古典的妄想が一番気持ちいい
「まったく、朝から学校なんてだるいな」
肩にかけた鞄の紐を直しながら、俺は目の前の曲がり角へ視線を向けた。
いつもの通学路。
危険なんて、あるはずがない。
その瞬間だった。
視界の端から、何かが飛び出してきた。
「うわっ!」
避ける間もなく、ドンと鈍い衝撃。
身体がわずかにのけぞり、鞄がずれる。
俺は一歩、二歩と後ずさった。
俺は飛び出してきた相手を見下ろす。
そこには尻もちをついて、おでこを擦りながら俺を見上げる美少女の姿があった。
「ちょっと、危ないじゃない!」
「ああ、悪かったな」
俺はそう返事しながらも、視線は美少女のめくれ上がったスカートの中に釘付けになった。
そんな視線に気がついたのか、美少女は慌ててスカートを直し、赤面しながら俺を睨みつける。
「見たよね?」
俺はぶつかった拍子に肩からずり落ちそうになっていた鞄を直す。
そして美少女に手を貸して起こし上げた。
「いや、見てない」
見たよね?という問いに対し、その返答はまずかった。
それは見たと白状しているのと同義。何を?と答えるべきだったのだろう。
だが、気づいた時には既に遅かった。
美少女は頬をふくらませ、じっと俺を睨みつけていた。
「――最低!」
鋭い声が響いた次の瞬間、頬に熱い衝撃が走った。
パン、と乾いた音が耳の奥で反響する。
美少女は顔を真っ赤にしたまま、踵を返して駆け出していった。
残されたのは、じんと痺れる頬と、呆然と立ち尽くす俺。
……いや、待てよ。
今の制服、どこかで見たような?
まさかな……。
* * * * *
杉田結生は足を止め、その場で立ち止まっていた。
左頬を擦りながら、口元にはゆっくりと笑みが浮かぶ。
「やれやれ、朝から酷い目に遭ったぜ……」
満足げにそんな台詞を呟くと、結生はうんうんと一人頷いた。
通学路を行き交う生徒たちは、そんな彼を横目に通り過ぎていく。
怪訝そうな表情を浮かべる者もいれば、少し離れた女子生徒たちはクスクスと笑い合いながら歩いていった。
やがて、自分に向けられた視線の多さに気づいた結生は、はっとして顔を伏せ、足早に歩き出す。
結生の趣味は妄想。
それは自分を主人公とした物語を妄想して、楽しむことだった。
だが、その妄想にあまりにも没頭するあまり、表情や声にも出てしまう。
そして、今のように他人の視線を集めてしまうことが多々あった。
なんとか教室へ辿り着くと、誰とも言葉を交わさぬまま、窓際の一番後ろの席に腰を下ろした。
机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。
特別、何か面白いものが見えるわけでもない。景色が変わるわけでもない。
ただ、見るという行為そのものが、いつものルーチンだった。
しばらくすると、チャイムの音が鳴り響いた。
楽しげに会話していた生徒たちは、名残惜しそうに声を切り上げ、それぞれの席へと散っていく。
やがて教室の扉が開き、担任の教師が入ってきた。
黒板の前に立ち、軽く咳払いをしてから、普段とは違う言葉を口にした。
「今日からクラスメイトになる転校生が来ているので、みんなに紹介します」
その一言に、教室中がざわめいた。
椅子がきしむ音、ひそひそと交わされる声。
空気が一気に色づく。
そんな生徒の中、結生もまた例外に漏れず興奮した表情を浮かべた。
* * * * *
転校生という言葉に、俺の心臓は激しく脈打った。
全身の血が一気に駆け巡る。
ゆっくりと教室の扉が開く。
現れたのは、一人の少女だった。
その姿を見た瞬間、教室中の空気が止まった。
あまりの可憐さに、誰もが息を呑む。
歩くたびに揺れる髪先や制服の裾、一つ一つの所作に、可憐とは何たるかと意味が込められているかのようだ。
少女はチョークを手に取り、黒板に自分の名前を書き出す。
そして柔らかな笑顔でこちらに振り返る。
「柚原愛です、今日からよろしくお願いします」
礼儀正しくお辞儀をしたその瞬間、教室の男子たちが一斉に歓声を上げた。
