愛
気持ちのいい朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
柔らかな光に瞼を撫でられ、結生はゆっくりと目を覚ます。
寝癖を直し、私服に着替える。鏡の前に立つと、無意識に髪を整えた。
鏡越しに自分と目が合う。
そして、少しだけ口角を上げてみた。
「よし!」
自分を鼓舞するように声を出すと、隣の部屋へと向かった。
ドアの前で立ち止まり、一度息を吐く。
咳払いをして、喉の奥にこもる緊張を飲み込む。
そして、静かにノックをした。
――コンコン。
「愛、起きてるか?」
すぐに、明るい声が返ってきた。
「うん、いま開けるね」
ドアが開くと、白いワンピース姿の愛が立っていた。
柔らかな布地が朝の光を受け、ほのかに透けて見える。
髪を軽く結び、ほほ笑む彼女の姿は、まるで春の風景そのものだった。
「そ、その服。似合ってるな」
「そうかな?えへへ、ありがとう」
不器用に褒めながらも、胸の奥があたたかくなる。
結生は少し目を逸らし、言葉を探すように続けた。
「その、今日。よかったら一緒に出かけないか?」
「うん、一緒にお出かけか。うれしいな」
満面の笑み。
その笑顔を見ていると、結生は思わず息を忘れそうになる。
「どこか行きたいところはあるか?」
「結生と一緒ならどこでもいいよ」
「どこでもって言われると難しいな」
「だったら、一緒にお買い物に行きたい」
「そんなのでいいのか?」
「うん」
「それじゃあ下で待ってるから、準備できたら声かけてくれ」
「わかった!」
元気よく返事をすると、愛はドアを閉めた。
その音を背に、結生は大きく息を吐く。
「ふぅー……よし」
リビングに入ると、トーストの焼ける香ばしい匂いとテレビの音が混ざり合っていた。
母親がソファに腰を下ろし、ニュース番組を眺めながらパンをかじっている。
彼女の視線が結生に向けられる。
次の瞬間、からかうような笑みが浮かんだ。
「あら、なに。どうしたの、朝早くからそんなオシャレしちゃって」
結生は苦笑しながら椅子に座る。
「べつにオシャレとかしてないけど」
「だってその髪の毛とか、アイドルみたいにしちゃって」
――この絡み、面倒くさいなぁ……。
「べつに、いつもと変わらないし」
「そう?カッコイイじゃない」
母親の言葉に苦笑いを浮かべながら、結生はトーストの欠片を指先でつついた。
そのとき、廊下から軽やかな足音が響いてくる。
まるで風の音が近づいてくるように――。
ドアが開き、愛がリビングに入ってきた。
「結生、準備できたよ」
その瞬間、空気が変わった。
いつもの学生服とはまるで違う印象だった。
白いワンピースが柔らかな光を反射し、襟には小さなフリルがついている。
それは幼さを感じさせるどころか、愛の清らかさをいっそう引き立てていた。
髪は後ろでひとつに結ばれ、首筋をなぞるように細い髪が数本こぼれている。
その仕草一つひとつが自然で、息を呑むほど綺麗だった。
いつもは無邪気な少女に見えた彼女が、その日だけは少し大人びて見えた。
結生は言葉を失い、ただその姿を見つめた。
何かを言おうとして、喉の奥で声が詰まる。
そんな二人の様子を見て、母親は口元を押さえきれずに笑みをこぼした。
「あら、あらあら。あらあらあらあら。あらあらあら」
まるで芝居がかった台詞のように繰り返す声。
リビングの空気が一気に照れくさくなる。
結生は顔を赤くしながら立ち上がると、逃げるように愛の手を引いた。
愛は驚きつつも嬉しそうに微笑んで、結生の後をついていく。
「あれ、ちょっと結生?」
母親の呼びかけを背中で聞きながら、二人は玄関を出た。
ドアが閉まる音の直後、明るい声が追いかけてくる。
「いってらっしゃい、楽しんでくるのよ!」
「はーい!おばさん、行ってきます!」
外の空気はひんやりとしていた。
朝の光が白く街を包み、どこか遠い世界のように静かだった。
家を出てすぐ、二人の手が自然に触れ合う。
そのまま、ためらいもなく指が絡んだ。
愛の手は温かく、小さくて柔らかい。
結生はその温もりを確かめるように指を軽く握った。
自分が生きているという実感が、ようやく少しだけ戻ってくる。
「どこか行きたいお店とかあるのか?」
「うーん」
「とりあえず繁華街まで行ってみるか」
「うん!」
並んで歩き出す二人の影が、朝の石畳に長く伸びていく。
