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第三章 荒れ果てた工房

最初に鼻を突いたのは、煤と錆の匂いだった。


正義は、薄暗い空間の中で目を覚ました。背中の下には、藁のようなものが敷かれている。体が重い。だが、不思議と痛みはなかった。


「——気がついたのか」


声がした。若い女の声だ。正義は首を巡らせた。


逆光の中に、一人の人影が立っていた。赤みがかった髪を後ろで束ね、革のエプロンを身に着けている。年齢は二十歳そこそこか。鍛冶職人の出で立ちだった。


「ここは……」


「ハンマーシュタイン工房だよ。あんた、路地裏で倒れてたんだ」


女は、無造作に木のコップを差し出した。中には、濁った水が入っていた。


「飲める。一応、煮沸してある」


正義は体を起こし、コップを受け取った。指先に、木の粗い感触。現実だった。


一口含むと、かすかに土の味がした。だが、喉が渇いていた。一気に飲み干す。


「……ありがとう」


「礼はいい」


女は、正義をじろじろと見た。


「変な格好だね、あんた。見たことない服だ。どこから来たんだ?」


正義は、自分の姿を確認した。作業着ではなかった。粗末な麻のようなシャツと、同じ素材のズボン。だが、足元には——見覚えのある安全靴が残っていた。


『服は現地のものに変換されるが、身につけていた道具は残る』


どこかで、守護者の声が聞こえた気がした。


「……遠くから来た。記憶が、少し曖昧で」


「ふうん」


女は、あまり興味がなさそうに頷いた。


「まあいい。動けるなら、さっさと出ていってくれ。うちは宿屋じゃない」


「待ってくれ」


正義は立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに安定した。体は——若い。四十二年間使い込んできた体の記憶とは、明らかに違う。筋肉の弾力、関節の滑らかさ。


