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影双譚(かげふたつたん)  作者: 妙原奇天


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続き

第六話 羅刹と人 — 新選組内部の“裁き”


一 蓮視点:遅い現場の呼吸


 雨が、壬生の長屋の瓦を叩いていた。音は細く、だがしつこい。夕餉前の屯所は湿りを吸って重たく、畳の目に染み込んだ汗と油の匂いがじわりと浮く。

 矢野蓮は、土間から土足のまま井戸端へ回り、柄袋を縁側に立てかけた。袋の口に付いた泥を指でこそげ落とす。その指に、ひとつ、硬い震えが伝わった。遠くの道場。声が荒い。


 「借りが返せねえなら、指を落とせ!」

 誰かが怒鳴る。若い。血の匂いはまだない。だが、こういう声はいつだって血の匂いへ続く。

 蓮は息を低く吐いて、廊下を抜けた。雨の白い襞を背に、道場の戸をくぐると、濡れた土の匂いの中に、乾いた金属音が残るばかり。


 道場の真ん中で、小柄な隊士が土下座していた。袖は泥。顔は青い。周りを四人が囲む。最年長の顔は膨れて、眉間の筋が固い。

 年長格が脇差の鞘で畳を叩いた。

 「組の金を借りて、私利に回した。利を踏み倒す気か」

 小柄なのは田口という。江州出。腕は遅いが足は早い。足の早い奴は、大抵、心が遅い。

 田口は顔を上げずに言った。

 「返します。返すまでの間、待ってくだせえ……仕事も行きます」

 「待つ? 俺らの取立は、待つほどやさしくねえんだ」

 囲む四人のうちのひとりが、口元だけで笑った。名は北島。最近、土方の側用で走りがちだが、今は誰の用も受けていない顔だ。

 蓮は、入口の柱に背を預け、声をかけた。

 「何の芝居だ」

 四人の視線が一斉に寄る。北島の笑いが、少しだけ薄くなった。

 「矢野さん。……隊の内のことです」

 「内のことは、余計に見せ物にするな。畳が泣く」


 畳は、本当に泣く。血より先に、靴の泥に。蓮はそういう湿りを知っている。

 彼は畳縁の上に足を置かず、脇に立った。

 「金はどうした」

 田口は額を畳に擦りつけた。

 「母の薬代に……金貸しに手を出してしまって……組の米代を一時、回そうと。利を返すあてが飛んじまって」

 北島が鼻で笑った。

 「金貸し? ……こいつは、組の内の金に手を付けたんだ。罪が二つある」

 畳の縁に、ひとすじ、雨の靴跡。蓮はそれを見ただけで、誰がここまで土足で上がったかをだいたい知った。北島だ。

 「二つのうち、どっちから殴る気だ」

 「両方だよ」

 北島は鞘を肩で担ぎ直し、田口の脇腹へ軽く、しかし速く打った。乾いた音。田口がうめく。

 蓮は、一歩だけ進み、槍の石突で畳を小さく叩いた。

 「やめろ」

 「命令か?」

 「お願いだ。ここで血の匂いを増やすな。腹が減る」


 笑いが起きるはずのところで、笑いは起きなかった。雨が笑いを吸い取る夜がある。

 そこで、奥からゆっくりと足音。足音は軽く、咳は浅い。

 沖田総司が、柱の陰に立った。袖口で口元を抑え、眼を笑わせる。

 「蓮。そこは、お願いではなく、提案にしましょう」

 「承知」

 土方歳三の姿はない。別の用で出ているのだろう。隊の空気が、少しだけ勝手に荒れる。そういう時に限って、誰かが「裁き」を名乗る。


 総司は田口に近づき、膝を折って目線を合わせた。

 「田口。今、どこに借りがある?」

 「……村はずれの桶屋に。あの、内のも外のも、気が付いたら」

 「利の取り手は?」

 田口は黙る。

 沈黙の厚みを測るより早く、蓮は空気の匂いで察した。

 ——内にもいる。

 総司は頷いた。

 「わかりました。今夜、この件は外に出さない。——静」

 呼ばれて、静が縁側の白い雨を背に入ってきた。表情はいつもどおり、ひょうひょう。

 「はい、兄上」

 「二人で行きなさい。桶屋、そして内。刃は使わずに、夜のうちに『困らせて』戻ること。明け方までに。……土方さんが戻る前にね」

 蓮は口角を上げた。

 「なるほど。羅刹が戻る前に、人のやり方で、か」

 総司の視線が穏やかに笑い、雨音がひとつ大きくなった。


 桶屋は、屯所から少し離れた角にある。雨の日は仕事が少ないから、帳場が動く。

 桶屋の裏手に回ると、湿った木の匂いと樽の胴の匂いが混ざる。

 蓮は槍の袋をあけ、柄に手を添える。

 静は戸口に耳を寄せ、息を一回分だけ置いた。

 「中に、三。ひとりは寝かけ、ふたりは金を数えています。……おや、油の匂いが内の香です」

 「内の香?」

 「見覚えの香。——北島の部屋で嗅いだ匂いに似ております」

