忠助
ゆっくりと大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
嗅ぎ慣れない匂いがする、嫌な匂いではない。いい匂いだ。
嗅覚が、ここは現実なのだと理解させる。
座り心地の良い深いソファー。
両腕は肘掛けに置かれている。
触覚が、ここは現実なのだと理解させる。
小さいが、確実に一秒を刻む音。
時計の秒針の落ちる音。
聴覚が、ここは現実なのだと理解させる。
結生は自分の意志でゆっくりと瞼を開いた。
落ち着いた色の壁、間接照明は目に優しく淡いオレンジ。
壁にかけられた額縁には何かの証書が飾られている。
結生はどこかの部屋にいるのだと分かった。
目の前には女性が座って結生を見つめている。
肩までの髪、眼鏡の縁はグレー、ベージュのブラウス。
アクセサリーも兼ねているであろう腕時計、その指先にはボールペン。
綺麗な顔立ち、薄く化粧はしているのだろう。
清潔感という印象が先に思い浮かぶ。
結生には見覚えのない女性だった。
その女性は鋭い視線を結生に向けると、口元が動いた。
「あなたは誰?」
その台詞に結生は驚いていた。
その質問を今まさに口にしようと思っていたからだ。
それをまさか自分に対して言われるなんて思いもしなかった。
結生は質問で返答する。
「こっちが訊かれるほう?」
結生の質問に対し、目の前の女性は表情を崩すことはなく答える。
「そう、あなたは誰?」
結生は苦笑して見せる。
「他人に聞く前に、自分から名乗るのが常識なんじゃないかな?」
結生の言葉を聞き終わると、女性は無表情のままボールペンを動かし手帳に何か書き込んだ。
そして女性は淡々と呟く。
「そう、なるほどね……」
「いやいや、ちょっと」
そう言って結生が立ち上がろうとした時、ようやく気がついた。
結生の両手首、両足首には拘束具がはめられて立ち上がることが出来ない。
拘束具の抵抗で結生の身体は座っていたソファーに戻された。
「なんだこれは、どうなってる」
腕を動かすとカチャカチャと金属音がする。
結生は女性を睨みつけるが、そんな結生の視線にも女性の表情は崩れない。
「なるほど、演技というわけではないみたいね」
女性は立ち上がりながらメモを取り、奥にあるデスクに腰を掛ける。
「もう一度訊きます、あなたは誰?」
抵抗は無駄だと悟り、結生は大人しく名前を言った。
「俺の名は杉田結生だ」
そこで初めて女性は表情を変えた。口元が緩み、安堵の息を吐く。
「みんなはどうなったの?」
そんな女性の問いに、結生は一瞬暗い影を落とすが、毅然と答えた。
「みんなのお陰で、俺はここに居る」
緊張が解けたのか、女性は初めて目元を緩め、結生に歩み寄る。
そして結生の拘束具を外し始めた。
「ごめんなさい、羽村優喜さんとは最後まで分かり合うことが出来なかったから」
「いや、彼女は最期まで優しい人で、俺たち家族を守りたかった。ただそれだけだ……」
結生は優しく語りかける。
そして解放された手首を擦り、感覚を確かめた。
拘束具を外すと、女性は立ち上がる。
「それでは改めて――」
女性は結生の前のソファーに座り直す。
手帳を脇に置くと、足を組んで続きを話す。
「私の名前は望月沙耶香。精神科医をしていて、あなたの主治医です」
「ああ」
結生は取り乱すこと無く、相槌を打つ。
そんな結生を見て沙耶香は少し眉を動かしたが、話を続けた。
「解離性同一性障害という言葉を知っていますか?