「うおおおおおお!」
その男子の歓声に驚いた愛は教室を見渡した。
大勢の生徒の中で、俺と視線が交わった。
その瞬間、俺を指差して愛は言い放つのだ。
「あなた今朝の最低男!」
ざわめく教室。注がれる視線。
そして俺も負けじとこう叫ぶ。
「お前は今朝の白パンツ女!」
* * * * *
視線を宙に漂わせ、うっすらと笑みを浮かべている結生。
その様子に気づいた担任教師は、一瞬、声をかけるのをためらった。
しかし、意を決したように大きく咳払いをし、教壇から結生の名を呼ぶ。
「おい、杉田!」
自分の名前を呼ぶ声に、意識が一気に現実へ引き戻された。
結生は慌てて立ち上がり、反射的に声を張り上げる。
「は、はいっ!」
そのときになってようやく、男子生徒が自分の方へ歩いてくるのに気づいた。
担任教師はその生徒を指差しながら、結生に声をかける。
「桐井くんは転校初日だから、杉田の教科書を貸してあげなさい」
桐井と呼ばれた男子生徒は、結生の隣の席に腰を下ろし、にこやかに笑った。
「桐井です。今日からよろしく」
「どうも、杉田です……」
おどおどと返事をすると、結生は視線を泳がした。
その様子に気づいたのか、桐井は優しく微笑むと、そっと自分の机を結生の机に寄せた。
「ごめんね、教科書まだ届いてないみたいなんだ」
「え、ああ。いま教科書出すから」
人は他人から頼み事をされると警戒心が薄れ、打ち解けやすくなる。
そんな技術を知っていたのか、それともただの偶然なのか。
桐井は穏やかな笑みを浮かべながら、結生を見つめていた。
それが功を奏したのか、人見知りの緊張感が解れたことで二人は自然と会話することが出来た。
それでも休み時間になると、隣の席に人だかりが出来始め、結生はまた現実に嫌気が差していた。
転校生恒例の質問攻めにも、桐井は終始人当たりがよく、笑顔を絶やさない。
その姿は、あっという間に教室の中心になっていた。
結生はそんな桐井に、無意識のうちに嫉妬の視線を向けていた。
特に女子たちの黄色い声が上がるたび、胸の奥で小さな苛立ちが膨らんでいく。
気づけば、女子を囲うように男子も群れ始め、結生の机は誰かの椅子代わりになっていた。
「あ、悪い。杉田」
「いや、トイレ行くから座ってていいよ」
その場の空気に気圧されて、結生は足早にトイレへと避難した。
チャイムが鳴り、教室に先生が入ってくると桐井の周りあった人だかりは蜘蛛の子を散らすように消えた。
そしてまた結生と机を付けると、桐井は困ったような笑顔で囁いた。
「ごめんね、騒がしくしちゃって」
「いや、大丈夫だよ」
そんな桐井の笑顔を見て、こういうのが人気者の秘訣なんだろうと結生は素直に思った。
本人が悪いわけでもないのに、自然に謝れる。自分にはできないことだ。
ただ、いつもなら授業中も頭の中で妄想して楽しんでいたのだが、今の状況ではそれが出来ない。
そのことが不満で仕方がなかった。
何度かのトイレ避難の後、ようやく結生にとって待ち望んだ昼休みがやってきた。
チャイムが鳴ると同時に弁当を握り、立ち上がると教室から飛び出していった。
階段を駆け上がり、古びた鉄の扉を押し開ける。
その先に広がるのは、学校の屋上だった。
鉄の手すりに囲まれた、そう広くもない空間。
ひとけはなく、そこにいるのは結生ただ一人。
屋上の隅には、古びたベンチが一台だけ置かれていた。
どこか哀愁を帯びたそのベンチに腰を下ろし、結生は深く息を吐く。
「ふぅ、やっと落ち着いた」
一人になった安堵感と開放感に包まれながら、結生は背もたれに身を預けた。
弁当の包みを開き、静かに箸を動かし始める。
誰に見られることも、話しかけられることもない。
ただ、咀嚼の音だけが屋上に溶けていった。
食べ終えると、満たされた体をそのままベンチに横たえる。
両手を頭の後ろに組み、仰向けの姿勢で足を組む。
目を閉じると、昼の光がまぶた越しに赤く滲んだ。
これでようやく、結生のリラックスが完成した。
* * * * *
―バン!