 蓮は短く鼻を鳴らし、指で三つの拍を切った。

 最初の拍で戸を開け、二拍目で石突を床に打ち、三拍目で言葉を置く。

 「夜回りだ。手を止めろ」


 湿った灯が揺れ、帳場の向こうで二人が振り向く。ひとりは桶屋の主人らしき顔、もうひとりは見覚えのある肩幅——北島だ。

 蓮は北島の脛を見た。白い足袋の内側に、硬い筋が浮く。走る足だ。

 北島が立ち上がり、鞘に手をやる瞬間。

 蓮は槍を畳まない。長いまま、石突で床を打ち、次の拍で、石突を横に薙いで北島の脛を正確に打った。

 硬い骨の直前、筋の張りに音が走る。

 「ぐっ——」

 北島の足が崩れ、身体が机にぶつかり、銭箱が鳴る。

 静は机の端を指で押さえ、銭の転がりを止めた。笑う。

 「夜に錢が転ぶ音は、近所の犬が覚えます。——うるさいので、おやめください」

 桶屋の主人が怯え、両手を上げる。

 「わ、悪いことをするつもりじゃあ……ええ、その、少しだけ利を……」

 「少しだけ、の線は、貸す側が勝手に引くものですか?」

 静が歩をひとつ。

 蓮は槍の先で銭箱を遠くへ払った。銭は床に散らばらず、壁と箱の間に収まるように、角度を選ぶ。

 北島が脛を押さえてうずくまる。歯をむく。

 「……隊の内のことを外でやるのは、誰の差し金だ」

 蓮は穂先を寝かせ、北島の肩の手前に置いた。押すための距離だ。

 「自分の頭で考えたか? それとも、誰かが『速い裁き』を欲しがったか」

 北島は唇を噛み、何も言わない。沈黙の中に、雨の音が深くなる。

 静は棚の端に目をやり、塗りの薄い小箱を開けた。中に、短い紙片。

 『連判 利一割五分 月末 印』

 内の名が二つ、見える。北島と、もうひとり。

 「もうひと方も、呼びましょう。——蓮、お願いします」

 「了解」


 蓮は北島の襟を取って、雨の戸口まで引いた。脛は打てば走れない。走れない男は、だいたい口が軽い。

 北島は最初、吠えた。次に、黙り込んだ。最後に、小声で名前を出した。

 「村瀬……」

 村瀬は会計の補助をしている。紙の扱いが速く、数字の行き来を好む。

 「紙の匂いは、雨でよく立ちます」

 静のひょうひょうが勝つ夜。蓮は雨の中を駆け、屯所の納屋の別間に村瀬が潜んでいるのを見つけた。


 村瀬は逃げようとした。逃げる足は確かに速かった。

 だが、濡れた土の上での速さは、槍の石突に負ける。

 蓮は村瀬の足首を狙わず、脛の前脛骨の少し外側を軽く叩いた。

 「——うっ」

 村瀬の膝が泥に落ち、体重が前へ流れて、腕で支えた掌が泥を吸う。

 「俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ。脛は心臓まで届く合図だって知っとけ」

 言い捨てて、村瀬を引きずり、桶屋へ戻る。


 桶屋の座敷に四人が揃った。北島、村瀬、桶屋の主人、田口。

 静は灯をひとつ落とし、声をやわらかくした。

 「では、『裁き』の席にしましょう。——刃は抜きません。ですが、心は斬れます」

 蓮が槍の柄を壁に立て、石突を畳に置いた。重さの半分を畳に預け、逃げる足の前に無言の線を引く。

 静は、田口に目を向けた。

 「田口。あなたは、内の米代を回した。母上の薬代のために。——罪です。ですが、事情は消えません」

 田口は鼻水を袖で拭い、うなずいた。

 「……すんません」

 「謝る相手は、まずあなた自身です」

 静の声はひょうひょうだが、芯は固い。

 蓮は北島に言葉を落とした。

 「お前は、速く殴る。『羅刹』の真似がしたかったか。速い裁きは、気持ちがいい。だがな、現場は遅い。遅いから生き延びるんだ」

 北島は歯を見せ、笑っていない目で蓮を睨んだ。

 静は村瀬へ視線を移した。

 「村瀬。紙の速さは毒になります。あなたの筆は利の線を太らせ、返す側の息を細らせた。——紙は、紙で斬れます」


 雨は弱くなり、代わりに桶の水の匂いが強くなる。静は膝を正し、掌を膝に置いた。

 「二つの道がある。粛清か、赦し。——私たちは、第三の道を選びます」

 北島が鼻で笑った。

 「第三?」

 「はい。生かして困らせる道です。斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」

 田口が顔をあげる。村瀬の喉がひく、と鳴り、桶屋の主人は膝を寄せた。

 蓮は肩で笑い、槍を持ち直した。

 「困らせる、の具体がないと分からねえ連中だ。静、言ってやれ」


 静は数を刻むように、箇条を置いていった。

 「第一。——北島と村瀬。お二人は『金』の仕事からいったん外れます。帳場に近づかない。これから三十日、日の出前の寺掃除と、夜回りの後始末。人の目の前で、毎日一度、頭を下げる」

