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妄想を愛せ  作者: 大山ヒカル


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7/10

現実に戻るんだ

 苛立つ桐井を前に、結生はただ立ち尽くしていた。

 そのとき、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。


「結生!」


 振り向くと愛が手を振って呼んでいた。

「こんなところに居たんだ。もうすぐ授業始まっちゃうよ!」


 愛は駆け寄ると、ためらいもなく結生の腕に手を絡めた。

 突然の接触に、結生は軽く息を呑む。


 考え込んでいた桐井がようやく二人に気づいた。

 腕を組んで並ぶ姿を見た瞬間、それまでの険しい表情が一変し、口元に笑みが浮かぶ。


「ほほう」


 その反応に気づいた愛は、いたずらっぽく笑うと、空いた方の腕で桐井の腕を取った。

「ほら桐井くんも行くよ」


「お、おい。ちょっと――」


 腕を引かれ、桐井は慌ててつんのめる。

 そんな様子を見て、結生と愛は思わず視線を合わせ、同時に苦笑した。


 そのまま結生と桐井は仲良く教室まで連行された。





 授業が始まっても、結生の意識は教室には無かった。

 黒板の文字が見えても、言葉が頭に入ってこない。

 今朝の桐井のあの焦った表情――それが、どうしても脳裏から離れなかった。


 桐井が取り乱す姿を見たのは初めてだった。

 そして、その原因が羽村優喜であることは、ほぼ間違いない。


 桐井はこれまで、この世界のほとんどを把握しているように語っていた。

 それなのに、突然「自分の知らない存在」が現れた。

 その動揺が、あの焦りとなって表に出ていたのだろう。


 結生はノートを開くと、思考を整理するようにペンを走らせた。

 文字を並べながら、自分なりに現状を把握しようと試みる。


 まず――優喜の目的。

 表向きは“結生とデートをすること”だと言っていた。

 だが、それで彼女が得られるものは何なのか?


 考えられるのはひとつ。

 結生と愛の関係を邪魔すること。

 つまり、それは結生が現実へ帰れなくなるということになる。


 結生はノートの余白に言葉を並べた。


「人格、舞台装置、世界、意思…」


 呟いた言葉を目で追いながら、頭の中で線を引く。

 人格が人格の邪魔をする理由とは?

 もし優喜が、結生の欲望から生まれた存在だとしたら――

 その“欲望”とは一体何なのか。


 どれだけ考えても答えは出なかった。

 そして、なぜ答えが出ないのかを考えたとき、

 ふと、結生の中でひとつの発想が閃いた。




 授業が終わると、結生は桐井の腕を掴んで廊下へと引き出した。

 そして、先ほど頭に浮かんだ疑問を切り出す。


「なあ、桐井。そもそもこの世界って、本当に俺の妄想で出来上がったものなのか?」


 桐井なら、納得のいく答えをくれる――そう思っていた。

 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。


「そんなことを知ってどうするんだ?」


「え?」


 あまりに突き放すような調子に、結生は思考を止める。


「結生は現実に戻る努力をすればいい」

「ちょっと待て」

「この世界が何なのかなんて、知る必要もないだろ」

「いや、でも――」

「とにかく、愛の存在理由を解消することだけ考えろ」

「ああ……」


―なんだこいつ、機嫌悪いのか?


