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妄想を愛せ  作者: 大山ヒカル


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9/10

優喜

 放心状態のまま、結生はその場に座り込んでいた。

 頬を伝う涙は止まらず、呼吸のたびに胸の奥が軋む。

 両手を見つめる――さっきまで、確かにそこに“温もり”があった。

 その温もりは、消えたはずなのに、指先にはまだ柔らかな残響が残っている気がした。


 分かっていたはずだった。

 愛が消えることも、それが避けられないことも。

 だが、理解と実感は違っていた。

 今、目の前でそれが現実となった瞬間、心の底で何かがぽっきりと折れた。


「桐井、もう無理かもしれない……」


 掠れた声。呼吸の合間にこぼれたその言葉は、まるで壊れた祈りのように小さかった。


「結生……」


 桐井は、立ち尽くしたまま結生を見下ろしていた。

 掛けるべき言葉が見つからない。

 その背中に漂う絶望が、痛いほど分かってしまうからだ。

 だが、桐井にはもう迷いはなかった。

 ――彼女に託されたのだ。

 愛の願いを無駄にすることだけは、絶対に許されない。


 桐井は結生の腕を掴み、強引に立たせた。


「結生、行こう」

「……」

「彼女が待っている」


 その手の力は優しく、それでいて確かな意志が宿っていた。

 結生は掴まれた腕にそっと手を重ねる。

 服の布越しに感じる桐井の傷跡――そこに込められた“痛み”が、彼の心を目覚めさせた。


 結生は静かに桐井の瞳を見る。

 涙の跡を残した顔で、それでも桐井は笑ってみせた。

 その笑みは、強がりでも慰めでもなく、確かな“希望”の色を帯びていた。


「分かった、桐井。行こう」


 短く、それでいて決意のこもった一言。

 その瞬間、公園の街路灯が破裂音を立てて弾け飛んだ。


 パリン、と乾いた音が夜気を裂く。

 破片が散り、暗闇がゆっくりと世界を包み込んでいく。

 結生は反射的に顔を上げ、壊れた街灯を見つめた。


 電球の光は消え、わずかな残光だけが漂う。

 その異様な静寂に、空気が震えているのを感じた。


 桐井は街灯ではなく、結生を見つめたまま静かに言った。


「始まったな。結生、世界が崩壊し始めた、急ごう」


 地鳴りのような音が空の奥から響き渡る。

 雲の切れ間が軋むように震え、遠くの建物の輪郭が歪む。

 結生は唇を強く結び、頷いた。


「ああ」


 その声は、涙で濡れた喉から絞り出されたにもかかわらず、

 どこか、確かな“生”の響きを持っていた。



 二人は走った。

 いつもの通学路を、何度も夢に見たあの道を――。

 空は不穏な色を帯び、遠くで大きなビルが傾き、ゆっくりと崩れ落ちる。

 その衝撃が地面を伝い、足裏に鈍く響いた。


 街の景色が、まるで古いフィルムのように歪んでいく。

 看板の文字が滲み、建物の輪郭がノイズのように崩れていく。

 それでも二人の足は止まらなかった。


 息を切らせながら走り抜ける。

 風が耳を裂き、地面のひび割れが次々と広がっていく。

 それでも、彼らの視線は学校を見据えていた。

 