 北島が唇を曲げる。

 「見せしめか」

 「『見せ』は薬になります。あなた方に。——第二。桶屋のご主人。田口から受け取った利は、元に足して返していただきます。半分は今日、半分は十日後。できない場合、あなたの店の桶を、内で一年買いません」

 桶屋の主人の顔色が変わる。利より怖いのは、客を失うことだ。

 「第三。田口。あなたは内の米代を『借りた』のですから、返す算段を皆の前で示しなさい。母上の薬は、隊で一時立て替えます。ただし、その分は働いて返す。——働き先は、寺の厨房。お粥を五十人分、毎朝」

 田口の目から、水と区別のつかないものが落ちた。

 蓮は槍の石突で畳を軽く叩いた。

 「逃げ場がねえ仕組みだ。逃げねえなら、生きられる」


 村瀬が低く言った。

 「……誰が、こんな裁きを許す」

 「副長ですと、問答無用で斬られます」

 静は微笑んだ。

 「ですが今夜は、兄が任せました。明け方までに『困らせて』戻れ、と。——間に合わせます」

 「副長が戻ってひっくり返したら?」

 「明け方までに、皆に『見せ』ます。見せた裁きは、簡単にはひっくり返りません」


 桶屋の座敷での取り決めは、小一時間で形になった。蓮は北島を支え、村瀬の足元に布を巻き、田口に寺への道のりを教え、桶屋の主人には紙に署名をさせた。

 紙は二通。ひとつは隊の蔵へ、ひとつは寺へ。

 「紙で縛るのは好きじゃねえが、今夜は紙が味方だ」

 蓮は紙を懐に入れ、雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


 屯所に戻る頃、雨は上がっていた。空気は軽く、畳はまだ重い。

 道場に人が集まり始めていた。噂は速い。隊の噂は、血と同じ速さで走る。

 土方はまだ戻らない。総司は柱に寄って立ち、咳をひとつ、受け止めて微笑んだ。

 「蓮。——遅い、いい顔だ」

 「遅い現場の顔ってやつだ」

 静が隣に並び、柔らかく頭を下げた。

 「これより、見せます」


二 静視点:心を斬る座敷


 道場の板は、よく磨かれていた。夜の空気がまだ湿りを残す中、油の匂いは薄く、古い木の匂いが勝っている。

 静は板の中央に座した。ひざの前に白い紙二枚。ひとつは桶屋の返済の約定、ひとつは田口の働きの約定。

 列をなす隊士たちの顔は、怒り、好奇心、不信、嘲り、安心、いくつもの表情を重ねていた。

 静は、ひとつ息を置き、喉の奥で間を作った。

 「今夜、『裁き』があります。——刃は抜きません」

 ざわめきが起こる前に、蓮の石突が板をひとつ叩いた。音は短く、よく通る。

 静は続けた。

 「田口。前へ」

 田口が出る。顔は薄く腫れ、目の縁は赤い。

 「あなたは米代を借り、母上の薬代に当てました。罪です。ですが、事情は消えません。——これが返しの算段です」

 静は紙を掲げ、内容を読み上げる。寺の厨房での働き、隊内の雑務、返済の期日。


 「北島、村瀬。前へ」

 ふたりが出る。北島は脛に布、村瀬は足首に布。

 「あなた方は内と外を混ぜ、利を取り、人の息を細らせました。——これは『困らせる』約定です」

 寺掃除、夜回りの後始末、帳場からの離隔、頭を下げる回数を紙に書いた。

 「見せしめか」

 誰かが小さく吐き捨てる。

 静は微笑んだ。

 「見せるのは、恥ではなく、回復です。人前で毎日同じ所作を積めば、人は変わります。——羅刹の速さで斬れば、変わる機会は消えます」


 そこへ、戸口が開き、土が軽く鳴った。

 土方歳三が、雨上がりの夜の匂いを連れて入ってきた。眼は冷たく、頬はこわばり、口元は笑っていない。

 静は立って礼をする。

 「副長。——今夜の『裁き』を、始めました」

 土方は板の中央に進み、紙をひったくり、目を走らせた。

 「赦すのか」

 声は低い。

 静は首を横に振った。

 「赦してはおりません。——困らせます」

 隊士の列がひやりと揺れた。

 土方は紙を静に返し、蓮を見た。

 「脛か」

 「ええ。走れねえように。頭が冷える」

 「甘い」

 「辛ぇのは風邪だけでいい」

 蓮の口の利き方は相変わらず粗い。だが今夜は、粗さが必要だった。粗さは、羅刹の前で人を守る盾にもなる。


 土方は静を見た。

 「お前の『風』の稽古を、ここでやるつもりか」

 「はい。人の息を折らずに、息を変える稽古です」

 静は膝を折り、土方に紙を再び差し出した。

 「副長。ひとつだけ、直に『見せ』たいことがあります」

 土方の眉がわずかに動いた。

 静は立ち上がり、北島と村瀬の前に歩む。

 「二人とも、ここに」

 二人が立つ。

 静は刀に手をかけた。

 鯉口を切らず、鞘を握る。

 「——刃は使いません。ですが、身体に覚えてもらいます」


 北島が、わずかに身構えた。

 静は正面から近づかず、半身で入り、鞘の中の刀身を半寸だけ押し出して、そのまま鞘ごと北島の肩へ「ぶつけた」。

 金具が骨に当たる寸前で止め、衝撃は筋に伝える。