屋上の扉が大きな音と共に勢い良く開かれた。
せっかく横になって、これから寝ようって時に誰だ?
「ちょっと!話はまだ終わってないんだから」
仰向けのまま目線だけを向けると、柚原愛が仁王立ちで俺を睨んでいた。
「話って何だよ、俺は忙しいんだ」
乱暴に返事をする俺を見ると、愛はぷりぷり怒った表情で詰め寄ってきた。
「ちゃんと謝ってよね!」
仕方がなく起き上がると、ベンチに座り直した。
そして欠伸をしながら答える。
「謝るって何をだ?」
「今朝の事に決まってるじゃない!」
今朝のこと?
ああ、なるほど。
「だから誤解だって」
「誤解じゃないでしょ!だって挨拶の時、その……」
急に愛の勢いが弱くなる。
白パンツと言われた事が恥ずかしいのだろう。
顔を紅く染め、恥じらいながら愛は俯く。
けれど、その羞恥はすぐに怒りへと変わる。
「もう!いいから謝って!」
両手を腰に当てたまま、愛はベンチに座る俺を見下ろしている。
「わかったよ、俺が悪かっ――」
頭を掻きながら謝ろうとしたその時、屋上に突風が吹いた。
ちょうど俺の視線の先にあった愛のスカートは、抵抗することもなくめくれ上がる。
「きゃあああ!?」
慌ててスカートに手を当てて隠すが、時すでに遅い。
「悪い、白に水色のリボン付きだった」
笑顔で報告する俺に、またしても愛の平手打ちが炸裂する。
「そんな訂正要らないでしょ!」
平手打ちに吹き飛び、倒れ込む俺。
そんな俺を置いて、愛は屋上を後にするのだった。
とほほ。
* * * * *
放課後の教室。
桐井の席の人だかりは落ち着きを見せつつも、入れ替わるように次々と人が訪れていた。
「桐井くんは部活決まった?」
「吹奏楽とか興味ない?私なら教えられるから一緒にやらないかな」
「いやいや俺と一緒にサッカーで大会目指そうぜ!」
結生にとってそれは、この一日で既に見慣れた光景となっていた。
黙々と身支度を済ませると席を立ち、教室を後にする。
とはいえ、心のどこかでは思うところもあった。
隣と自分の席の、この対照的な状況。
現実というものは、あまりにも皮肉に満ちている。
それでも結生は知っていた。
他人と自分を比べることに、何の意味もないということを。
だからこそ、妬みの感情に呑まれることもなかった。
結生は、いつもこう自分に言い聞かせていた。
端から見れば根暗に映るのかもしれない。だが、そんな視線など気にする必要はない。
世間体?この世で最も無駄な発明品だ。
他人が自分をどう思おうと、他人が思う俺に何の意味もない。
だからこそ他人からの白い目に晒されて、羞恥心に襲われようとも妄想をやめようとは一度も考えたことはなかった。
高校から徒歩で三十分。
繁華街から少し外れた、静かな住宅街の一角に、二階建ての一軒家が建っていた。
「ただいま~」
玄関の扉を開けながら、結生は声をかける。
靴を脱ぎかけたそのとき、リビングから母親の明るい声が返ってきた。
「おかえり~」
その声を聞いた結生は、リビングの扉に一瞬視線を向け、足を止めた。
数秒の間を置いてから、何事もなかったかのように階段を登り始める。
三段ほど上ったところで、背後から母親の声が飛んだ。
「結生、ちょっと」
「なに、母さん」
「ちょっと」
そんな母親に結生は小さくため息をついた。
「母さん、何でもちょっとの一言で伝えようとしないでよ。ものぐさ極めすぎでしょ」
リビングに入ると母親がお茶を片手にテレビを観ていた。
そして入ってきた息子の姿を確認するとちょっとの内容を伝えた。
「あんたの隣の部屋、片付けて欲しいんだけど」
「え?」
母親の言葉を聞いて、結生は一度考え込んだ。すぐに頭の中で、その部屋の光景がよみがえる。
「それって物置になってるあの部屋のこと?」
