10.山の中のたこの神
(他人・三倉夕)
岩盛島に着くと、あたし達は海の近くにある定食屋で、まずは昼食を取ることにした。新田くんが何よりも必要だと言い張るから。犬達の餌は用意していたらしく、先に食べさせると、新田くんはこう言う。「少し離れた場所で待っていろ」。すると、二匹とも大人しくその言葉に従う。なんて従順。しかも少しだけ主人を心配しているような、寂しがっているような視線を向けている。なんて健気。基本的には猫派のあたしも、その態度には心惹かれてしまった。可愛い。
思わず抱きしめてやりたくなる衝動を抑えつつ、あたしは新田くんの後についていった。彼は二匹を全く気にしていないようで、振り返りもせずに定食屋に向かっていたのだ。定食屋には人気がなかったけど、既に昼時は過ぎているから、繁盛していないかどうかは分からなかった。
席に着くと、新田くんは「刺身とか生ものは大丈夫?」と尋ねてきた。「平気だけど」と答えると、彼は「そうか」と言い、なんと勝手に海鮮丼を注文してしまう。
「ちょっと、なんであたしの分も注文しちゃうのよ!」
と、抗議をすると、
「良いじゃない。僕がお金を出すのだし」
と、彼は澄ました顔で返してくる。どうしてくれよう。
ただ、出てきた海鮮丼はとても美味しかったので、まぁ、よしとした。食べ終えると、早々に新田くんは外に出る。そのまま直ぐに犬達の元へと戻る。
二匹は心配そうに「くーん」と鳴いた。ああ、可愛い。とあたしは思う。本当に抱きしめたい、などと思っていたら、新田くんが二匹を抱きしめた。
「よし、よし。心配かけたね。あの程度なら、全く問題なさそうだよ。それに、こっちからハッキングしても気付かなそうだ」
そして、そんな事を言う。何の事やら、と思っていると、新田くんはあたしの心中を察したのか、あたしを見てからこう言った。
「予想通り、君も全く問題がないみたいだ。よほど、ナノマシンに感応し難い体質なんだろうね。良かった」
「どういう意味?」
「この島には、ナノマシンが豊富に繁殖しているって話だよ。僕らは先の食事で、ナノマシンを体内に取り入れたって訳。あの海鮮丼には、タコの刺身もあったけど、恐らくはタコだけじゃないと思う」
あたしはそれを聞くと、少し考えてからこう言った。
「つまり、もしかしたら、その食べたナノマシンを通して、あたし達は操られてしまっていたかもしれないって意味? 下手したら」
新田くんは表情も変えずにこう答える。
「その通り」
あたしはそれを聞いて、彼を殴った。
「そういう事は、食べる前に言いなさい!」
グーで。
「怒らないでよ。大丈夫だろうって自信ならあったんだ。この島に来る前に、確かめていたから。採取した、この島のナノネットには既に里神に憑かれている僕を、操作するほどの力はないって。君についても、それは同様。人の心に干渉する力は弱いみたいだ。
それに、もしもの為に、阿と吽を待機させていたのだしね」
あたしはその言葉に少しだけ驚いた。
「もしかして、だからワンちゃん達には用意していた餌を与えたの? この島の食べ物じゃなくて」
「そうだよ。僕が実験台になって、まずは平気だって事を確かめてから、阿と吽にはこの島の食べ物を与えようと思って」
その説明を聞いて、あたしは少し新田くんに好印象を持った。犬じゃなくて、自分を実験台にするなんて。
「力はこいつらの方が全然強いからね。もしも操られたら、僕は止められない。逆なら可能だけどさ」
彼はそうも続けた。確かに正当な理由ではあるのかもしれないけど、それでも、なかなかできる事じゃない。あたしは感心してしまった。
「さて。安全だろうと分かったところで、調査だ。阿に吽、ナノマシンをばらまいて来るんだ」
そう言うと、新田くんはカバンの中からビンを取り出した。中には液体が入っている。そしてそれを、犬達に振りかけた。
「行っておいで」
そう新田くんが言うと、犬達は走り出した。察するに、あの液体にはナノマシンが大量に含まれているのだろう。あの二匹は、走り回ってそれをばらまいているんだ。あたしは二匹が去った事を少し残念に思う。ようやく、かなり可愛いと思えるようになってきたところだったのに。
「よし、僕も行くか」
次に新田くんはそう呟くと、ゆっくりと歩き始めた。
「どこにいくの?」
