばらく何も答えなかった。三倉という女の子を見つめる。それからこう言った。
「ごめんね、三倉さん。こんな事になると分かっていたら、君を巻き込もうなんて思わなかったのに。
今からでも一人で帰って、と言いたいところだけど、今ここを離れると、君も危ないかもしれない。だから、もう少しだけ残って欲しい。何とか無事に帰してみせるから」
それを聞いてわたしは思う。後、どんな手段が残っていると言うのだろう? それから意を決したような表情で、新田はわたしにこう言った。
「お願いがあります。どうか、あなたの“山の中のたこの神”の立場を譲ってください」
わたしはその言葉に驚いた。
――なんだって?
新田は続ける。
「もう気付いているかもしれませんが、たこ神教の人達の敵意は、今や僕よりも、あなたに向かっている。僕は、何度かやった演出のお蔭で、それほど憎まれてはいない。いえ、異分子や邪魔者とは見られているでしょうが、それでも説得できない程じゃない。
ですが、あなたはもう無理だ。ここを出なければいけない頃でしょう。あなたの態度が変れば、また別の可能性もありますが」
わたしはその言葉を受けると黙った。心の中で返す。
“別にわたしは、ここにいたい訳じゃない。出られないだけだ!”
しかし、続けて新田はこう言ったのだ。
「察するに、あなたはここから出たいのじゃありませんか? だけど、ここに縛られて動けない」
わたしはそれを聞くと、新田を見た。なんなんだ、この子は? なぜ、分かる?
「元々、あなたは囚われの立場だ。だからナノネットを操る能力も低い。充分にたこ達を制御できないのも分かります。しかし僕は別だ。僕は子供の頃から、ナノネットに触れている。それを操る能力に長けています。つまり、今のタコ達の反乱だって僕なら恐らくは抑えられます」
そう新田が言い終えると、外から二匹の犬の悲しそうな声が聞こえた。
わおぉーん……
新田は、それをチラリとだけ見て、またわたしを見た。わたしは思う。
ナノネット? 何のことだろう?
時々、耳にする言葉だが、わたしはそれを知らなかった。きっと、宗教用語か何かだろう。里神教とやらの。
「つまり、それって、新田くんが犠牲になるって言っているの? この人の身代わりになって、ここに囚われるって」
それを言ったのは、三倉という女の子だった。新田は困ったような表情で、「そんな犠牲だなんて…」とそう言う。三倉という女の子は、怒っているようだった。わたしはこの女の子が怒るのを初めて見た。その後で、三倉は続ける。
「別に良いけど。でも、覚えておいてよ。あたし、街に帰ったら、この事を言って絶対に新田くんを迎えに来るからね。未成年をこんな所に閉じ込めるなんて、どう考えても法律違反じゃない。ふざけるな!」
犠牲になる……
三倉が言い終えると、わたしは考えた。
こんな子供を、わたしは犠牲にしようとしているのか?
三倉の言う事は分かる。確かに、普通ならそんな事は許されないだろう。しかし、ここの連中にそんな常識が通じるとは思えない。住所をここに移して、こっちの学校に通わせるくらい平気でやりそうだ。
わたしは言った。
「あなたは、それでいいの?
連中の神になると、ここからはもう離れられなくるのよ? いつ、次の神役が現れるのかも分からないのよ?」
すると、困ったように笑って、新田はこう言った。
「あなたこそ、良いのですか? ここの神役は普通の人じゃ勤まりませんよ。次に適合者がいつ現れるかは分からない」
何を大人びたことを……
何故か、わたしはその彼の言葉を聞いて、急に怒りが湧き上がってきた。
“お母さん”とか言って、泣いてた癖に。辛いのに、強がっているんじゃない! 子供の癖に。子供の… なんで、こんな小さな子供が、こんなに無理をしているんだ? 子供が大人の犠牲になる? そんなの全く反対じゃないか! ふざけるな! 子供は大人に甘えてればそれで良いんだ!
どうして、子供が大人の犠牲に…。
……それは、きっと。
大人が、大人じゃないからじゃないか。本来は存在するべき大人がいなから、子供が大人の役をやらなくちゃならない。
……わたしが、大人じゃないからだ。
わたしが黙っていると、新田が言った。
「僕は昔、お母さんを殺しました」
――え?
わたしは驚いて、新田を見る。三倉も彼を見つめていた。目を大きく見開いて。
「もちろん、わざとじゃないし、直接でもありません。犬達がやってしまった。でも、僕はそれでも、それは僕の所為だと思っています。
僕の中で、お母さんは悪魔だった。僕は憎むべき対象として、悪魔を殲滅しました。つまり、“神の敗北”です。
僕は本当はここに来るのが怖かったんです。あなたの存在は、お母さんに似ていたから。僕がまた、僕にとってのお母さんを殺してしまうのじゃないかと思って。だから、三倉さんに来てもらった。彼女という“他人”がいれば、自分を抑えられると思ったんです」
「何が、あったの?」
わたしは、自然とそう口を開いていた。この子が、何の理由もなくそんな事をするはずがないと分かっていたからかもしれない。新田はわたしの問いには答えなかった。その代わりにこう言う。
「だから、ここであなたの身代わりになれるのが嬉しいんです。ただの自己満足って事は分かっていますが、これでようやく、罪滅ぼしができる……」
“そんなに辛そうな顔で、そんな事を言われても、納得できないわよ!”
