9.神の敗北
(怪談ルポライター・山中理恵)
岩盛島に着くと、私はそのままたこ神教の取材へと向かいました。時間も予算もそんなにはないので、無駄な事に割いている余裕はなかったのです。本当は、もっと色々と見て回りたかったのですけど。前もって、連絡を入れていて、約束の時間に間に合いそうにもなかった、という事もあったのですが。
たこ神教というからには、本部は海の近くなのかと思っていたのですが、意外にもそこは山の中でした。と言っても、小さな島なので確りと海の気配もあるのですが。
教団の施設は、意外にもオープンな感じで時代劇の茶屋に似ている感じの、青空が見える休憩所があり、そこに招かれます。リラックスできる感じ。本当に解放感があり、近くの木陰では大きな犬が一匹、休んでいたのですが、それを誰も追い払おうとしませんでした。聞いてみると、教団の犬ではないそうです。見ないけども、毛並が確りしているので何処かの飼い犬ではないか、とも。いずれ飼い主が現れるだろうから、放っておいても構わない、とも言っていました。その寛容さに、私は好印象を持ちます。
私の相手をしてくれたたこ神教の方は、年輩の女の人で“感じ”は良さそうでした。話を聞くと、たこを神としているとは言っても、特に宗教として変わった点はなく、民俗信仰に近い雰囲気を私は感じました。ただ、どことなく、山岳信仰の気配を匂わせてもいたのですが。蛸が蛸壺に入るのと、山岳信仰における山に篭っての浄化を、同一視し、更に蛸壺も山も母体と見なしているような。もっとも、これは飽くまで私の感想であって、本当にそうなのかまでは分からなかったのですが。ただ、一つ変わった点があるとすれば、生の蛸を週に一度は食べなくてはいけない、という妙な決まりがある点でしょうか。
「蛸薬師の影響でしょうか?」
と、私が質問をすると、その女の人は「いえ、全く関係がありません」と、そう答えました。蛸薬師には、病気の母を思った僧が、戒律を破ってまで蛸を買ってきたところ、その蛸が池に飛び込んで光明を放ち、たちまち快癒したという、そんな由来があるのです。ですが、それが関係ない。何か意味があるのかと尋ねると、神聖なる蛸を体内に取り入れる為だと説明をしてきました。どうにも、何か弱い気がします。私は、当然、ナノネットとの関連を疑いました。ナノマシンが繁殖している蛸を食べ、そのネットワークを維持し続けているのではないか?と。もちろん、そんな質問はできませんでしたが。
「蛸を神としているのに、山に教団施設があるというのも珍しいですね」
私がそう言うと、
「海か山か、という観点が重要なのではありません。そこが精神の浄化にとって、適しているかどうかが重要です」
と、その女性は説明してきました。
山の神は女で、醜い。だから、醜いオコゼを持っていくと喜ぶ。などという話があるのですが、私はその時にそれを思い出しました。オコゼは海の魚ですから。もっとも、今回は全く関係なさそうですが。余談ですが、ヤマノカミという名の魚が存在します。恐らく、これも山の神信仰の影響があるのではないか、と考えられます。
そこまで話を聞いて、私は自分の考えを改めました。『人類は増えるべき種ではないから、これ以上増やさない為に、子供を産んで育ててはいけない』。そんな教義を聞いた時、どちらかと言えば、たこ神教の神は、キリスト教的な絶対神に近いのではないか、と私は想像していたのですが、どうにも、日本の昔ながらの神様な雰囲気がある気がします。
海も山も同じように重要、という話も日本の“異界”、或いは“あの世”の感覚と通じる気がしますし。
世界には、あの世を遠い世界と考えるのではなく、一つ山の向こうや海の向こうには、死んでしまった人間達が住んでいる、という“地続き”のあの世や異界を想定する文化もあるのです。日本にも色濃くそれはあり、隠れ家や龍宮などは、その一例だとも言えるでしょう。因みに、あの世は異界全般に通じます。少し離れれば、知らない世界だらけ、という事でしょうか。その意味で、海も山も異界であり、その地で“生まれ変わり”の儀式が行われる。このたこ神教には、どうやらそんな趣があるようなのです。
そして、だからこそ私は疑問に思いました。人類の絶滅を願うような、子供を産み育ててはいけない、という教義は明らかにたこ神教において異質に思えたからです。私がそんな疑問を口にすると、女性はこんな説明をしました。
「その教義は、神が代替わりをした事で、新たに発生したものなので、異質に思えるのでしょう」
私はその説明に驚きました。
「神が代替り? 神は蛸ではなかったのですか?」
「いかにも、神はたこです」
しかし、質問をしても、どうにも要領を得ません。これまでの明確な説明とのギャップに私は混乱しました。
「その、神であるたこが替わる、という事でしょうか?」
「その通りです。神はたこですが、全てのたこが特別という訳ではありません。その特別なたこが新しく変わったのです。正確に言えば、たこの柱となる存在が、新しくなったという事なのですが。
そして、その新しい柱が、今回のその教義をお作りになられました。私どもはそれに従ったまでです」