 桐井の声は冷たく、どこか苛立ちを含んでいた。

 いつもの穏やかな調子とは違う。

 結生は俯きながら、彼の横顔を盗み見る。


 その瞬間。

 背中に、ふわりと柔らかい衝撃が走った。


「どーん!」


 振り返ると、弁当の包みを持った愛が、満面の笑みで立っていた。

 体当たりの感触がまだ背中に残っている。

 胸元が目に入った途端、結生の頬が真っ赤に染まった。


「あ、愛……」

「ほら、お昼だよ~」


 愛はそんな結生の動揺を気にする様子もなく、

 春の陽だまりのような笑顔を浮かべる。


 その背後から、優喜がひょいと顔をのぞかせた。


「結生、早速行こうか」

「ああ、そうだな」




 四人で屋上に集まると、風がやわらかく吹き抜けた。

 レジャーシートを広げ、そこに腰を下ろす。

 結生の両隣には愛と優喜が座り、正面には桐井が陣取った。


 最近、愛は結生の母親を手伝って一緒に料理をしている。

 本人曰く、「お世話になってるんだから、お手伝いするのは当たり前なことだよ」と、いつもの笑顔で語っていた。

 今日の弁当も、そんな二人の合作だった。


 一方の優喜は、おせち料理を思わせる豪華な重箱を広げている。

 三段重ねの蓋が開くたびに、彩り豊かな香りがふわりと立ち上る。

 どの料理も手の込んだ和食ばかりで、屋上の片隅がまるで料亭のようだった。


「ほら結生、わたしが腕によりをかけた弁当だ。いっぱい食べるんだぞ」


 得意げな表情を浮かべながら、優喜は筍の煮物を箸でつまみ、結生の口元に差し出す。


「い、いや自分で……」


 いつもなら桐井が止めに入りそうな場面だ。

 だが、彼はというと、いかにも見た目が甘そうなドーナツを無言で食べている。

 その無防備な横顔に、結生は思わず視線を向けたが、桐井は気づく様子もない。


「ほら、ちゃんと味見はしてある。美味しいから、口を開けろ」

 優喜の強引さに根負けして、結生は言われるがまま筍を口にした。

 ゆっくりと咀嚼し、喉を通した瞬間、驚きが走る。


――これは……。


「うまい!」


 思わず声が弾んだ。

 その反応に、優喜は満足げに微笑む。


「そうだろう、そうだろう。沢山あるから遠慮するな」


 優喜が次の料理を選んでいると、逆方向から愛の箸が伸びてきた。

 唐揚げをつまみ、結生の口元に差し出す。


「はい、あ〜ん」


 その言葉につられて、つい口が開いてしまい唐揚げを頬張る。


「うん、おいしい!」

「へへへ、衣に紅生姜が入ってるんだよ」


 その説明に、結生は思わず笑みを返す。

 笑い声と風の音が混ざり合い、空の青さが一層まぶしく感じられた。


 温かい笑い声が風に溶けていく。

 あまりにも至福な時間に、結生の胸にあった罪悪感はいつの間にか消え去っていた。


「ほら、桐井くんも唐揚げどうぞ。ドーナツだけだと栄養が偏っちゃうよ」


 いつの間にか、愛が紙皿におかずを取り分けていた。

 突然名前を呼ばれ、桐井は一瞬驚いたように顔を上げる。だがすぐに、自然な動作で紙皿と割り箸を受け取った。


「ああ、ありがとう」


 その声には、ほんの少し照れのような響きが混じっていた。


「ほら桐井、わたしの弁当も食べろ。さすがにこの量を全て結生の腹に収めるのは無理がある」

「俺の分もあるのか?」

「当たり前だ、四人で昼食を食べるんだ」


 優喜の言葉に、桐井は目を丸くした。

 だが、次の瞬間には静かに笑い、箸を伸ばす。


「うん、うまいな……」


 その声は小さいが、確かな温かさを帯びていた。

 結生はそんな桐井の横顔をじっと見つめる。


――こいつ、甘いもの以外も食べるんだな。


 ふと浮かんだそんな他愛ない思考に、自分でも小さく笑ってしまう。

 近くの割り箸を手に取り、自分でも食べようとしたその瞬間――


「まて結生、わたしが取ってやるから勝手に動くな」

「はい、次は卵焼きだよ~」


 二人は交互に結生の口におかずを運び始める。

 結生は観念して大人しく口を開けた。


 ふたりの笑い声、弁当の香り。

 世界がひとつの午後に溶けていくようだった。


 結局、最後まで――

 結生の動かせたのは、口だけだった。




 帰宅すると、結生はそのままベッドに倒れ込んだ。