あたしがそう尋ねると、新田くんはこう説明してきた。
「僕にはナノネットを感じ取れる能力があるからね。たこ神のナノネットを感じながら歩いて、大体の分布を掴んでおこうと思って。あの二匹が、ナノマシンをばらまいてくれているからやり易いし」
ふーん、と思いながらあたしはそのゆっくりと歩く新田くんに付いていった。傍目には、散歩しているようにしか見えない。まぁ、それで良いのだろうけど。
「で、あたしは何をすればいいの?」
あまりに暇なので、そう尋ねると新田くんはこう答えた。
「何もしなくていいよ。ただ、一緒にいて、ボーっとしてくれているだけでいい」
ヲイ。
あたしはそれを聞いて、心の中でツッコミを入れる。相手が相手で状況が状況なら、無理をすれば、ロマンチックな台詞に思えなくもないところだけど、相手が新田くんで状況がこんなだから、少しのトキメキもない。
なんだかなー と思って、仕方くあたしは周囲の景色でも楽しもうと辺りを見渡した。綺麗なだけが救いだ。そんな時、あたしは旅行鞄らしきものを抱えた、女の人が山道を登っていくのを見かけた。この島の人には思えなかったので、しばらく目で追ってしまう。それで、看板が目に入った。
この先、たこ神教、本部
へぇ。あたしは思う。あの人は、恐らくたこ神教に用があって行くのだ。
「何の用かしら?」
思わずあたしはそう独り言を漏らした。すると、新田くんがその言葉に反応を示す。
「誰かいたの?」
意外な事に、驚いた様子。そう言われて、あたしは歩いていく女の人を指差した。
「あそこに、女の人が歩いているけど。どうしたの? ナノネットの反応でもあったの?」
「いや、逆だよ。全く、ナノネットの反応を感じ取れなかった。きっと、あの人はナノマシンに感応し難い特異体質の持ち主だ。ちょっと、興味深いね。そんな体質の人が、たこ神教の本部に向かっているのか」
そう言うと、少し新田くんは目を閉じた。集中しているように思える。ちょっと時間が経ってから、叫んだ。
「阿! こっちだ!」
犬を呼んだのは分かるけど、名前が一文字なだけに、知らない人が聞いたら変に思うかもしれない。ま、新田くんがそういうのを気にしないのは、知っているけど。
しばらく経つと、道路を駆ける カッカッカッ という足音と共に、阿がそこにやって来た。凄い。そして、羨ましい。あんなに遠くにいても、直ぐに呼べるんだ。
「いいかい? 阿。あの女の人を追うんだ。きっと、誰かと会うだろうから、傍に近付いて話を聞いて」
阿はそれを聞くと再び駆けた。その光景を見て、猫も良いけど、犬も良いな、とあたしは改めて思う。
「さて。僕らも行こうか」
それから新田くんはそう言う。あたしはそれを聞いて、“マジ?”と思った。山道を登るのが嫌だったのだ。
「意識を集中すれば、阿の聞いた声をナノネットを通じて僕も分かるのだけど、近くじゃないとやっぱりきつくてさ」
あたしは嫌な気持ちを表情に出してしまっていたのか、新田くんは言い訳をするようにそんな事を言った。そこでふと思った。今までの経験から分かったけど、新田くんは、案外、人の表情の変化に敏感だ。人間関係や空気を読む能力がないのかとも思っていたけど、少し違うのかもしれない。それを察した上で、あまり重要視していないのかも。いや、疎んじているのか。分からないけど。
それからしばらく山道を登ると、新田くんは木陰の岩の上に腰を下ろした。
「ここら辺りがいい」
そう言うと、水筒を出して麦茶をあたしに淹れてくれた。本人もそれを飲む。あたしは少し不安になってこう尋ねた。
「まさか、これにも大量にナノマシンが入っているとか?」
「いや、普通の麦茶だよ。山道を登って汗をかいたから、水分補給。ま、少しは混ざっていると思うけど。でも、どちらにしろ、君には関係ないと思うけど」
そう分かっていても、気になるものは気になるのよ。心の中で返しながら、あたしは麦茶を飲んだ。乾いた喉に、それはやはり美味しかった。飲み終えて新田くんを見ると、彼は既に意識を集中し始めているようだった。阿の耳を通して、会話を盗聴し始めているのだろうと思う。しばらくが経つ。新田くんは不意に少し寂しげな笑みを浮かべると、こう言った。
「なるほど。悪魔に対する憎悪とその殲滅は、“神の敗北”ね。だとするなら、僕は負けてしまった事になるのかな?」