「そう、あの部屋使うから」
「はあ?」
肩を落とし、全力で不満を表現してみせる。
「ほら、着替えて片付けてきて!」
「はい……」
それが何の抵抗にもならなかったことを悟ると、二階の自室へと向かった。
なんだかんだ文句を言いながらも、母親の頼みを断れずに物置と化した部屋の扉を開けた。
中は、所狭しとあらゆるもので埋め尽くされていた。
使わなくなったダイエット器具、山積みの服、季節外れのバッグ。
どれもこれも、ほこりを被って存在を主張している。
よくよく見れば、それらのほとんどが母親の私物だった。
飽きっぽくて、流行にすぐ飛びつく。
結生の目の前は、母親の趣味遍歴が詰め込まれたような有り様だった。
「はあ、まったく……」
部屋の入口で立ち尽くす結生に、鼻歌交じりの母親が陽気に近づいてきた。
「どお?」
「どおって、一日二日じゃ終わらないよ」
振り向いて母親に抗議するが、もちろん全く通じない。
「ダメよ、今日使うんだから!」
「はぁ?無理に決まってるよ!なんで急に言い出すのさ」
「だって今思い出したんだもん」
いつもながら母親の思いつきに振り回されるのには慣れている。
それでも、つい結生のお口からはため息が漏れてしまう。
「もっと前もって、計画的にさ……」
「はいはい、母さんが悪かったわよ」
母親に背中を押され、無理やり部屋の中に入れられる。
「それじゃあお願いね、結生~」
手をひらひらと振りながら、陽気に階段を降りていく母親。
一人残された結生は、改めて部屋の中を見渡して愕然とする。
しかし、そんな感情を振り払うように一度手を叩くと気合を入れた。
「駄目だ、考えてるだけだと本当に終わらないぞ」
そう自分に言い聞かせ、目の前のものから順に手を動かし始めた。
箱をどかしては袋を運び出し、また戻って整理する。
その繰り返しを何度か続けているうちに、部屋の中に少しずつ空間が生まれていった。
気がつけば、物置というより部屋と呼べる程度には整っている。
結生自身、こういうコツコツと没頭できる作業は嫌いではなかった。
壁の時計に目をやると、二時間が経っていた。
掃除機をかけ、窓を拭き終えた頃には、二時間前とはまるで別の部屋になっていた。
両手を腰に当て、ゆっくりと見渡す。
その光景に、思わずひとつ頷く。
「なんだ、この充足感は……」
そんな気持ちに浸っていると、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「結生~」
下の階から母親が呼ぶ。
呼ばれるタイミングとしては、まさに完璧だった。
この成果を見せるため、意気揚々と階段を下る。階段を下った先にある玄関、そこに立つ母親が目に入った。
自慢しようと声をかけようとした瞬間、結生の体は固まってしまった。
あまりにも衝撃的な光景を目にしたとき、人の脳は情報を処理できなくなるらしい。
声も出せず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
それは今朝、自分の頭の中で想像した人物。
これから妄想の中で自分と恋愛する予定の人物。
自分が頭の中で生み出して、自分で考えたストーリーの中で動かしていた人物。
それが今、目の前に居る。
自分の母親と会話し、笑っている。
――なんなんだこれ?どういうことだ?なにが起こってるんだ?
混乱しながらも、なんとか階段を降りきった結生に、その人物は気づいた。
そして満面の笑みを向ける。
「今日からお世話になります、よろしくね結生」
「ゆ、柚原……愛?」
わけが分からず、名前を口にするのが精一杯だった。
「あら、もう知ってたのね」
嬉しそうに笑う母親に、結生は何も返すことができなかった。
――なんで俺の目の前に柚原愛が立っているんだ?
