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第一章 追放の日

工場の油と金属の匂いが染みついた作業着を、桐生正義は十五年間、誇りに思ってきた。


「つまり、桐生くん。君にはこの会社を辞めてもらいたい」


会議室の蛍光灯が、やけに白く感じられた。正義の鼓膜を震わせたその言葉は、まるで三次元測定機のプローブが、許容公差を大きく外れた数値を叩き出したときのような、取り返しのつかない響きを持っていた。


専務取締役の顔は、恒温室の温度計のように無機質だった。


「……理由を、お聞かせ願えますか」


自分の声が、どこか遠くから聞こえる。正義は無意識に、テーブルの下で拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む感覚だけが、これが現実であることを教えてくれた。


「理由? 君、本気で聞いているのか」


専務は書類の束をテーブルに放り投げた。紙の束が崩れ、数枚が床に滑り落ちる。正義にはそれが、自分の築いてきたものが崩れ落ちる音に聞こえた。


「先月の件だよ。君が独断で止めた海外調達の案件。あれで我が社がどれだけの損失を被ったか、わかっているのか」


正義の脳裏に、先月の出来事が蘇る。


東南アジアの新興サプライヤーから、主力製品の心臓部である精密ベアリングを調達するという経営判断。コストは国内調達の三分の一。数字だけを見れば、魅力的な提案だった。


だが、正義はサンプル品を検査した瞬間に気づいていた。真円度が規格の倍以上ぶれている。表面粗さは論外。このまま量産に組み込めば、半年以内に市場でクレームの山が築かれる。


「あのベアリングでは、三年どころか一年持ちません。私は品質を守るために——Loss」


「品質?」専務が鼻で笑った。「品質で飯が食えるか。コストだよ、コスト。君のような現場上がりには、経営というものがわからんのだ」


正義は唇を噛んだ。血の味がした。


「私は、この会社の製品がお客様の工場で何十年も動き続けることを、誇りに思ってきました。その信頼を、目先のコストで売り渡すことは——」


「だから君はダメなんだ」


専務の声が、会議室の空気を凍らせた。


「時代は変わった。君のような『職人気質』は、もう必要ない。数字を読め、数字を。QCDのCが読めない人間に、この会社の未来は任せられん」


QCD。Quality、Cost、Delivery。品質、原価、納期。製造業に身を置く者なら、誰もが知る三文字。


正義は、その言葉を誰よりも大切にしてきたはずだった。品質なきコストダウンは、ただの詐欺だ。それが、彼の十五年間の信条だった。


「……わかりました」


声が震えていた。悔しさではない。怒りでもない。ただ、胸の奥で何かが砕ける音がした。


「荷物は今日中にまとめろ。退職届は人事に出しておく。ああ、それから——」


専務は立ち上がりながら、最後の言葉を投げつけた。


「君の部下たちには、私から話しておく。余計なことは言わんでくれ」


会議室のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。




正義は、自分のデスクの前に立ち尽くしていた。


生産技術課のフロアは、夕方の残業時間帯特有の、静かな熱気に包まれていた。キーボードを叩く音、CADソフトの操作音、時折聞こえる電話の呼び出し音。十五年間、毎日のように聞いてきた音だった。


デスクの上には、使い込まれた三色ボールペンと、付箋だらけの技術書が積まれていた。引き出しを開ければ、マイクロメーターやノギスが、きちんと定位置に並んでいる。


「課長」


背後から声をかけられ、正義は振り返った。


入社三年目の若手、田中が立っていた。まだ顔つきに学生の名残がある。だが、この一年で驚くほど成長した。治具の設計も、一人で任せられるようになっていた。


「田中か。どうした」


「あの、さっき専務が来て……課長が辞めるって……本当ですか」


その声には、信じたくないという響きがあった。正義は一瞬だけ目を閉じ、そして微笑んだ。


「ああ、本当だ」


「そんな……どうして……」


田中の目が潤んでいた。正義は彼の肩に手を置いた。


「いいか、田中。俺がいなくなっても、お前は大丈夫だ」


「でも、課長に教わったことが、まだ全然——」


「一つだけ覚えておけ」


正義は、田中の目をまっすぐに見た。


「『段取り八分』だ。仕事の八割は、準備で決まる。図面を読み込め。工程を考え抜け。そうすれば、手を動かす前に、もう半分以上は終わっている」


田中が、必死に頷いた。


「それから——」


正義は続けようとして、言葉を飲み込んだ。本当に伝えたいことは、きっと言葉にはならない。十五年間、汗と油にまみれながら、手の感覚で覚えてきたこと。機械の振動の微妙な変化、切削音のわずかな違い、金属の表面を指先でなぞったときの、あの感触。


それは、言葉では伝えられない。


「……まあ、いい。お前なら、自分で見つけられる」


正義はデスクの引き出しから、一本のマイクロメーターを取り出した。


「これは、俺が入社したときに、先輩からもらったものだ。お前にやる」


「課長……」


「大事に使え。そして、いつかお前の後輩に渡してやれ」


田中が、両手でそれを受け取った。その手が、かすかに震えていた。


正義は、もう振り返らなかった。




会社を出たのは、午後七時を過ぎていた。


一月の夜風が、頬を刺すように冷たかった。正義は、駅へ向かう道をゆっくりと歩いていた。いつもなら急ぎ足で通り過ぎるこの道が、今日は妙に長く感じられた。


ポケットの中で、スマートフォンが震えた。画面を見ると、妻からのメッセージだった。


『今日は遅くなる? 夕飯、温めておくね』


正義は、返信の文字を打とうとして、指が止まった。


何と言えばいい。「会社をクビになった」とでも?


四十二歳。住宅ローンはあと二十年。娘は来年、高校受験。


指先が、急に冷たくなった。


『……少し遅くなる。先に食べてて』


それだけ打って、スマートフォンをポケットにしまった。


駅前の交差点に差し掛かったとき、信号が赤に変わった。正義は立ち止まり、ぼんやりと信号機を見上げた。


赤い光が、妙に目に染みた。


——俺は、何のために働いてきたんだろう。


十五年間、この会社に捧げてきた。家族との時間を削り、休日出勤もいとわず、ただ「いい機械を作りたい」という一心で。


それが、こんな形で終わるのか。


信号が青に変わった。正義は、足を踏み出した。


その瞬間だった。


視界の端で、何かが光った。


振り向く間もなかった。耳をつんざくようなクラクションの音。タイヤが路面を削る悲鳴。


そして——衝撃。


正義の体は、宙に浮いた。


時間がスローモーションになった。回転する視界の中で、街灯の光が尾を引いて流れた。アスファルトの匂い。金属が歪む音。どこかで、誰かの悲鳴。


『段取りが、足りなかったな——』


妙に冷静な声が、頭の中で響いた。


そして、意識は闇に沈んだ。



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