 「っ——」

 北島の身体から力が抜け、膝が板を探す。

 次に、村瀬。

 静は鞘の先で村瀬の胸骨の上を軽く叩き、その直後に鞘の腹で広く押す。

 打つのではない。押す。

 息が詰まる。人は息が詰まると、次の息の入り方を知る。

 村瀬は咳をひとつ、出した。

 「痛めつけではありません。——覚えるために痛むのです」

 静は刀を納めた。音は出さない。


 土方はじっと見ていた。

 その眼は羅刹だ。だが、羅刹は、人の痛みを見ないふりができない鬼だ。

 土方は蓮の槍を顎で示した。

 「石突の角度は」

 「骨は避けた。筋で止めた。明日には歩ける。……逃げるには十分遅い」

 「遅いのは、お前の得意だ」

 「現場は遅い」

 ふたりのやり取りは短く、しかし深い水の底で交わる。

 土方は最後に紙を手に取り、皆の前で高く掲げた。

 「見たな。——これは、俺が責を負う。やってみろ」


 静は礼を深くした。

 朝までに「見せる」ことは、これで果たした。

 だが、まだ終わりではない。

 夜半過ぎ、道場を出た静と蓮は、寺へ向かった。田口が厨房に向かう背を見届け、桶屋の主人が約定の半分を抱えるのを確認し、戻る途上、静は蓮に言った。

 「羅刹と人、という言葉があります。——副長はどちらでしょう」

 蓮は鼻で笑った。

 「羅刹は人の裏返しだ。人がいなきゃ、羅刹は立てねえ。俺らが人でいるほど、あの人は羅刹でいてくれる」

 「うまい表現ですね」

 「お前ほどじゃねえ」

 静はひょうひょうと肩をすくめ、風を胸に入れた。夜風は冷たく、だがよく通る。


 明け方、寺の鐘が靄の中で短く鳴った。

 田口は厨房の前に立ち、姐さんに頭を下げた。

 「よろしくお願いします」

 姐さんは木杓子を腰に当て、田口の額を指で弾いた。

 「頭を下げるのは一度だけでええ。明日からは、手を動かし。口は閉じなはれ」

 蓮はそのやりとりを見て、笑いをこらえた。静は目を細め、喉の奥で息を一度、撫でるだけにした。


 屯所に戻ると、土方は庭の石に腰掛け、煙草を持っていた。火はつけていない。咳をしないためだろう。

 静は立って礼をし、蓮は肩で挨拶した。

 「終わりました」

 土方は頷き、煙草を指で折った。

 「明日から、見せろ」

 「毎朝、寺に頭を下げ、夜は隊の便所を洗い、桶屋は銭を返す。——見れば、みな納得します」

 「納得しない奴もいる」

 「その方々には、さらに『困って』いただきます」

 静は微笑んだ。

 土方は立ち上がり、背伸びをして、夜明けの青に肩を向けた。

 「羅刹は、朝が嫌いだ。人でやるなら、朝に強くなれ」


 その日から、見せる「裁き」は毎朝毎夜、続いた。

 寺の井戸端で田口が水を担ぎ、隊の便所で北島が黙々と桶を洗い、村瀬が紙を触らずに砂を掃いた。

 最初の三日は、見物が多かった。笑う者もいた。野次る者もいた。

 四日目から、笑う声は減った。野次る声も減った。

 七日目、田口は粥をこぼさなくなり、北島は桶を持ち替える手の筋が柔らかくなり、村瀬は砂の撒き方を覚え、紙を持っていた手の癖が消えた。

 十日目、桶屋の主人は約定の半分を返しに来た。顔に疲れが刻まれていたが、目は濁っていなかった。

 土方は、道場の戸口から黙って見ていた。

 総司は、柱の陰で、咳の深さを一つ浅くした。

 蓮は、夜回りのあと、いつものように槍を洗った。石突の角に、あの夜の脛の手応えがまだ薄く残っている気がした。

 静は、鞘の腹を布で磨いた。鞘でぶつけた時の微妙な感触は、刀より正確に心へ届く。


 ある晩、村瀬が静の前に立った。

 「……俺は、いつまで困ればいい」

 静はひょうひょうと笑った。

 「困らなくなるまで、です。——困るのを、自分で選べるようになったら終い」

 「終いの印は」

 「自分の息です。息が長く、静かに入る日が来ます」

 村瀬はしばらく黙り、深く吸って、浅く吐いた。

 「まだだな」

 「ええ。まだです」


 北島は、最初、目を合わせなかった。

 五日目、目が合った。

 七日目、口の端が歪まなくなった。

 十日目、雨が降った。

 雨の日の掃除は最も堪える。

 北島は泥に滑り、尻餅をついた。

 蓮が通りかかって、石突を差し出した。

 「立て」

 北島は石突を掴み、立った。

 「……俺は、羅刹になれねえな」

 蓮は鼻を鳴らした。

 「羅刹の目の前で人でいられたら、それで十分だ」

 北島は小さく笑い、初めて頭を下げた。

 人に下げる頭は、重い。だが、一度下げると、次からは軽くなる。


 田口の母が寺へ運ばれてきた日、姐さんが静に耳打ちした。

 「薬が効いてる。もう大丈夫や」

 静は深く礼をした。

 道場にそのことを伝えると、誰かが小さく手を叩いた。

 土方は叩かない。蓮は叩かない。総司は叩かない。

 叩いたのは、若い隊士たちだった。

 翌朝、田口は粥桶を運ぶ時、少しだけ背を伸ばした。