何の事か分からない。それは、いつもの事だけど、何だか今回は特別な気がした。
「どうしたの?」
と、あたしが尋ねると、「いや、別に。どうやら、さっきの女の人は、何かの雑誌の記者みたいだ。たこ神教を取材に来ていたらしい」とそう彼は答えた。
「それと、僕らが目指すべき場所が、どこかも分かった。山の中だ。たこ神のナノネットの核は、どうやらそこにいるらしい。意外にも海じゃなかったんだ。このまま探していたら、たくさんの時間を浪費していたかもしれない。危ないところだった」
あたしはそれを聞いて、こう訊く。
「山の中? と言っても、範囲広いわよね。簡単には見つからないのじゃない?」
「いや、そうでもないと思うよ。本部がここにあるって事は、この近くだろう。後はナノネットの流れを読んで、それが色濃く集中しているような場所を探せば良いんだ」
それから新田くんはまた意識を集中し始めた。目をつむる。あたしはそれで、またやる事がなくなってしまった。ボーっとする。一時間ほどが経って、日差しが柔らかくなり始めた頃に、彼は言った。
「よし。大体は分かった。阿と吽を呼び戻そう」
あたしはそう言った彼に、こう訊いた。
「ちょっと待って。まさか、今からそこに向かうの? そろそろ戻らないと、今日中には家に帰れなくなるわよ。フェリーがなくなっちゃうから」
「そうだね。もう、今日は帰れないと思うな」
「って、本気? 何処に泊まるのよ?」
「その当てなら、もうあるよ。しかも、無料だ。もしかしたら、泊まりになるかもしれないって僕は言っておいたろう?」
あたしはその言葉に唖然となった。
「当てって何処?」
「山の中のたこの神のとこ」
「へ?」
その言葉を聞いて、あたしは彼に付いて来てしまった事を、徹底的に後悔した。
それから阿と吽が帰ってくると、近くの泉で水を与え、あたし達はその山の中のたこの神の住み家を目指した。途中、『この先私有地』という看板と柵があったけど、新田くんはそれを無視して入ってしまう。もっとも、そんな事くらいは予想していたけど。
この、ロックンローラーめ!
心の中でそう思う。あたしは胸の中を更に嫌な気持ちでいっぱいにしつつ、彼に付いて行った。こうなったら、もう一緒に行くしかない。
やがて、背後に少し削られた崖のようなものが控えた、小屋が見え始めた。きっと、その小屋がたこの神の住み家なのだろう。小屋の前まで来ると、新田くんは呼び鈴を鳴らした。しばらく後に、扉が開く。
「あなた、誰?」
そこに姿を現したのは、三十代くらいの年齢の女の人で、寝ぼけたような顔をしていた。とてもじゃないが、神と名乗るような人には思えない。何処にでもいそうな、おばさんだ。ただ服だけは、真っ白なワンピースで、宗教的雰囲気を漂わせていたけど。
新田くんはそのおばさんを見るなり、にっこりと笑いこう言った。
「あなたが、たこの神様ですね? しばらくここにご厄介になろうと思って、やって来ました。
僕は“里神の使い”です」
それを聞くと、そのおばさんは目を白黒させた。まぁ、無理もないだろう。
「なに、あなた? 頭がおかしいの?」
そう言って、あたしの顔と新田くんの顔とを見比べる。あたしは思う。お願いだから、一緒にしないで。そう言われると、新田くんはますます笑顔になってこう続けた。
「いえ、僕は正気ですよ。
里神が、ここのたこ達の所為で困っているのです。それでやって来ました」
「やっぱり、おかしいじゃない」
きつい口調で女の人はそう言ったが、新田くんは笑顔を崩さない。その無理に作ったような笑顔が、あたしには少し不安だった。新田くんは言う。
「そんな事を言って良いのですか? 僕はあなたの秘密を知っているのですよ? この島の海で、たこの養殖をやっていますよね? あなたは、それに関与している」
それを聞くと、女の人は驚いた顔をした。青くなる。あたしはその女の人の驚いた顔に驚く。きっと、新田くんはナノネットを通じてそれを知ったのだろう。
「たこ神教の人達は、その事実を知らないのじゃないですか? 良いんですか? 僕がそれを伝えても。
少しの間、僕らをここに泊めてくれるだけで、良いんです。どうか、入れてはもらえませんか?」
そう新田くんが言うと、少しの間の後で、女の人はこう言った。
「……入りなさい」
酷く、憎らしげな表情で。