鳥の声、車の音、遠くの笑い声。
どの音も、今日という一日の始まりを祝福しているようだった。
石畳の歩道がどこまでも続いていた。
両側には雑貨屋やカフェ、ブティックが軒を連ね、通りには焼き菓子の甘い香りが漂っている。
休日の街は賑やかで、家族連れやカップルの笑い声が絶えなかった。
そんな喧騒の中で、結生と愛は自然と手を繋いで歩いていた。
時折すれ違う人の肩がかすめても、不思議と二人の歩調は乱れない。
ただ指先の温もりを確かめるように、互いの存在を感じながら前へ進む。
「わあ、あそこ見たい」
愛が指さした先には、ガラス張りのアクセサリーショップがあった。
陽の光を受けて、ショーウィンドウの中の装飾品たちが宝石のように瞬いている。
愛は子供のような笑顔を浮かべると、結生の手をぐいと引いた。
一歩店内に入ると、冷たい空気と香水の甘い香りが迎えてくれた。
壁一面に吊るされたピアスやネックレスが、光を反射してきらめいている。
愛は目を輝かせながら一つひとつ覗き込んだ。
「へぇー、かわいいのがいっぱいあるね」
「確かに、いろんなのがあるんだな」
結生も並んだ棚を眺めながら、そんな彼女の横顔に目を向ける。
愛の瞳にはガラス越しの光が映り込んでいて、まるで星を閉じ込めたようだった。
ふと、彼女の視線がある一点で止まる。
小さなブレスレット。シンプルなデザインの中に、ひとつだけハートの飾りがついている。
結生はその視線を追い、そっと言った。
「それ、愛に似合うな」
「えへへ、そうかな?」
声のトーンが少しだけ弾む。
愛は頬を染めながら、指先でそっとブレスレットを触れた。
結生はそのまま商品を手に取り、迷いなくレジへ向かう。
会計を済ませて戻ると、袋を差し出した。
「記念にプレゼントするよ」
そして愛に手渡した。
「えええ!いいの?」
「ああ、もちろん」
「えへへ、ありがとう結生」
照れながらも、愛の笑顔はまぶしかった。
その笑みを見ているだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「つけてみたら?」
「いいかな?」
愛は丁寧に袋を開け、ブレスレットを取り出す。
細いシルバーのチェーンが光を受けて揺れ、小さなハートがその中心で輝いた。
彼女は腕にそれをそっとつけ、手首を掲げてみせる。
太陽の光が窓から差し込み、ブレスレットの金属がきらりと反射した。
その光が愛の頬に当たり、一瞬だけ、天使の輪のように見えた。
「結生、ありがとう」
「お、おう」
笑顔の愛に、結生は一瞬息を呑んだ。
喉が乾いて、言葉が出ない。
それでも、どうにか絞り出すように返事をする。
それから二人は、街をゆっくりと巡った。
ビルの上階にある都市型の小さな水族館では、青白い光に包まれながら、ガラス越しに泳ぐ魚たちを眺めた。
水槽の中でゆらめく光が、愛の頬に反射して、まるで波の模様のように踊っている。
その横顔を見ていると、呼吸を忘れそうになっる。
次に立ち寄ったゲームセンターでは、色とりどりのネオンが絶え間なく点滅し、電子音が反響していた。
明るすぎる照明の中、愛はクレーンゲームの前に立ち、夢中でレバーを握っている。
「あと少し! あっ、惜しいっ!」
透明なケースの中で、ぬいぐるみが爪に引っかかっては、ゆっくりと落ちていく。
そのたびに愛は両手を合わせて小さく悔しがった。
結生はそんな姿を見て、思わず笑ってしまう。
「……そんなに欲しいのか?」
「うん、これ、結生に似てるんだもん!」
愛が指差したのは、眠たそうな顔をした小さなぬいぐるみだった。
たれ目で、どこか気の抜けた顔をしている。
「絶対、似てない」
「そうかなぁ」
愛が身をかがめて覗き込んでくる。
ほんの数センチの距離まで近づいた顔。
その瞳の中に自分の姿が映っているのが分かる。
心臓の鼓動が早くなり、耳の奥でその音が響く。
自分でも分かるほど、顔が熱くなっていた。
結生は慌てて視線を逸らし、無理に笑みを作る。
「ほら、次行こう」
「待ってよ、結生~」
愛の明るい声が背中に追いかけてくる。
その声が妙にくすぐったくて、結生はわざと歩幅を速めた。
小走りで追いかけてくる愛の足音が、軽やかに響く。
昼食は商店街の奥にあるドライカレー専門店。
扉を開けた瞬間、香ばしいスパイスの香りが二人を包み込む。