 天井を見つめながら、今日の桐井の言葉が頭の奥で反響している。

 ――考えるな、と言われても無理な話だ。


 一度、呼吸を整える。

 思考をリセットするように、深く息を吸って吐いた。

 そして、天井に向かってゆっくりと独り言をこぼす。


「俺の体は実際には現実にあるんだよな。母さんは十年前に死んでいて、父さんは現実に居るってことだよな」


 言葉にしてみた途端、胸の奥に違和感が生まれた。

 自分の声がどこか他人のもののように響く。


「本当に、そうなのか?」


 結生は眉をひそめる。

「最初に妄想を始めたのが、確か愛だったはず……そのときは、現実と妄想の区別はちゃんとついていた」


 脳裏に、愛の笑顔が浮かぶ。

 だがその輪郭が、ゆっくりと滲んでいく。


「そして桐井が転校してきて……いや、あの桐井は確か俺の妄想。

 ちょっと待て。桐井は事故で死んで……だから妄想して……

 いや、桐井は事故で死んでない。

 この世界が辻褄を合わせるように、事実を変えてるんだ。俺がスムーズに生きられるように」


 結生の手が無意識にシーツを掴む。

 頭の中で、記憶が幾つもの線となって絡まり、そして千切れていく。


 次の瞬間、結生ははっと息を呑んだ。

 体を起こし、ベッドの上で胡座をかく。


「……いや、ちょっと待て。そもそも、始まりはいつだ?」


 視線が定まらない。

 呼吸が速くなり、眼球がせわしなく動き回る。


「まさか……」


 その言葉を吐き捨てると同時に、結生は立ち上がった。

 勢いのまま部屋のドアを開け、夜風の差し込む廊下へ飛び出す。


 足音が、家の静けさを打ち砕いた。





 夕暮れの屋上に、桐井が立っていた。

 燃えるような橙色の光が、手すりに寄りかかるその姿を縁取っている。

 結生の中には、言葉にできない確信があった。――ここに来れば、桐井に会える。


「よう、桐井」


 桐井はわずかに顔を上げ、夕日を背にしたまま結生を見つめた。

「どうした?」

「桐井、お前に確認しないといけないことがある」

「なんだ、またこの世界のことか?やめておけ。意味なんて無いし、考えるだけ無駄だ」


 その拒絶の言葉にも、結生は足を止めない。

 ゆっくりと桐井に歩み寄る。靴底がコンクリートをこすり、乾いた音が響く。


「気付いたことが一つあるんだ」

「気付いたこと?」


 結生は俯き、深く息を吐いた。

 そして顔を上げる。夕日の光が瞳に反射し、真っ直ぐに桐井を射抜く。


「俺は人間じゃないってことに気付いたんだ」


 その言葉に、桐井の眉がわずかに動いた。

「はぁ?お前何言ってるんだ」


「そして――この世界を創ったのはお前だ、桐井」


「おいおい、言っただろ。結生が自分で創った世界から抜け出せなくなって、俺が助けに来たって。忘れたのか?」


 結生はさらに一歩踏み出す。

 夕陽の光がふたりの間に伸び、長い影を絡ませた。


「何を企んでる?」

「本当にどうしちゃったんだよ、結生」


 沈黙。

 屋上の風が、ふたりの間をすり抜ける。


「よく考えたらこの結論しか出なかった。思い返せば桐井の思い通りにこの世界は動いている」

「だったら羽村優喜はどうなんだ?俺はあいつを把握していなかったんだぞ」

「まんまと騙されたよ。あの演技は素晴らしかった。不良から助けてくれた時なんて目じゃないくらいにな」

「演技なはずないだろ」


 桐井の声は、いつもより低かった。

 だが結生の耳には、それがまるで「逃げの言葉」に聞こえてしまう。


 否定された瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 結生は息を荒げ、一歩前へ踏み出す。


「そして! 決定的なことに――」


 声を上げたその表情には、怒りよりも悲しみが滲んでいた。

 それに気付いた桐井の顔に、かすかな動揺が走った。


「俺は現実を生きた記憶が無いんだよ」

「……」

「俺の記憶の始まりは、登校途中に愛の妄想をしているところからだ」

「……」

「お前は俺の記憶を改竄して、俺を思い通りに動かした。

 記憶が塗り替えられる度に、それを受け入れて……そして俺はお前の言う言葉を信じた」


 空気が、音を失ったように静まり返る。