どうにも、私はその話を聞いて不思議な気持ちになりました。宗教とは、一つの思想なりなんなりがあり、それを軸として組織や教義が体系付けられるものです。その軸がぶれるのならば、それは三流の宗教です。儲け中心か一部の人間達の専制的なもので、矛盾のある内容がボロボロと出てくる。長続きするようなものではありません。私はこのたこ神教はそういうものとは違うのではないかと思っていました。でも、その話を聞いて、もしかしたら、ただのハリボテなのかもしれないと思います。それで、揺さぶってみようとこんな話をしました。
「すいません。突然ですが、少し変わった質問をしてよろしいでしょうか? 感想を聞いてみたくなったもので。キリスト教の神、その矛盾に関するお話なのですが」
「かまいません」
「ご存知でしょうが、キリスト教の神は全知全能で、全ての創造主です。ですが、だからこその矛盾もはらんでいる。キリスト教を脅かす悪魔の存在。キリスト教の神が全知全能で、創造主であるというのなら、その悪魔すらも神が創造した事になる。この悪魔は異文化とも関係がありますが、ここでは特に言及しないようにしましょう。
これに対する解釈として、悪魔の存在は“神の弱さ”であるというものがあります。そして、ここからが少し面白いと思うのですが、その悪魔を憎悪し殲滅する事は、“神の敗北”とも言われているのです。これはキリスト教が信念を重要視し、様々に葛藤する上で辿り着いた解釈の一つで、その成熟を意味しているのかもしれません。
この葛藤は、良いか悪いかは別問題にして、キリスト教が一つの信念を抱えている事の証明でもあるでしょう。あなたは、この話をどう思いますか?」
私が強引にこんな話をしたのは、もちろん教義の矛盾に関する葛藤、という部分に対する女性の反応が見てみたかったからです。
「とても面白い話ですね。私もそこまでは知りませんでした。いえ、キリスト教に関しては疎いもので」
しかし女性は、私が期待するような反応は見せてくれませんでした。その意図を察しないほど、鈍いとも思えなかったのですが。女性は少し笑うとこう続けました。
「全ての主体であるのが神ならば、悪魔も神の一部に過ぎない。そして、それを憎悪し殲滅する事は、神の敗北。
ならば、この場合、神が勝利するにはどうすればいいのでしょう? その悪魔をどうすれば、神は勝利できるのか」
気付くと私は逆にそんな質問を受けていました。そして真面目に考えてしまう。意味深げに女性が口を開いたので、真摯にそれを受け止めてしまったのです。言葉遊びや、舌戦の類でそれを口にしたようには思えなかったからかもしれません。
「これは私見ですが。悪魔を受け入れる事だと思います。ただし、自らの主体の一部などと考えるのではなく、客体としてそれを認識した上で」
私はそう答えます。
「なるほど、面白いお話です」
それを聞くと、女性は満足そうにそう答えました。
「その話、私どもの宗教にも、関係があるかもしれません」
そして、そう付け加えたのです。
取材が終わって、私はどうにも釈然としない思いを抱えました。神の代替り。それが何を意味するのか、結局、分からなかったからです。しかも、それによって宗教の信念体系とは全く異なった教義が追加されるなんて、私にはどう考えても異常に思えます。宗教を支配する神にならば、例え矛盾する内容でも自由に決められる、とでも言うのでしょうか?
しかし、そこまで考えてふと思ったのです。世界全体などではなく、たこ神教内部の話というのなら、先のキリスト教の抱える矛盾はそのまま適用できるのではないか、と。
それに、山岳信仰において山は母体。幼い子供は母親と自分を区別していないとも言われており、全能感を持つ。自分という限られた存在を実感するのには、何よりも、自分の中の矛盾に気が付き、その葛藤に打ち克つ事が必要。……なんだか、繋がりがあるような気もします。
何かありそう。
それで私は、もう少し調べてみようと思ったのです。“子供を産み育ててはいけない”、という教義が神の代替りと共に生まれたのだと言うのなら、その教義が生まれた時期こそが、神の代替りと一致するはずです。
教団側の資料にそれはあり、調べてみると、奇妙な事実に気が付きました。この島の近辺の蛸に関する怪異の噂話、その発生の時期と神の代替りの時期が一致するのです。更に、この島で蛸の養殖が行われるようになった時期もその辺りです。
ですが、そう思ってその辺りの事をもっと集中して調べてみようと思った矢先に、事件が起きてしまったのでした。この島で行方不明になっていた、経済雑誌の記者が、なんと死体で発見されてしまったのです。
記者は崖から転落したと見られ、どうやら即死という事でした。更にその崖の下には他にも人間が、生存者がおり、それは蛸養殖を行っている会社の社員だと言うのです。
その会社員は、この数日間、姿が見えず安否が気遣われていたのですが、同じく崖から転落したものの海に落ちたお蔭で助かったと見られ、その後は、海の生き物を食べ続けて飢えを凌いだのだとか。一応、ルポライターである私は、この件を取材しない訳にはいかなくなってしまったのでした。