 月替わり。

 土方が道場で短く言った。

 「帳場の仕事に戻したい奴がいる。——村瀬だ」

 ざわめき。

 土方は手で静めた。

 「紙は毒になる。だが、薬にもなる。毒にも薬にもならねえのは、紙を触る手だ。……村瀬、手を出せ」

 村瀬は出した。掌は、砂で磨かれて薄く固くなっていた。墨の黒はついていない。

 「紙は、明日から一日二枚だけ触れ。残りは砂を触れ」

 村瀬は深く頭を下げた。

 静はひとつ頷き、蓮は石突で床を二度だけ叩いた。

 短い祝砲だ。


 夜、縁側で風を吸いながら、静は蓮に言った。

 「第三の道は、いつも狭いですね」

 「狭いから、踏み外さねえ。広い道は走るやつが多い。転ぶやつも多い」

 「羅刹の速さに、人の遅さで対抗するのは、骨が折れます」

 「骨が折れるのは、お前の手じゃねえか」

 「鞘で済ませていますから、骨までは」

 蓮が笑った。

 「上品な意地の悪さも、骨のうちだな」

 「褒め言葉として」

 「いつもその返しだ」


 ふたりのやり取りを、総司が廊の端で聞いていた。

 総司は咳をひとつ、内側に押し込み、目だけで笑った。

 「静、蓮。——羅刹は必要です。人も必要です。必要を取り違えないように」

 「はい、兄上」

 蓮は身を乗り出した。

 「総司さん。必要ってのは、どっちが上だ」

 「風の向き次第です」

 総司の答えは相変わらず軽く、深い。

 その夜、寺の鐘は遠く、月は薄く、風はよく通った。


 やがて、桶屋の返済は終わり、田口の母は寺から帰った。村瀬は紙を二枚から三枚へ増やし、北島は便所掃除の手を他の者に教え始めた。

 便所がきれいだと、足の早い奴が転ぶのが減る。

 そんな小さな効き目が、隊に少しだけならしを生んだ。


 半年後、別の揉め事が起きた時、誰かが口にした。

 「羅刹で行くか、人で行くか」

 蓮は答えた。

「三つ目もある」

 静は笑って、紙と鞘を用意した。


 その夜、静は独り、道場の板の上に座り、鞘を膝に置いた。

 鞘の腹の手触りは、雨の夜と同じ。

 彼は鞘に軽く額を当て、目を閉じた。

「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」

 言葉は声にならず、風に溶けた。

 羅刹と人の境目は、いつだって風が撫でていく。

 その撫で方を、彼らはこれからも、遅く、しかし確かに、覚えていくのだ。

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第七話 向日葵の約定 — 脱走兵の護送


 真夏の陽は、京の空を一枚の火鉢にした。

 壬生を出て西へ、田の匂いが濃くなる。水面は白く光り、空の青を、まるで誰かが不器用に刷毛で塗り残したみたいに、ところどころ落としている。

 静は足袋の底に畦のざらりとした感触を拾いながら、繋いだ縄の先にいる若者の背を見ていた。

 若者の名は与一よいち。まだ頬に少年が残り、目だけがやけに年寄りだった。

 縄は細い。引こうと思えば切れる。けれど、彼は引かない。引かないで、ただ歩く。

 蓮は槍袋を肩に担ぎ、与一の斜め後ろで時々空を仰いだ。

「水を飲め」

 蓮が瓢箪を差し出すと、与一は唇だけで礼を言って、喉の奥で水を転がす。

 水は生ぬるい。だが、喉は味を選ばない。選ぶ余裕が、今は誰にもなかった。


 護送——と言っても、行き先は牢ではない。

 壬生寺の庫裏。田の端で倒れそうな農夫に粥を配る厨房。朝は太鼓、昼は井戸の綱、夜は便所の桶。

 彼を生かすための納所なっしょ、そして彼が償うための場所。

 静が約したのはそれだ。

 土方に言えば、たぶん首を縦には振らない。

 だから朝一番、総司の咳の間に、静は小声でお願いしたのだ。

 生かす剣を選びたい、と。

 総司は咳の合間に笑って、団扇の骨で膝をとんと叩いた。

 「風の向きは、君に任せます。——ただし、追手が来ます」

 「承知」

 蓮は短く、ただそれだけ言って、槍袋の紐を締め直した。


 追手は元同僚だ。

 与一は二番組の下足番から始め、最近は伝令を走っていた。走る足は速いが、息は短い。

 先月、池田屋の後始末で、彼は屍の数を数え損ねた。数え損ねたものは、夜に増える。

 与一は三夜、眠らなかった。四夜目に、走った。

 走った先は家ではない。田の畔で、倒れた。

 見つけたのは蓮だ。夜明け前、白んだ空の下で、誰かが水に顔をつけていた。

「死ぬのは、簡単すぎる」

 蓮はそのとき、誰にともなく言った。

 与一は水から顔を上げ、静を見つけたとき、初めて泣いた。

 静はその涙を、ただ見た。


 畦は続く。

 向こうに、黄色の海がひらけている。

 向日葵の畑。

 京の周りの村々でも、油を絞るために近年よく植わるようになった。高さは背丈を越え、花は揃って東を向く。午の時を越えてもなお、いくらかの花は東を見続ける。意地の悪い比喩が、静の舌先に浮いて、すぐに溶けた。

