15.蛸達の反乱
(怪談ルポライター・山中理恵)
岩盛島が、たこ神教と蛸養殖場を中心に混乱しているだろう点は明らかでした。特に蛸養殖場に勤めていて、たこ神教にも入信している人達は、憤懣やるかたない様子で、“神の間”に異分子が侵入しているらしい事が許せないようです。どうも、まだ子供達が神の所に泊まっているらしいのですが。
恐らく、蛸が捕れない事、つまり生活に対する不安がストレスとなり、そのはけ口を求めて噴出したのでしょう。ただ、話を聞いていると、彼らは以前から、“山の中のたこの神”に不満を感じていたようでもあるのですが。話を聞く限りでは、生活態度がだらしない人のようです。神の立場には相応しくない。
それからしばらくが経過しても、状況は改善しませんでした。
ナノネットを保持しているだろう、蛸達の様子は依然、おかしい。いえ、むしろ被害は広がっているよう。そう、状況が悪化しているだろう事を確かめると、私は遂に紺野さんへこの島の事を報告しました。忙しいだろうと思ってメールにしたのですが、その返事は電話できました。きっと、メールではまどろっこしかったのだと思います。
「正直、こういう話はもっと早く教えて欲しかったです」
紺野さんはそんな風に言っていましたが、それが事態が悪化する前に、という意味なのか、面白そうな話だから、という意味なのかは分かりませんでした。いえ、両方ともなのでしょうけど。いずれにしろ、私は「すいません」と謝りました。
「とにかく、もっと情報が欲しいです。私も急いでそちらに向かいますが、その間でもっと調べておいて欲しい」
紺野さんはそう言いましたが、私にはこれ以上、何を調べれば良いのか思い付けませんでした。できる事と言えば、“神の代替り”を調べる事と、蛸養殖場を調べる事くらいですが、蛸の様子がおかしくなってから警戒心が高まっているようなので、それも難しい。もっとも、“山の中のたこの神”に関する悪口なら、いくらでも聞けそうな勢いでしたが。
私の困惑を察したのか、紺野さんは受話器の向こうから、こう言いました。
「その島の、タコ食文化について、調べられたら調べてください。私の予想ですが、たこ神教が生まれる前から、タコ食文化はあったはずです。果たして、いつ頃からタコが盛んに食べられるようになったのか。もしかしたら、それを知る事が、その島のナノネットの特性を調べるのに役に立つかもしれない」
……タコ食文化?
なるほど、とそれを聞いて私は思いました。宗教にばかり気を取られていて忘れていましたが、宗教なんかなくても、蛸が食されるという文化が色濃く根付いていれば、ナノネットはそこに存在できるのです。むしろ、その土台にたこ神教が発生したと見るべきかもしれません。私が調べた限りでは、たこ神教は、民間信仰と山岳信仰の特性を持っている。ナノネットと土着のそれが結びついたと考える方が自然でしょう。
「分かりました」
と、私が答えると、紺野さんは電話の向こうで「お願いします。それと、神原さんがこの件に関わっているのですよね?」と、そう尋ねてきました。
「はい。メールにも書いた通りです。もっとも、どういう関わりなのかまでは分かりませんが」
私がそう答えると、
「なるほど。まぁ、あの人の事だから、必要以上に情報を伝えたりはしないでしょう」
そう言ってから、少し止まります。そして一呼吸の間の後で、こう続けました。
「あの人に連絡を取れば、こちらも調べたり考えたりしたりする手間が省けそうですね。助かります」
感謝しているような言葉でしたが、その声は複雑に響いていました。気持ちは分からない事もないです。きっと不安なのでしょう。紺野先生と言えども、神原先生相手では騙されも利用されもするのです。
「神原先生は、確かに勘も鋭いし、頭も良いですけど、ナノマシンとナノネットに関しては素人です。きっと、今回の騒ぎは紺野先生でなければ、解決できません」
私がそう言うと、「そうとばかりも言い切れませんよ。あの人は、私の他にも、ナノネットの専門家にコネクションを持っていますからね」と、そう返してきました。
「もっとも、それでも行きますよ。少しは役に立てるかもしれないし、それに、不安がなきにしもあらずですから」
……確かに、神原先生だとどんな手段に出るか分からないですから。
私は心の中でそう返しました。
それから「では、よろしくお願いします」と、言うと紺野さんはそれで電話を切りました。私の方こそ“よろしくお願いします”な気分でしたが。神原先生もまだ姿を現しませんし、頼りになるのは紺野さんくらいのものです。神原先生の事だから、既に島に来ている可能性もありますが。
紺野さんの助言に従って、蛸の食文化を調べてみると、面白い事実が分かりました。もっとずっと以前から、蛸が食べられているのかと思ったのですが、蛸が盛んに食べられるようになったのは、たこ神教が生まれるわずか数年前だったのです。こうなると、他にも何かないかと疑ってしまいたくなるのが、人情です。私は、役所で地方新聞や島の組合誌を漁って何か関連のありそうな記事がないかを探りました。
すると、妙な内容のものを私は拾ってしまったのです。
“タコの繁殖を志す、変わり者”
好事家の類でしょうか? 市井の研究者が蛸の繁殖を試みている、というような事が書かれてあるものを見つけたのです。詳細は不明でしたが、その研究者はそれなりに成果を収めたようです。しかし続報はない。何があったのかは分かりませんが、この好事家は、島を離れてしまったようです。それから少し考えてみて私は気が付きました。その記事が書かれた頃は、まだナノマシンの利用は制限されていなかった。そして、たこ神教が発生するまでの間で、そのナノネットの使用を制限する法律が制定された。