店内は落ち着いた照明で、木のテーブルにはスパイスの瓶が並べられていた。
料理が運ばれてくると、皿の上から立ちのぼる湯気がほんのりと黄色く照らされる。
スプーンを手に取り、愛が一口食べると、口を尖らせた。
「少し辛いかも」
「どれ?」
結生は自分の皿にまだ口をつけていないスプーンを手に取る。
愛のカレー皿の中央に置かれた卵の黄身をそっと割ると、濃い金色が流れ出した。
「黄身を混ぜて食べると、辛さが弱まるかも」
「ありがとう、結生」
愛が嬉しそうに微笑む。
スプーンでそっと混ぜながら、ほんの少し赤くなった頬が可愛らしかった。
結生はそんな彼女を見つめたまま、店員を呼び止める。
「すみません、ラッシーひとつ下さい」
「はい、お持ちしますね」
注文を終えると、結生は自然に愛の方へ微笑みかけた。
その笑顔は、どこか不器用で、けれど確かに優しかった。
愛は小さくうなずき、目を細めて笑う。
スパイスの香りの中、二人の間に流れる空気は、ほんのりと甘かった。
昼下がりの太陽が傾き始めた頃、大きな映画館の前に出た。
その前には円形の広場があり、中央で噴水が静かに水を弾いていた。
周囲の椅子には買い物袋を抱えた人々や、肩を寄せ合う恋人たちの姿がある。
二人もその一角に腰を下ろした。
水の音が、都会のざわめきを柔らかく包み込む。
風に乗って、噴水の霧が頬をくすぐった。
愛はベンチに座りながら、両手で紙袋を抱き、ぼんやりと噴水を見つめている。
結生も同じ方向を見つめながら、胸の奥で言葉を探していた。
そして、ふと、口をついて言葉が漏れた。
「愛、いつもありがとうな」
愛は瞬きをして、ゆっくりと結生の方に顔を向けた。
穏やかな風が二人の間を通り抜ける。
「どうしたの、急に」
「いや、愛が一緒に居てくれると、ほんと楽しいよ」
そう言う結生の声には、照れと、ほんの少しの震えが混じっていた。
愛は柔らかく微笑む。
「えへへ、今日はなんだか結生がいっぱい褒めてくれるね」
「本当にそう思ってるんだ」
愛の笑顔が、午後の日差しの中で揺れる。
噴水の水しぶきが光を散らし、二人の足元に虹を作った。
――桐井の告白を聞いてから、結生の世界は変わっていた。
みんなの存在が、自分の命よりも大切だと、心の底から思えた。
それは、言葉ではなく“感覚”として確かにあった。
結生は立ち上がると、そっと愛に手を差し出した。
「愛、行きたい場所があるんだけど。いいかな?」
「うん!」
愛が立ち上がり、結生の手を握る。
二人の影が、噴水の水面に重なり、ひとつになって揺れていた。
二人は繁華街を抜け、住宅地の奥へと歩いていった。
夕方の風は少し冷たく、昼間の熱気を静かに押し流していく。
やがて、人気の少ない小さな公園にたどり着いた。
ブランコと鉄棒しかない、小さな公園。
公園の片隅に置かれた街灯が、まだ灯っていない。
空はオレンジ色に染まり、遠くの屋根の向こうでは太陽がゆっくりと沈もうとしていた。
ブランコの周りを囲む低い鉄の柵。
二人はその柵に並んで腰を掛けた。
金属の冷たさがジンと太ももに伝わる。
風が、どこか懐かしい匂いを運んできた。
「愛……」
「なあに?」
結生は立ち上がり、愛に向き直る。
その言葉は想像していたよりも自然に、容易く声に出ていた。
「俺、愛のことが大好きだ」
夕焼けの光が、愛の瞳に映り込む。
その瞳の奥で、小さく笑みが揺れた。
愛は立ち上がると、優しい笑みを向けた。
「私も結生のこと、大好きだよ」
二人は自然とお互いの身体を抱きしめた。
細い腕の中に、温もりが確かにあった。
風も音も止まり、世界が二人だけになったようだった。
――その様子を、少し離れた場所で桐井が見ていた。
夕日に染まった空の下、桐井は拳を強く握りしめて微笑む。
「よっし……お前なら出来ると思ってた」
結生の背中が、橙色の光を浴びている。
けれど、その背中が小刻みに震えていることに、桐井はすぐに気付いた。
「結生……?」
静寂の中、嗚咽が聞こえる。
結生の肩が震え、愛の肩口に顔を埋めたまま、泣いていた。
「どうした、結生……」
桐井はゆっくりと近づきながら声を掛ける。
結生の喉から、押し殺したような声が漏れた。
「ごめんな、愛。……俺が、愛を創ったんだ……」
結生の声は震えていた。
その背中を、愛がそっと撫でる。掌から伝わる温もりが、涙の熱を静かに受け止めていく。