 やがて、見慣れた校舎が視界に入る。

 だが、そこにあるはずの穏やかさはもうなかった。


「桐井、あれは」

「ああ、俺にも見えてる」


 校門の前には、三つの影が立っていた。

 入口を塞ぐように仁王立ちしているその姿を見て、結生は息をのむ。


「なんでこいつらが……」

 結生の呟きに、低い笑い声が返ってくる。


「よう、一年!借りを返しに来たぜ」


 不良三人組が校門を塞いでいた。

 足元の地面が微かに揺れる。

 遠くの空では、まるでガラスが割れるように世界の断層が光を放っている。


「どうする? 桐井」


 結生が問うと、桐井は薄く笑みを浮かべた。

 その笑顔には、不思議な余裕と覚悟があった。

 校門の鉄の扉は開いている。

 だがその両脇に立つツヨシの子分たちが、完全に通路を塞いでいた。


 桐井は深く息を吸い、体勢を低くする。

 まるでスタートラインに立つ陸上選手のように。


「俺の後ろにピッタリ付いて来い」


 その唐突な指示に、結生は一瞬戸惑った。

「え、桐井?」


 だが、次の瞬間――。


 桐井は叫んだ。

「普通に押し通るっ!」


 その声が空気を裂く。

 桐井の身体が弾丸のように飛び出した。

 すれ違いざま、風圧でツヨシたちの制服がはためく。


 何が起こったのか、誰も理解できない。

 一瞬の出来事。

 桐井の残像だけが視界に焼き付いている。


 結生は呆然としたが、すぐに我に返ってその後を追った。

 背後で怒号が上がる。

「おい、待てコラァ!」


 しかし、もう遅い。

 結生たちは門を抜け、学校の敷地へ駆け込んでいた。

 振り返ると、不良たちの姿は徐々に遠ざかっていく。

 そして、その背景の空がひび割れたように揺れていた。




 屋上にたどり着くと、夜風が二人の頬を打った。

 その中央に、ひとつの小さな人影が月明かりに照らされていた。

 白く冷たい光の中で、優喜はぺたりと座り込み、遠く崩れていく街をただ見つめていた。

 その瞳は焦点を失い、崩壊していく世界を――まるで他人事のように見送っていた。


 結生は息を整え、ゆっくりと歩み寄る。

 靴音が、ひどく静かな屋上に響いた。


「優喜先輩……」


 その声に、優喜の肩が小さく震える。

 そして、ゆっくりと結生の方へ振り向いた。

 月光に照らされた頬には、涙の筋が光っていた。


「なんでだ……どうしてだ……」


 その声は震え、空気を掴むように宙を漂う。

 優喜は唇を噛み、結生と桐井を見つめながら言葉を絞り出した。


「愛が……なんでだ……」


 嗚咽とともに膝に手をつき、

 次の瞬間、床を叩きつけるように拳を打ちつけた。


「どうしてだ!なんでだ!愛も!桐井も!結生も!どうしてだっ!」


 叫びが夜空を裂く。

 その声は泣き声でもあり、怒号でもあり、祈りでもあった。

 風が彼女の髪を乱し、世界の崩壊音と混ざり合う。


 結生はただ立ち尽くした。

 初めて見る優喜の姿に、言葉を失っていた。

 いつも強く、冷静だった彼女が――

 今は、子供のように泣き叫んでいる。


 対照的に、桐井は静かだった。

 その目には驚きも恐れもなく、ただ深い理解の色があった。

 屋上に来る途中、あの不良たちの出現で桐井はすでに気づいていた。

 優喜の行動の裏にあるものを――そして今、その確信が形を取った。


 桐井は静かに一歩進み出る。

 彼女の前で膝をつき、目線を合わせた。


「優喜先輩、ずっと俺たちとこの世界を守ってくれてたんだな…」


 優喜の顎が震えた。

 そして溢れ出す涙を止められず、嗚咽の合間に言葉を吐き出す。


「わたしはっ!愛を、愛を死なせたくなかったっ!」

 拳が桐井の胸に打ち付けられる。

 その衝撃よりも、優喜の手の震えの方が痛かった。


「お前もだっ、桐井!お前も守りたかった!」


 桐井は何も言わず、その拳を受け止めた。

 優喜の声が震えながらも響き渡る。

 それは懺悔ではなく、純粋な感情の爆発だった。


「お前たちは家族だっ!みんな大切な家族だっ!守りたいと思うのは当たり前だろ!」


 優喜は人格であり、この世界そのものだった。

 結生を守りたい、その一心で優喜は動き続けていた。


 愛と母親が消えた時、結生の心を守る為に結生の思考を停滞させた。

 愛と母親の持つ同じような特性が、まるでお互いを対消滅するように存在が消えてしまった。


 そんな目の前の現象に辻褄を合わせるように結生に回答を与える。

 桐井の存在が消えたと時も同じように優喜は動いていた。


 ずっと裏から結生の居場所であるこの世界を必死に守り続けていた。


 自分の胸で泣き叫ぶ優喜を、桐井が優しく抱きしめる。

「俺は気付けなかった、気付いてやれなかった。

 ずっと影から俺たちを守ろうとしていたのは優喜先輩だったのか」