もし仮に、この好事家が、法に引っかかるようなナノマシンを利用して、蛸の繁殖を行っていたのだとすれば、法の制定と共に逃げ出してしまったとも考えられなくはない。ただし、それ以降もそのナノネットは存在し続け、蛸食文化を産み、たこ神教を発生させ、そして、蛸養殖場をこの島に作らせるに至った……。
私はそう結論付けると、紺野さんにその仮説とセットで、分かったことをまとめ、メールで送りました。
それからしばらくが経った後の事です。状況に変化がありました。しかも、うんと悪い変化が。
なんと、蛸が人を襲い出してしまったのです。蛸が人を襲う。蛸の毒に刺されたりと稀にはある事件らしいと聞いていますが、積極的に人ばかりを狙うとなると話は別です。異常な事態と言うしかないでしょう。私は偶然にもその光景を目撃してしまったのです。と言っても、それは同時多発的に様々な場所で起こったようなので、蛸養殖場の近くにいれば、それなりに目撃する可能性は高いのですが。
私が何気なく、海を見ていると、まず養殖場で働いている人の一人が突然に、見えなくなりました。その人はボートの上で作業をしていて、海中の蛸の様子を観察していたようなのですが、海に手を入れた瞬間に、蛸の腕に捕まり、海中に引きずり込まれたのです。
一瞬、私は人が消えたと思い、我が目を疑いました。しかし、直ぐにその人が海に落ちたのだと悟り、もがいているのを見ると、叫びました。
「誰か! 溺れているみたいですよ!」
その時は、蛸に捕まったなどとは夢にも思わなかったのです。ですが、近くで一緒に働いている人には蛸がその人を襲っている光景が見えたのでしょう。
何かの棒を海中に思い切り突き刺すと、別の人がその人を助けます。やがて、何とか陸に引き揚げられたその人は、酷く青い顔をしていました。溺れかけた所為もあるかもしれませんが、それ以上に恐怖によるものと考えられます。
先にも書きましたが、そんな事が島の海のあちこちで起こったのだそうです。蛸養殖場はもちろん、島の海岸一帯もそれで封鎖となり、操業も停止しました。にも拘わらず、死者や重態に陥った人が一人もいないというのは、奇跡かもしれません。いえ、これはもしかしたら、偶然ではないのかも……。
そして、
蛸養殖場とたこ神教の“怒り”は、それで更に激しくなってしまったのでした。今でもたこ神教の所に、子供が泊まっているらしく、「追い出してやる!」、「やっぱり、嘘だったんだ!」というような事を口々に言い、興奮している人達の姿が目に入りました。
これはかなり危険な状況でしょう。下手したら、暴行事件に発展しかねない。
私は避難を呼びかけようと、その“山の中のたこの神”とやらの元へ向かう決心をしました。今までは、危険だろうと近づく事を躊躇っていたのですが、そんな事を言っている場合ではなさそうです。
紺野さんは、もう今日辺りに着きそうですが、下手したら間に合わないかもしれませんし。しかし、そう思って山道を登っている最中に、私は妙な人影を見つけてしまったのでした。
「神原先生!」
そう。それは紛れもなく、神原先生の姿だったのです。横には、見た事のない男の人が一緒にいます。
「どうしたんですか? 来ていたなら、連絡をくれれば良かったのに」
私がそう言うと、珍しく少し慌てた様子で「いやいやいや、これは、どうも、山中さん。いえ、私も今は仕事中なものですからね、気軽に知り合いに会う訳にはいかないのですよ」なんて、神原先生は言ってきました。言葉の選びも、珍しく下手なような気がします。
これは……、何か悪い事でも企んでいたのかもしれない。
そう思った私は、こう言います。
「知っていますか? 神原先生。今、この島にはちょっとした問題が起こっているのですよ。下手したら、暴行事件にすらなりそうな勢いです。
“山の中のたこの神”とやらが危ない」
「ほぅ。何か騒がしいと思ったら、そんな事になっていたんですか?」
神原先生の態度には、いつもの余裕の雰囲気はなく、白々しさが違和感を増幅させていました。
「神原先生がいるのなら、なんとかなるかもしれない。私は今から、“山の中のたこの神”の所へ行って、逃げるように促すつもりでいたのですが、そんな事をしなくても、先生なら上手く島民達を説得できるのじゃないですか?」
それを聞くと、神原先生は首を横に振ってからこう言いました。
「山中さんは、私を高く買い過ぎですよ。いくら私でも、状況も何も分かってない状態で、そんな事はできません」
私はそれを聞いて、不思議に思いました。実は私は、何か違法な手段、或いは違法スレスレの手段で、神原先生はこの騒ぎを治めるつもりなのかと思っていたのです。いえ、私に言わないだけで、今でもそのつもりなのかもしれませんが。そうでなければ先生が、こんな山道を歩いている意味が分かりません。
「この人は誰ですか?」
そう思っていると、神原先生の隣にいる男の人がそう尋ねてきました。私を見ながら。
「民俗だとかの社会科学関係に強い、私の知り合いで、山中さんという人ですよ」
それにそう神原先生は答えます。私は慌ててそれを否定しました。
「いえ、そんな社会科学だなんてそんな大袈裟なものじゃなくて、私は単に怪談とか不思議な話が好きなだけで」
それを聞くと、その男の人は「神原さんに、こんな女性の知り合いがいるなんて思いませんでしたよ。失礼、俺は二村と言います」と、少し目を輝かせてそう言いました。
それを聞くと神原先生は「二村さん、今はそんな場合じゃないでしょう」と諌めます。私はその言葉を見逃しませんでした。
――そんな場合じゃない?
そういえば、この山道は例の行方不明者が発見された崖の近くでもあります。怪しい。そしてそう思ったタイミングでした。紺野さんからメールが入ったのです。
“――島に着きました”、と。