世間的には多重人格と言うほうが伝わりやすいかもしれません。
杉田結生さん、あなたには他に人格がありました」
「そうだな、知っている」
「先程のあなたの発言を聞く限りでは、事情は既に理解しているみたいですね」
「ああ」
「ですが、一応説明させて下さい」
そして沙耶香は今までの結生の状況を語った。
その殆どは桐井の説明と差違は無く、同じような説明を淡々と語った。
結生の胸は締め付けられたが、それでも最後まで黙って聞き続けた。
「そして最後に、とても重要な確認をするのですが。取り乱したり、暴れるようなことはしないでください」
「暴れる?」
「ええ、約束してもらえますか?」
「ああ、分かった……」
そんな前置きに結生は少し緊張する。
それでも了承することしか出来ない。
沙耶香は立ち上がると歩き出し、結生の横を通り過ぎる。
そして結生の背後で何かを持ち上げた。
沙耶香はまた戻ってくると、結生の前で立ち止まった。
「それではいきますね」
その手には長方形の板が両手で握られていた。
その板を結生の顔の前に出すと裏返した。
裏返った瞬間、それは鏡だと分かった。
自分の顔が映し出されている。
しかし、その自分の顔は想像していたよりも幼い姿が映っていた。
「こ、これは……」
「あなたは今12歳、学校に通っていればちょうど中学二年生です」
「……12歳?」
「あなたが総合病院に運び込まれたのは今から20ヶ月前の事です」
「そ、んな……俺は高校1年生だったはず……」
「やはり、そうだったんですね……」
沙耶香は鏡を机に置くと、ソファーに座った。
「桐井くんたちの話しから、そんな気がしていました」
「そう、なのか?」
「自分の意識と現実との乖離は精神的にとても大きなショックを与えます。
ゆっくりと受け入れていくしかありません。
それと、あなたにもう一つ伝えることがあります」
「まだあるのか?」
「ええ」
沙耶香は立ち上がり、机に置かれていたラップトップも持ち上げる。
そして結生の前に置いて開いた。
「大丈夫ですよ」
沙耶香は結生の目を見て、微笑んだ。
そしてキーボードを叩くと、画面に映像が映し出された。
結生が今座っているソファーが映し出されている。
そこに画面外から沙耶香の声が聞こえてきた。
「録画開始しましたよ」
そんな沙耶香の言葉に、結生が急いでソファーに座った。
そして一度こちらを見つめる。
話し出そうとした時、何かに気付いたのかハッとした表情をしてすぐに立ち上がる。
そして画面外へ消えていった。
「なあ、あんたのその帽子貸してくれないか?」
その声が聞こえた瞬間、画面を見ていた結生の瞳が輝いた。
「桐井の声だ……」
そんな結生の呟きに沙耶香は答える。
「そうです、彼は桐井くんです」
結生は唇を噛み締めてはにかんだ。
画面から桐井と沙耶香の掛け合いが流れ始めた。
「帽子をどうするんです?」
「はあ?被るんだよ。急に自分が映って話し出したら結生が驚くだろ。一応顔を隠すんだよ」
「本当に結生くんに関してはブレないですね。その気遣いを少しは私に向けてくれてもいいんですよ」
「は?無理に決まってるだろ」
「分かりました、録画を止めますね」
「いやいや、ちょっと待って。悪かったよ、これでも先生のことは信頼してるんだよ。こうやって最期を託すくらいにはな」
「……そうですね」
画面の外から可愛らしいニット帽を被った結生が現れるとソファーに座った。
ニット帽は目深に被られていて、鼻と口だけが見えていた。
「よう結生、桐井だ。現実に戻って来られたみたいだな。ということは俺は成功したってことだな」
そう言いながら桐井の拳は強く握られていた。
この録画時点では成功の確約なんてものは無く、不安からつい拳を握っていたのだろう。
「実はな、ちゃんと話しておかないといけないことがあるんだ。その……」
桐井はそこまで話して言い淀む。
「直接言うのが怖くてな、これは俺の懺悔なんだ。……結生が今こんなことになってるのは俺のせいなんだ」
桐井は自分の手を強く握る。
小さく息を吐いて、決意すると言葉を続ける。
「結生が屋上から身を投げた瞬間。
俺が……助けるのが遅れたんだ……。
飛び降りる寸前に、俺に意識を代えて止められてればこんなことにはならなかったんだ。
……本当にすまない」
結生は眉をひそめながら画面に答える。
「なに言ってるんだ、桐井のせいじゃ無いだろう」
「俺には、なんとか落ちる位置を木の方向にずらすことしか出来なかった」
結生は屋上へ登った時のことを思い出していた。
急な突風で屋上から落ちそうになったあの瞬間、桐井は結生の腕を掴んだ。
そして屋上に引き上げた。
『今度こそ俺の勝ちだ』
桐井は嬉しそうに笑っていた。
今度こそ結生を救えたことへの喜びだったのか。
結生は自分の胸に手を当てると、その胸に向かって小さく語りかける。
「……ありがとう」
画面では桐井が話し始める。帽子で目が隠れていて表情は伺えない。
「結生、これから大変かもしれない。記憶が蘇り、辛い思いもするだろう」
しかし声色が明るくなり、結生に語りかける。
「だけど大丈夫だ。今の結生ならきっと大丈夫だ。
そこに先生も居るだろうしな、彼女を頼れ。
まあ、役に立つかは分からないけどな」
桐井の軽口を聞いて、画面外から沙耶香の人差し指が映り込んできた。
そんな沙耶香を桐井は慌てて止める。
「ごめん、冗談だよ。録画止めないでくれ」
沙耶香の指は画面の外に引っ込む。
そして真剣な声に変わると、画面の先に居る結生を見据えた。
「絶対に大丈夫。結生なら乗り越えられる。俺が保証する」
そして桐井は画面の外に顔を向けると、大きく頷いた。
そこで画面が暗くなり、映像は終わる。
ラップトップを閉じると、沙耶香は結生の正面のソファーに座った。
「桐井くんの言う通り、結生くんには私がついています。だから大丈夫」
沙耶香は真剣な表情で結生の瞳を見つめた。
「ありがとう、先生」
微笑みながらそう言うと、結生のお腹の音が鳴った。
一瞬空気が止まったが、沙耶香は少し笑って腕時計を見る。
「そうですね、そろそろお腹が空く時間ですね。結生くん、何か食べたいものはありますか?」
鳴った自分のお腹を擦りながら答えた。
「甘いドーナツが食べたい」
最後まで読んで頂きありがとうございました。
少しでも楽しんで頂けたら幸いです。