「もういいんだよ、大丈夫だからね」
その声は、まるで子守唄のように柔らかかった。
言葉に含まれた優しさが、結生の胸の奥に滲み込む。
桐井は二人の背を見つめながら、恐る恐る結生の肩に手を置いた。
「結生、どうした?」
結生はゆっくりと顔を上げた。
涙が頬を伝い、目の奥が赤く染まっている。
「桐井、違ったんだ。最初から間違ってたんだ……」
結生の声は、嗚咽の合間に掠れていた。
桐井は立ち尽くす。
何かを言おうと口を開くが、声が出なかった。
その時、愛が両腕を伸ばし、結生と桐井を包み込むように抱きしめた。
三人の影が夕陽の中で一つに溶ける。
桐井はその瞬間、理解した。
結生の理想の女性だったはずの愛――
その存在理由を、ずっと“恋愛”だと思い込んでいた自分の過ちを。
桐井の胸の奥で、長く固まっていた何かが静かに解けていく。
自分はずっと誤解していた。結生の“理想の女性”を恋愛の象徴としてしか見ていなかった。
けれど、いま目の前にいるこの少女――彼女は“恋”ではなく、“母性”そのものだった。
結生が心の奥で渇望していた「優しく抱きしめてくれる存在」。
それが、この“愛”という人格だったのだ。
「これは慈愛……母性愛か……」
桐井の唇から、思わず言葉が漏れた。
その瞬間、愛は静かに笑みを浮かべ、結生を抱く腕にもう一度力を込めた。
「もういいんだよ。分かってるから」
「でも、愛……」
「大丈夫。私が傷つけたりしないのは分かるよね」
「ああ……でも、ごめん、愛……」
「ほら、謝っちゃダメ。結生は何も悪くないでしょ」
「でも……愛が……」
結生の声が震える。
その震えを包み込むように、愛はそっと微笑んだ。
そして桐井の方を向き、まっすぐに目を合わせた。
「桐井くん、あとはお願いね」
たった一言で、すべてを託されたと分かった。
桐井は唇を噛み締め、堪えていた感情が決壊する。
それでも声を詰まらせながら答えた。
「うっ……わかった、まかせろ……」
愛はその言葉を聞くと、まるで安心したように微笑んだ。
「うん!」
その瞬間、愛の手首のブレスレットが淡く光を放った。
小さな光はゆっくりと彼女の腕を伝い、身体全体を包み込んでいく。
柔らかな光は風に溶け、周囲の空気まで暖かく照らした。
愛は幸福感に包まれながら、以前の記憶が蘇る。
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愛は深いソファーに腰を下ろし、向かいの女性を静かに見つめていた。
部屋は静かで、薄いカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいる。
壁際の照明が穏やかに灯り、外の音はほとんど聞こえない。
その女性は落ち着いた声で尋ねた。
「本当にいいのね?」
愛は一瞬だけ視線を落とし、そして小さく頷いた。
「はい。結生は強い男の子ですから。きっと大丈夫です」
女性は少しだけ目を細め、頷く。
「そう……分かったわ」
愛は膝の上で手を重ねながら、静かに言葉を続けた。
「ひとつだけお願いがあります」
「ええ、もちろん聞くわ」
「私はきっと見届けられない。だから、あとはあなたに託してもいいですか?」
その声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
女性はわずかに息をのむと、口元に微笑を浮かべる。
「分かったわ。本当にあなたって人は……」
その言葉の続きを飲み込み、静寂が二人の間に落ちた。
秒針の音が小さく響く。
愛は微笑んだまま、そっと瞳を閉じる。
まるで、すべてを受け入れるように。
それは誰かの未来に託す者の、優しい微笑だった。
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光が風に溶けていく。
空気がやわらかく震え、耳の奥で鈴のような音が鳴った気がした。
自分の身体が崩れていく感覚の中で、愛は声を張り上げた。
「大好きだよ、結生!」
その言葉が空に響いた瞬間、光は一気に弾けて消えた。
まるで夕日の残光を吸い込むように、世界から彼女の姿が静かに溶けていった。
残されたのは、穏やかな風と、夜のはじまりを告げる街の音だけ。
沈んだ太陽の代わりに、公園の街路灯がぽつりと灯る。
その頼りない明かりが、結生と桐井を包み込んでいた。