だが、それよりも気になることがあった。


「ここは、鍛冶工房か」


「……そうだよ。それが何か」


女の声に、わずかな棘があった。正義は、周囲を見回した。


薄暗い室内。天井から吊るされた煤けたランプ。壁際には、錆びついた道具が雑然と積まれている。床には、金属の削りかすや、割れたレンガの欠片が散乱していた。


鍛冶場があった。だが、炉は冷え切っていた。アンビル(金床)には、薄く埃が積もっている。


「……随分と、荒れているな」


言葉が、自然と出た。職業病だった。工場を見れば、その状態が一目でわかる。


女の目が、鋭くなった。


「文句があるなら、出ていけ。よそ者に何がわかる」


「いや、悪かった」


正義は、素直に謝った。だが、視線は工房の中を巡り続けていた。


壁に掛けられた工具。ハンマー、トング、やっとこ。どれも手入れがされていない。柄は割れ、金属部分は錆が浮いている。使える状態ではなかった。


作業台の上には、何かの金属部品が放置されていた。正義は、思わず手を伸ばした。


「触るな!」


女が叫んだ。だが、正義の指は、すでに金属に触れていた。


冷たい。そして、表面にはざらつきがあった。正義は、指先で金属をなぞった。


「……これは、何を作ろうとしていた?」


「……蝶番だよ」


女の声が、小さくなった。


「村の門扉用の。でも、うまくいかなくて……」


正義は、その金属片を持ち上げた。光に透かして見る。


「成形が甘いな。それに、この歪み……熱処理の温度管理が不安定だったんじゃないか」


女が、息を飲んだ。


「どうして、それが……」


「見ればわかる。金属は嘘をつかない」


正義は、金属片を作業台に戻した。


「炭の質が悪いのか、それともふいごの送風量が安定しないのか。どちらにしろ、このままでは——」


「やめてくれ」


女が、遮った。その声は、震えていた。


「わかってるよ、そんなこと。わかってるけど……どうしようもないんだ」


正義は、女の顔を見た。


目の下に、薄い隈があった。唇は乾き、肌には疲労の色が浮かんでいた。だが、その瞳の奥には——


『お前と同じ、「炎」がある』


守護者の言葉が、蘇った。


「……名前は」


正義は、静かに聞いた。


「私か? エルザ・ハンマーシュタイン」


「この工房は、お前の?」


「……親父のだった」


エルザの声が、かすれた。


「半年前に死んだ。私が継いだけど……見ての通りだよ。技術も、金も、何もない」


正義は、工房を改めて見回した。


荒れ果てた設備。手入れされていない工具。積み上がった仕事の残骸。


だが、骨格は悪くなかった。炉の構造は理にかなっているし、天井の換気口の配置も適切だ。かつては、腕のいい職人がここで働いていたのだろう。


「……俺に、ここを手伝わせてくれないか」


言葉が、自然と出ていた。


エルザが、目を見開いた。


「は? 何を言って——」


「俺は、こういう仕事をしてきた。鍛冶そのものは初めてだが……工房を立て直す方法は、わかる」


「信じられるわけないだろう。どこの誰かもわからないよそ者に——」


「まずは、掃除からだ」


正義は、エルザの言葉を遮った。


「工房を見せてくれ。隅々まで。それで、何ができるか考える」


エルザは、しばらく正義を睨んでいた。だが、やがて——


「……勝手にしろ」


そう言って、背を向けた。


正義は、小さく頷いた。


そして、安全靴の紐を結び直し、工房の奥へと歩き出した。




工房の全容を把握するのに、二時間かかった。


メインの鍛冶場、素材置き場、道具棚、そして裏手にある小さな井戸。正義は、一つ一つを確認し、頭の中で工程フローを描いていった。


「……ひどいな」


独り言が漏れた。


道具の管理は壊滅的だった。同じ種類のハンマーが三か所に分散し、トングは使用可能なものと不能なものが混在している。素材の在庫管理は存在せず、何がどれだけあるのかすら把握できない状態だった。


だが、最も深刻なのは——


「5Sが、全くできていない」


整理、整頓、清掃、清潔、躾。製造現場の基本中の基本。それが、この工房には存在しなかった。


正義は、深く息を吸った。


埃と煤の匂い。だが、その奥に——鉄の匂いがあった。まだ死んでいない。この工房は、まだ生きている。


「おい」


エルザが、後ろから声をかけた。


「で、どうなんだ。何かわかったのか」


正義は、振り返った。


「わかった。まず、今日中にやることを三つ決める」


「三つ?」


「一つ目。この床の掃除だ。金属くずと埃で、足元が見えない。怪我をする前に、全部掃き出す」


エルザが、眉をひそめた。


「掃除? そんなことより——」


「二つ目」


正義は、遮った。


「道具の選別だ。使えるものと、使えないものを分ける。使えないものは、一か所にまとめて処分を検討する」


「だから——」


「三つ目。炉の点検だ。火を入れる前に、レンガの状態を確認する。ひび割れがあれば、修復が先だ」


エルザは、口を開きかけて、そして閉じた。


「……あんた、何者なんだ」


「通りすがりの技術屋だ」


正義は、壁に立てかけられていた竹箒を手に取った。


「さあ、始めるぞ」


「待て待て待て」


エルザが、慌てて割り込んだ。


「私の工房だ。あんたに指図される筋合いは——」


「なら、お前がやれ」


正義は、箒をエルザに押し付けた。


「俺は手伝うだけだ。主導権はお前にある。だが——」


真剣な目で、エルザを見た。


「このままでは、この工房は一年持たない。わかっているだろう」


エルザの顔が、強張った。


「……なんで、そんなことが」


「工場を見れば、わかる。在庫の量、道具の状態、設備の摩耗。全部、数字で見える」


正義は、周囲を指さした。


「素材の在庫は、見たところ二週間分もない。道具は半分以上が使用不能。炉のレンガは、少なくとも三か所にクラックが入っている。このまま無理に火を入れれば、崩壊する」


エルザの目が、大きく見開かれた。


「……本当に、見ただけでわかるのか」


「見れば、な」


正義は、小さく笑った。


「俺の目は、そういうふうにできている」


エルザは、しばらく正義を見つめていた。その目には、警戒と、そして——かすかな希望が、入り混じっていた。


「……あんた、名前は」


「桐生正義。マサヨシ、でいい」


「マサヨシ……変な名前」


「お互い様だ」


エルザは、ふっと息を吐いた。そして——竹箒を握り直した。


「……わかった。やってやろうじゃないか」


正義は、頷いた。


「『段取り八分』だ。準備がすべてを決める。まずは、この床から始めよう」


その日から、ハンマーシュタイン工房の改革が始まった。



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