 向日葵は、生きる意地の花だ。

 静は足を止め、陽に焼けた畦の上で一度だけ深く息を吐いた。汗の塩が唇に乗る。

「ここで一度、休みましょう」

 与一が頷く。

 蓮は槍袋をほどき、柄の根を半ばだけ露出させて畦に水平に置いた。

 畦の幅は、槍の長さと同じくらい。

 この幅が戦になる時、突くより押すが勝ちだ。蓮の手の内は、そのためにある。


 蝉の声は、耳の中で棒のように伸びていた。

 風は湿り、草いきれが鼻を刺す。

 静は与一の縄を解き、手首の赤い痕に井戸の水を染み込ませた布を当てた。

「痛みますか」

 与一は薄く笑った。

「痛い、って言えるうちは、まだ楽です」

「では、痛いと言ってください」

「痛いです」

 その返事は、子供のように正直だった。

 静は頷き、蓮を見た。

 蓮は畦の先、道が曲がる場所を指で示した。

 三、二、そして一。

 蓮が指を折るたびに、静の胸の鼓動は拍に変わる。

 追手。

 影の数は四。

 顔を知っている。二番組の篠田、三番組から回された冨樫、そして巡査の安次郎と、もう一人、名は若い。

 篠田は、羅刹に憧れる顔だ。

 彼の剣は速い。速いものは、短い。

 静の指先が、鯉口へ自然に滑った。


 先に現れたのは安次郎だった。

 汗が目尻に溜まり、肩で息をしている。

「与一——戻れ。戻って、詫びろ」

 声が裏返った。命令よりも懇願に近い。

 与一は喉を鳴らしたが、返事を待たなかったのは篠田の方だ。

 篠田は苛々に顔を塗り、刀を抜くより先に言葉を抜いた。

「おい、沖田の“もうひとつ”。そこをどけ」

「こんにちは、篠田さん。暑いですね」

「挨拶は要らん。務めの場で人情を持ち出すな」

「務めの場で、刀を持ち出す前に人情を持ち出すのが、私の務めです」

 静のひょうひょうは、汗に濡れても乾いていた。


 向日葵畑の入口で、畦は二股に分かれる。

 右は川沿いに細く、左は丘へ緩く登る。

 静は左を、蓮は右を睨んだ。

 押すなら右。

 蓮が槍の袋を外し、柄を一気に引き出した。穂先はまだ布で包んである。

 突くためではない。

 押すためだ。


「与一、下がれ」

 静が言い、与一は向日葵の陰へ身を沈めた。

 蓮が畦に槍を平行に据え、石突を足の内側で軽く支える。

 冨樫が畦の別れ目で剣を抜き、ぬらりと笑った。

「押す槍かよ。男が泣くぞ」

「泣いとけ。お前の涙は、ここでだけ役に立つ」

 蓮の肩の筋が、短く鳴った。

 冨樫が間合いを詰め、穂先の位置を探る。

 穂先は冨樫の目に見える。

 だが、石突は目に入らない。

 冨樫が踏み込んだ瞬間、蓮の槍は穂先ではなく、石突の円で冨樫の腰骨の手前を押した。

 押す、というより、身体の重さで「載せる」。

 畦の土は崩れ、冨樫の足が水へ滑る。

 「うっ——」

 冨樫の膝が落ちた瞬間、蓮は槍を横向きに寝かせ、欄干のように畦の幅をふさぐ。

 突かずに押す。

 それだけで、人は前に出られない。

 畦とは、そういう場所だ。


 篠田は正面から来た。

 静も正面に出た。

 向日葵の背丈が二人の肩を隠し、花の影が頬に斑をつくる。

 篠田の刃は、最初から高く、強く、短い息のまま来た。

 静は刃で刃を受けず、鍔で鍔を受けた。

 鍔迫り合いの音は、蝉の声を割る。

 金属の円と円が、夏の真昼に小さな月と月を作る。

「静。お前はいつだって“半歩”だ。半歩引いて、半歩笑う」

 篠田の息が熱い。

「半歩退くのは、逃げではありません」

「退くのは負けだ」

「退くは生を繋ぐ術。勝ち負けの外にある歩です」

 鍔の円が擦れ、篠田の刃の角度がほんの僅かに外れた。

 静はその外れを見逃さず、鞘の腹で篠田の手首を打った。

 刃は落ちない。

 落ちないが、止まる。

 止まった刃は、言葉を待つ。

 静はそこで言葉を置いた。

「与一は、戻ります。戻って、働いて、償います」

「償いは死だ。武士なら」

「彼は武士ではありません。生きる方の務めがある」

 篠田の眉が寄り、鍔に力が戻った。

 汗が鍔に落ち、鉄の匂いが一瞬だけ夏を凌いだ。


 安次郎は与一の名を呼び続けていた。

「戻れ、与一! 戻れ!」

 与一は向日葵の陰から顔を出し、また引っ込めた。