どれだけ頭を働かせても混乱は収まらない。
震える手で自分の頬をつねる。
―痛い……。
結生の痛覚はこれが現実だと知らせる。
今度は一度瞳を閉じると大きく深呼吸をする。
そしてゆっくりと目を開くと状況を確認した。
しかし、目の前の状況は何も変わらずに、母親と柚原愛が談笑している光景が映っていた。
「これは……妄想じゃないのか?」
立ち尽くす結生に気づかぬまま、母親は柚原愛を家に招き入れる。
「ここで立ち話もなんだし、愛ちゃん、上がって。お茶淹れてあるから」
「はい。おじゃまします」
母親は愛を連れてリビングへと入っていった。
結生はただ黙ったまま、その二人を視線で追うことしかできなかった。
呆けたように立ち尽くしていると、ようやく母親の声が飛んできた。
「ちょっと結生、突っ立ってないで愛ちゃんの荷物を部屋に運んであげて」
「いえ、私が自分で運びますから」
「いいのよ、愛ちゃん疲れたでしょ。ゆっくり座ってお茶でも飲んでて」
「でも……」
愛は申し訳なさそうに結生を見つめる。
その視線に気づいた瞬間、ようやく結生の体が動き出した。
「ああ……このキャリーケースでいいのか?」
玄関に置かれたキャリーケースを指さす。
愛は笑顔で頷いた。
「うん。ありがとう、結生」
恐る恐る愛の荷物に手を伸ばす。
触れた指先に、確かな感触があった。
どこにでもあるキャリーケースの、冷たく硬い表面。
持ち上げると、ずっしりとした重みが腕に伝わる。
その重さが、結生の混乱をさらに深く沈めていく。
キャリーケースを抱えたまま、ゆっくりと階段を上る。
部屋に運び入れたあとも、胸のざわめきは収まらなかった。
「一体何が起こっているんだ?
登校中、教室、そして屋上で会った愛はまさしく俺の妄想だったはずだ。
その全てを俺が考えたものだ」
先ほどまで充足感に包まれていたはずの部屋で、結生は混乱を抑えようと自問自答を繰り返す。
「転校生という設定も、俺が作り出した妄想の一部だ。
けれど、現実でも転校生は現れた。そんな偶然の一致に、いったい何の意味がある?
それとも何だ?桐井のほうが、俺の妄想だったということなのか?」
腕を組みながら部屋の中を歩く。
窓ガラスが鏡のように反射し、難しい顔をした自分の姿を映していた。
「いや、まさか。そんな妄想をしても何の楽しみもない。
桐井は確かに存在していた。愛は俺が妄想したキャラクターだ」
窓に映る自分の顔に手をつく。
外はすでに暗く、街の灯りがぼんやりと滲んでいる。
「転校生が俺の家に居候?これはよくある設定だ、俺が妄想するなら使う設定だろう。
しかし、これは現実だ。現実で、今体験している」
何か思いついたのか、窓に背を向けると両手を腰に当てた。
「ならばもう、これはこれでいいのではないか?
偶然の出会い、転校生、居候。フラグはギンギンに立ちまくっているんだ。
寧ろこれは最高のチャンスなんじゃないか」
結生は口元を緩めながら、軽い足取りで階段を下っていった。
そしてリビングの扉を開く。
「あれ?」
そこには誰もいなかった。
部屋を見渡しても、二人の姿はどこにも無い。
人の気配が消えたリビングでは、テレビから流れるバラエティ番組の笑い声だけが響いていた。
結生は入口で立ち尽くす。
その背後で、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
父親の声だった。
その声を聞いた瞬間、結生の頭の中に大量の記憶が流れ込んできた。
とても幸せな夢を見ていて、目が覚めた時。絶望したという経験があるだろうか?
夢を見ている時は何の疑いも持たず、その全てが当たり前のように受け入れている。
目覚めた時にそれが夢だったと初めて気がつく。
そして現実であんな幸せなこと有るはずがないと理解する。
結生は今まさにそういう絶望に押しつぶされそうになっていた。
そして瞳からは涙が溢れ出る。
母さんは十年前に死んだんだった……。
片付けていた部屋は母さんの部屋だった場所。
俺は父さんと二人暮らし……。
立ち尽くす結生に、父親が声をかける。
「なんだ、飯の用意してないのか?」
「ああ、ごめん……」
「仕方ない。店屋物でも頼むか」
「……うん」
俺は何をしていたんだろう。
母さんが死んでいたことを知っていたのに、母さんが居たことに対して何の疑問も抱かなかった。
知っていたのに、その事実はまるで無かったかのように。
結生はふらふらと自室へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。
限界を迎えた脳は、何も考えられないまま静かに沈んでいく。
そのまま、深い眠りに落ちた。