わたしは心の中でそう思った。そして、その瞬間だった。
(ドンッ!)
わたしが怒りの気配を感じたのは。
それはむしろ衝撃に近かった。犬の吠える声が聞こえる。あの犬達も分かっているんだ。新田も反応する。
「三倉さんは小屋から絶対に出てこないで。あなたも、下がっていてください」
それから、そう新田は言った。三倉は雰囲気で何か危険が迫ってきている事を察したようだった。大人しく頷く。今までとは、比べものにならないほどの数の人々が、この小屋を目指してやって来ている。恐らく、4、50人はいるだろうか? 新田は、一人で彼らの前に出るつもりなのか?
冗談じゃない!
「一人で行くつもり? わたしも行くわよ」
そうわたしが言うと、「あなたが出ると、却って話がこじれるかもしれない」と、新田はそう言う。しかし、その表情は緊張で強張っているのが分かった。強がってる。わたしはそう思うと、新田をじっと見つめた。すると、新田は軽くため息を漏らす。
「もしも、簡単に交代ができるのなら、その方法を教えてください」
それからわたしに向かって、そう言った。わたしは何も言わず、新田と一緒に小屋の外へ出た。
辺りは既に夕暮れになっていて、赤黒い夕焼け空が遠くに見えた。そして、山道を登ってくる人々の気配が。凶悪な意思を持った人々の気配が。足音が聞こえる。ザッザッザッ…… 彼らはわたし達の姿を認めると止まった。
何も言わない。そこに向けて、新田は大きな声で言った。
「聞いてください!」
まだ、静寂。
「努力したのですが、たこ達の怒りを抑える事はできませんでした。この人の能力では限界があったからです。
ですから、最後の手段を取ります。僕がこの人の後を引き継ぎます! そうすれば、たこ達の反乱は治まる!」
そう新田が言い終えると、信者達がざわつき始めた。
「つまり、“神の代替り”をしようって言うのか?」
神の代替り?
そういえば、そんな事を連中は前に言ってていたか……。
この子を、わたしの身代わりにするのは簡単だ。この子に、わたしがいつも宿っているあのたこを食わせればいい。わたしが操って海岸近くにあのたこを移動させ、捕えさせて食べさせれば……。
そうすれば、わたしは久しぶりに外へ出られる。あんな場所へ閉じ込められたわたしの生活は終わりを告げるのだ。まだ不充分かもしれないが、それでも、それなりにお金も貯まった。もう、わたしの生活が信者の目にさらされる事もない。
「その通りです」
語感から、何を意味するのか察したのか、新田はそうきっぱりと答えた。なんだか、自信に満ちた顔をしている。きっと、これも演出のうちなのだろう。
わたしは考える。このまま、新田に任せてしまえば、何もかも上手くいく……
……が、
「それは嘘です」
気付くとわたしは、そう口を開いていた。あなたみたいな子供が、無理をしてるんじゃない。こういう事は大人に任せなさい。そう思いながら。新田は、酷く驚いた表情を浮かべていた。
「何を……。あなたは、今がどんな状況だか分かっているのですか?」
狼狽した表情。わたしは毅然とこう言い返す。
「分かっています」
そしてそう言うと、手を合わせながら、信者達の前へと進む。
「たこ達が、混乱しているのはわたしの不徳によるものです。しかし、だからといって、このような子供にその役割が務まるはずがありません。
ここの神は、わたしです。わたしがたこを何とかします」
すると、信者の一人がこう言った。
「今まで、あんたは何にもできなかったじゃないか。だが、この子は違うぞ。里神の使いだか何だか知らないが、強い力を持っている。この数日で、俺達はそれを目の当たりにしてきたんだ。
この子が、神の役を引き受けてくれるって言うなら、大丈夫かもしれねぇ」
新田はそれに黙って頷く。
「神の役を担うのに、年齢はあまり関係がありません。その適合性と能力こそが問われるのです」
言い終えると、新田はわたしを見た。お願いだから、話を合わせてくれ、と言っているようにわたしには思えた。
冗談じゃない。
わたしは心の中で返す。
子供を犠牲にして、生きる大人がどこにいると言うんだ? 犠牲になるのは、常に大人の方だ!
だからわたしは……。それができないから、わたしは…。
子共なんて、産みたくなかったんだ。
子育てを禁じたのは、人類が絶滅するべき生物だからじゃない。情けない自分を肯定する為に、そんな言い訳を言っていただけだ。子供を不幸にする、駄目な大人な自分が嫌だったから。なのに、そんな自分を認めたくなかったから……、わたしは。
「駄目です!」
大声でわたしは言った。
「この子を犠牲にする事は、神であるこのわたしが許しません!」
信者達を睨む。
「あなた達は恥ずかしくないのですか?
こんな小さな子供を犠牲にして生活して。それで生きる意味が、存在する意味がどこにあるというのですか?
もしも、それでもこの子を犠牲にすると言うのなら、わたしを殺しなさい! 神であるこのわたしを!」
その時のわたしの中には、不思議と信者達に対する憎しみはなかった。ただ、ただ、この子を護らなければ、という思いがあっただけだ。
「お母さん……」
新田がそう呟いた。涙を流している。なんだ、そういう子供らしい表情もできるじゃないか。それを見て、わたしはそう思った。
その時だった。
パチっ パチッ パチっ
という、手を鳴らす音が響いてきたのは。
「素晴らしい」
その手を鳴らしていた誰かはそう言った。