 結生の瞳には怒りが、桐井の瞳には迷いが揺れていた。


「そうか……」


 桐井の口から漏れたのは、ため息のような言葉だった。

 それは否定でも肯定でもなく――沈黙の中に埋もれる「諦め」に似ていた。


「なんでだ、なんでそんなことをする」


 結生の叫びは、風に切り裂かれるように響く。

 桐井は目を閉じ、一度だけ空を仰いだ。

 そして意を決したように、ゆっくりと一歩近づく。


「それは、結生が俺の親友だからだ」


「ふっ……」


 結生の口から、乾いた笑いが漏れる。

 その笑いには悲しみも絶望も混じっていた。


「まだそんなことを言うのか……」


「思い出せないだけで、お前は俺の親友なんだ」


「またそうやって俺の記憶を塗り替えるつもりなのか?」


「違う。結生が思い出せないのには理由があるんだ」


 桐井の声は穏やかだった。だが結生の胸には、その言葉が「言い訳」としてしか届かない。

 心の底に溜め込んでいた疑念と怒りが、ついに溢れ出した。


 ――もう我慢できなかった。


 結生の怒りは、声となって爆発した。


「もうやめろ!分かってるんだ!俺を創ったのはお前なんだろ!?」


 怒鳴り声が夕暮れの屋上に響いた。

 その瞬間、桐井の体がびくりと固まる。

 風が一度止まり、沈黙が二人の間を満たした。


 次の瞬間――桐井の肩が小さく震える。

 そして、押し殺すような笑いが漏れた。


「おい、そんな風に考えてたのか?くくく……そうか……」


 その笑いには、嘲りよりも痛みが混じっていた。

 桐井はゆっくりと歩き出し、屋上の隅にあるいつものベンチへ向かう。

 そして腰を落とした。


「そんな風に考えるくらい、俺は結生を追い込んじゃってたのか……」


 桐井は小さくため息をつき、自分の隣を軽く叩いた。

 誘われるように、結生も無言のまま腰を下ろす。

 並んで座る二人の間に、夕暮れの光が淡く射し込んでいた。


 桐井は拳を握りしめる。

 震える腕が、かすかに軋んだ。

 それを見た結生は、言葉を失う。

 胸の奥に、さっきまでの怒りとは違う重さが広がっていく。


「……はぁ、まいったな」


 桐井は空を見上げた。

 沈みかけた太陽が、灰色の雲の向こうに隠れていく。

 その光景を見つめながら、桐井の瞳から決意の色が滲んだ。


「わかった、全て話すよ」


 その声は静かだった。

 けれど、確かに覚悟を含んでいた。


 桐井はゆっくりと息を吸い、吐き出す。

 そして、重い口を開いた。

 慎重に、言葉を選びながら――。





――何年も前の話だ。


 幼い子供が真っ暗な部屋の中、一人で泣いていた。

 俺にはどうすることも出来なかった。

 慰めることも、助けることも、守ってやることも出来なかった。


 突然女の叫び声が聞こえてくる。

 幼い子供は声を聞いた瞬間に体を震わせる。

 小さい体を丸くして、短い腕で必死に自分を抱える。

 それでもその恐怖に体の震えは止まらない。


 足音が自分に近づいてくるのが分かる。

 暗闇の中、息を潜めるがそんなことは無意味だ。

 扉が開くと女が入ってくる。

 扉の先から漏れる光で子供はすぐに見つかる。


 女は乱暴に子供の襟首を掴み持ち上げる、そして床に叩きつける。

 あまりの衝撃に息が出来なくなる。そこを女は蹴り上げる。

 蹴り上げられて転がる小さな体。

 まるで壊れて飽きた人形のようにその場に放置され、扉は閉められる。

 暗闇の中、必死に息をしようと小さな体が藻掻いていた。


 結生、お前は母親から酷い虐待を受けていたんだ。

 扉の奥から自分の名前を呼ばれる度に、お前は体を震わせていた。


 そんな酷い目に遭っても、お前は優しかった。

 母親に対しての憎しみよりも、自分自身の責任を探してしまうんだ。


 どれだけ酷いことをされても、母親に愛して欲しいという気持ちだけは絶対に消えることはなかった。

 自分が母親に虐待されるのは自分が悪いからだと、そんな風に意識がすり替わっていった。


 きっと理解できなかったんだろう、意味もなく他人を傷つける人間を。

 それでも唯一の母親だ、必死に原因を探してなんとか許して欲しかった。

 許して貰えたらきっと愛してくれると信じた。

 