 目だけが、こちらを見た。

 その目は、朝の池で水から上げたときと同じ目だった。

 静は軽く首を振った。

 ——まだ、出るな。

 蝉の声の帯が、陽の高さを測るように延び縮みする。

 冨樫がもう一度立ち上がった。

 蓮の槍はなおも突かない。

 冨樫は穂先を恐れていない。石突を忘れている。

 蓮は冨樫の脛ではなく、足の甲と畦の間を軽く「撫でる」角度で押した。

 足は自分の重さを勝手に誤る。

 冨樫は勝手に崩れ、勝手に息を吐いた。

「……生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」

 蓮の声は低かったが、向日葵の群れは聞いていた。


 鍔迫り合いは、会話だ。

 篠田の刃が上がれば、静の言葉は下がる。

 篠田の息が詰まれば、静の声は通る。

 「沖田総司の弟ってだけで、許されると思うな」

「許されません。——だからこそ、選びます」

「何を」

「生かす剣を」

 篠田の口角が、皮肉で動いた。

「きれいごとだ」

「きれいごとは、夏に似合います」

「……ふざけるな」

 篠田が力で押す。

 静は力では返さない。

 鍔で受けたまま、足の置き場だけを半枚ずつずらす。

 畦の土は崩れやすい。崩れやすい場所で、崩れない角度を選ぶ。

 静は崩れない。

 篠田は崩れる。

 崩れながら、なおも押す。

 押すのは、速い。

 速いものは、短い。


 その時、向日葵の列の向こうから、もう一つ影が駆けてきた。

 若い顔。頬に陽焼けの斑。息は粗い。

 手には刀ではなく、竹の棒。

 棒は、畦には似合う。

 若者は棒で蓮の槍を叩こうとした。

 蓮は槍を寝かせたまま、石突で棒の腹を受け、とっさに棒の進む方向を「変えた」。

 棒は向日葵の茎に当たり、ぱきりと音を立てて折れた。

 向日葵は倒れず、ただ首だけを震わせた。

 若者の手から棒が抜け、畦に落ちる。

 蓮は穂先で若者の肩の手前を押し、前ではなく斜めへ落とした。

 落ちる方向を選ばせるのが、押す槍の芸だ。

 若者は泥ではなく乾いた畦に膝をつき、目を丸くした。

 蓮は言葉を置いた。

「ここから先は、医者の手伝いに回れ。お前の手は、殴るより担ぐ方が役に立つ」

 若者は顔を赤くし、やがて頷いた。

 頷くのに、勇気はいらない。癖がいる。

 癖は今日から始まる。


 篠田が静の鍔を強く弾いた。

 金属の小さな月がはじけ、蝉の帯の中で星になる。

 刃が浅く静の肩をかすめ、浅い熱が走った。

 静は痛みを数えず、痛みの形だけを知った。

 痛みは知れば、小さくなる。

 彼は鍔が離れた瞬間、鞘を高く上げ、篠田の側頭部へ振り下ろす——のではない。

 振り下ろす直前で止め、鞘の腹で耳の後ろの空気を「叩いた」。

 音は小さく、しかし骨に届く。

 篠田の膝が半歩だけ落ちる。

 静はさらに一歩、足を詰めた。

 刃は向日葵の影に、鞘は陽の下に。

 「斬らずに勝つ。それが、私の剣です」

 「勝ちじゃねえ。逃がしているだけだ」

 「逃がすのは、あなたの怒りです。与一ではありません」

 篠田の眼に、怒りの形をしたものが、ほんの一瞬だけ迷いに変わった。

 迷いは、風の入口だ。

 静はその入口に、言葉を置いた。

「篠田さん。——あなたは与一を『例』にしたい。例は誰かの未来を切ります。今、切るのは彼の未来ではありません。私の、約定です」

「約定?」

「向日葵の約定」

 篠田が笑った。

 真夏の笑いは乾くのが早い。

 「花に誓うのか」

 「ええ。花は、嘘をつけません」


 静は鍔で刃を受けながら、向日葵の根元に埋められた細い杭を目に入れた。

 杭の先に、白い布が結わえてある。

 ここは、畑の所有者が「風向き」で灌漑の水を調整するための目印だ。

 静は半歩ずれ、鞘の端で白い布を打った。

 布が空に跳ね、風の入り方が変わる。

 向日葵の列の間を通る風が、藍の匂いを連れて、篠田の頬を撫でた。

 汗がその風で冷え、怒りは汗と同じ速さで引いた。

 刃の角度が落ちる。

 静はそこで、鍔を押し、刃を下げさせ、鞘で篠田の手首をはたいた。

 刃が畦の草を切るだけで、誰も切らない。