 そして強く目を閉じると下唇を噛み締めた。

「本当にすまない……」


 優喜は桐井の胸で嗚咽を漏らす。

 二人をぎゅっと包むその姿に、結生は自然と近づき、そっと二人を抱きしめた。


「優喜先輩、ごめん。……ありがとう」


 そんな二人の言葉に、より大きな声で優喜は泣き叫ぶ。

 それはまるで子供の様に。


 桐井は抱きしめる力を緩め、優喜をそっと離した。

 結生と桐井は、優喜を優しく見つめる。


「なあ、優喜先輩。俺は結生を救いたい。こいつを現実に送ってやりたいんだ」


 穏やかに語る桐井を、優喜は不安げな瞳で見上げた。

 彼女の髪が風に揺れ、月の残光がその頬を淡く照らす。


「でも、それだと桐井が……」

「大丈夫だ。俺は消えるのは怖くない。俺たちは一つに戻るだけなんだ」


 震える優喜の手を、桐井の掌が包み込む。

 その温もりが、ほんのわずかな安心を与えていた。


「優喜先輩は、自分が消えるのが怖いか?」


 短く息を吸い、優喜は毅然と顔を上げた。

「わたしはどうだっていいんだっ!わたしはお前たちが……」


 その言葉を遮るように、桐井は優喜の手を握りしめる。

 そして、ゆっくりと結生の顔を見つめた。

 優喜もまた、その視線につられて結生の方を向く。


「俺も優喜先輩と同じだ。自分が消えるのは怖くない」


 優喜は少し息を詰まらせ、苦笑した。

「そうだな……お前は本当にやさしい奴だ」


 結生は自然に二人の手を包み込むように握り、微笑んだ。

「みんな、俺の家族だったんだな」


 三人はしばらくのあいだ、何も言わずに見つめ合った。

 どこからともなく風が吹き抜け、夜明けの気配を運んでくる。


 桐井は優喜の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。

 気づけば、優喜の背後には朝日が昇り始めていた。

 空の端が白み、金色の光が屋上を染めていく。


 優喜はその光を背に受けながら、二人に満面の笑みを向けた。

「桐井、頼んだ」

「ああ、分かってる」

「結生、いままで色々すまなかった」

「なに言ってるんだ。俺は優喜先輩に感謝の気持ちしか無いぞ」


 その言葉に、優喜は小さく笑った。

「あはは、そうか。ありがとう」


 朝日が強くなり、逆光の中で優喜の輪郭が淡く溶けていく。

 光は彼女の髪を透かし、白く優しい輝きへと変わっていく。


「みんな大好きだ!」


 その笑顔を最後に、優喜の姿は光となって消えた。

 残された風だけが、彼女の言葉を運ぶように屋上を通り抜けた。







 少しの間、結生と桐井は黙って空を見上げていた。

 静寂の中に、世界の残響だけが微かに響く。

 どうにもならない感情は言葉にはならず、二人はただ、その沈黙に身を委ねていた。

 時間だけが、胸の痛みをゆっくりと消化していく。


 やがて、桐井がゆっくりと結生に向き直る。

 困ったように笑いながら、それでもどこか清々しい表情をしていた。


「これで、俺の役目も果たせそうだ」


「桐井……」


 結生の呼びかけに、桐井は小さく息を吐き、穏やかな声で言葉を継いだ。


「愛、優喜先輩、結生。俺にとってみんなと過ごした時間は、幸せだったんだと思う」

「ああ」

「現実がどうあれ、俺たちみんな最高だったよな」

「ああ」


 桐井はふっと笑う。

 その笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりも穏やかだった。


「はぁー、本当によかったー!結生を現実に返せる」


 思わず声に出して、桐井は両膝に手をつく。

 大きく息を吐きながら、肩の力が抜けていく。


「本当に、俺。やり遂げたんだな……」


 その呟きは、風に溶けていった。

 しばらくの沈黙の後、桐井は背筋を伸ばし、結生を真っすぐに見つめた。


「なあ結生、最後に俺の名前を呼んでくれないか?」

「名前?」

「そう、俺の名前は――桐井忠助(キリイ タダスケ)


 そう言うと、桐井はゆっくりと結生に背を向けた。

 右手を軽く上げ、振り返らずに手を振る。


忠助(タダスケ)……」


 結生がその名を呼ぶと、桐井は右手の親指を高く突き上げた。

 背中越しに笑いながら、最後の言葉を残す。


「やっぱ、お前は俺の最高の親友だ」


 その瞬間、桐井の輪郭が淡い光に包まれた。

 光は次第に強くなり、彼の姿を覆っていく。

 眩しさに結生は思わず目を細めた。


 ――世界が、音もなく光に溶けていく。


 足元の感触が消え、空気が柔らかく震えた。

 桐井の姿も、声も、全てが光の中に吸い込まれていく。


 世界は、静かに、やさしく、光に包まれた。

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