 そして原因を見つけ出す。その原因こそが自分なのだと。

 そしてお前は自分を傷つけだした。


 自傷行為を繰り返し続けた。そうしないと心が壊れてしまうからだ。

 だが、もう既にお前の心は壊れていた。


 毎日虐待を受けては自分を責め、母親に謝り続ける。

 それでも収まらない罪悪感が自傷行為を加速させた。

 

 中学生の入学式。とうとう限界を迎えた結生は、屋上から身を投げた。

 ほら、ちょうどその柵から…。


 だか、運が良いことに飛び降りた先には大きな木があり、その枝がクッションとなって一命を取り留めた。


 運び込まれた病院で、両腕に残る自傷の後、全身の痣を見た医者はすぐに通報した。

 すぐさま警察が呼ばれ、母親は親権を失った。


 それ以降、お前はある医療施設に居るというわけだ。





 桐井の話を聞いて、結生は言葉を失っていた。

 理解しようとしても、頭のどこかがそれを拒んでいた。

 現実感がまるで無い。――まるで他人の話を聞いているようだった。


「冗談……とかじゃないよな……」


 だからだろう、ついそんな言葉が出てしまった。

 しかし、桐井はただ静かに立ち上がる。

 夕日を背に受け、影のような姿で結生を見下ろした。


 ゆっくりと両袖をまくり上げる。

 光が腕を照らし、そこに刻まれた無数の傷が浮かび上がる。


「結生、お前が俺を創ったんだ」


 その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

 結生は反射的に立ち上がり、膝をついて桐井の前ににじり寄った。


「桐井……その傷は……」


 桐井はわずかに笑って首を振る。

 そして、過去を語るように静かに言葉を継いだ。


「あまりにも酷い環境に居ると、人は防衛本能から自分の中に別の人格を創ってしまう。

 自分ひとりでは背負いきれないんだろう。

  それか目の前の現実が、自分の現実だとは認めたくないのか」


 結生は息を呑み、思わず口を押さえた。


「ある時、俺は気付いたんだ。

 結生が傷付く瞬間に、俺が肩代わりすればいいんだって」


 桐井は自分の腕を見下ろし、優しくその傷を撫でた。

 その仕草は、まるで長年連れ添った友を労わるようだった。


「この傷は俺がお前を守り続けた証」


 結生の視界が滲んだ。

 唇を噛み、掠れた声で絞り出す。


「ごめん……桐井……」


 桐井は穏やかに笑う。

「何を謝ってるんだ。俺にとってこれは勲章だ。

 この傷を見るたびに、誇らしく思えるんだ」


 桐井は結生に微笑んだ。

 その笑顔は痛みを抱えながらも、どこか温かかった。


「そうか……」

 結生は唇を噛み締め、涙をこらえるように微笑み返した。


 桐井は少し視線を落とし、静かに語り始めた。


「結生……お前は記憶を心の奥に閉じ込めた。

 そうでもしなければ、限界を迎えたお前の心は――今度こそ本当に壊れてしまうからな」


 ゆっくりと結生に歩み寄りながら、桐井はまくっていた袖を直す。

 手首の傷が、もう一度夕日の光に反射して見えた。


「でも、お前はその記憶を取り戻さなければならない」


 そして結生の手を掴んで起こし上げる。

 温もりが伝わる。まるで現実に引き戻そうとするように――力強く、けれど優しく。


「俺たち人格には生まれた理由がある。存在するための理由がな」

 桐井の声は穏やかで、確信に満ちていた。

「それを俺たちが完遂した時――俺たち人格は消える。お前ひとりだけの体になるんだ」


「え……?」


 結生の瞳が揺れる。

 理解と拒絶が、心の奥でぶつかり合う。


「前にも言っただろ。俺たちは死ぬわけじゃない」

 桐井は静かに微笑んだ。

「お前の心に戻るだけだ」


 その言葉と同時に、桐井の手が結生の肩を掴む。

 その掌は確かな温度を持っていた。


「――現実に戻るんだ、結生」


 桐井の声が、沈みゆく太陽に溶けていく。

 風が頬を撫で、二人の影がゆっくりと重なった。

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