 安次郎が、息を切らしながら言った。

 「与一! お前、ほんとに戻るんだな!」

 向日葵の影から、与一が一歩、出た。

 縄は、もうない。

 代わりに、帯が固く結ばれている。

 彼は膝をつき、静の前で深く頭を下げた。

 土に触れた額の位置に、小さな向日葵の影が落ちる。

 静はその影に目をやり、ゆっくりと頷いた。

「戻ります。寺の厨房で、朝から晩まで。——ひまわりの種の油は、秋に絞りましょう。あなたの手で」

 与一は顔を上げ、陽に眩み、目を細め、笑ったのか泣いたのか分からない顔でうなずいた。

 篠田は刃を収めた。

 収める音は、蝉の帯の中で、ひどく人間らしかった。


 護送は、再開した。

 向日葵の畑を横切るには、畦の曲がりくねりに従うしかない。

 蓮は槍を再び布で包み、肩に担いだ。

 追手の足は、もう前へ出なかった。

 冨樫は泥に座り込み、若者は折れた棒を手に、茫然と花を見ていた。

 安次郎は与一の背を軽く叩き、篠田は何も言わず、汗を拭った。

 静は、歩いた。

 蝉の声は、さっきよりも薄くなった。

 風が、よく通る。


 畦の切れ目で、蓮がぽつりと言った。

「静。約定ってのは、何だ」

「向日葵は、毎年、東を向いて咲きます。誰かが西を向いても、東を向きます。……与一が迷ったら、ここへ来て、花の向きを見る。私たちも」

「俺もか」

「ええ。あなたは、押す方向を覚えています。——押すべきものを、時々忘れます」

「俺は、忘れてる方が楽に押せる」

「そういうところが、あなたの長所であり、短所です」

 蓮は鼻を鳴らして、笑いを半分だけ見せた。

「約定か。……花に誓うのは悪くねえ」

「花は裏切りません」

「人は?」

「人は、裏切る術を覚えています。だから、約定が要るんです」


 昼を越え、陽が少しだけ傾いた頃、壬生寺の白い壁が見えた。

 与一は足を止め、寺の門前で深く礼をした。

 寺の中から、姐さんが走り出てきて、腰に手を当てた。

「来なはれ。粥の米は重いでえ」

「はい」

 与一の声は、朝より太かった。

 蓮が槍を壁に立てかけ、静は庫裏の前で足袋を直した。

 土方が出てくる気配はない。

 総司の咳が、奥の方で一度だけ転がり、止まった。

 静は襖の端で軽く頭を下げ、声をかけた。

「戻りました」

 返ってくるのは、団扇の骨が膝を叩く軽い音。

 それで十分だった。


 夜。

 向日葵畑に、月は上らない。

 だが、花の裏に夜風は通う。

 篠田は帰路、畦の途中で立ち止まり、花を一つ、見上げた。

 誰にも見られていない場所で、彼は小さく笑った。

 笑いは、昼より長かった。

 冨樫は泥を洗い、若者は折れた棒を寺の薪に変え、安次郎は与一の隣で桶を担いだ。

 向日葵は、誰の名も知らない。

 知らないまま、東を向いて立つ。


 明くる朝。

 与一は粥の釜の前に立ち、木杓子を握った。

 寺の鐘の音は、昨日より柔らかかった。

 蓮は井戸の綱を引き、静は庫裏の陰で風を吸った。

「静」

「はい」

「昨日の鍔迫り合い、きれいだったな」

「ありがとうございます」

「きれいすぎて、少し腹が立った」

「それは困りました」

「困らせとけ、ってお前、前に言ったろ」

「言いました」

 蓮は肩で笑い、桶の水を陽に透かした。

 水は透明ではない。透明に見えるだけだ。

 その曖昧さを、静は嫌いではない。


 昼過ぎ、土方が庫裏に現れた。

 目の下に影、口元に固い線。

 「与一は」

 「粥を運んでいます」

 土方は頷き、短く言った。

 「今度、逃げたら」

 「その時は、逃げ道を塞ぎます。——生きて、困らせるために」

 土方は静を見て、蓮を見て、短く鼻を鳴らした。

 「羅刹は、昼は眠い」

 「人も、昼は眠いです」

 「起きてろ」

 「承知」

 羅刹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 夕方、静は一人で向日葵畑へ向かった。

 陽は西に落ち、花はなお東を向く。

 畦に腰を下ろし、両手を土に置く。

 土は温い。

 向日葵の葉の裏を風が撫で、葉脈が音をつくる。

 静は袖から細い紙片を取り出した。

 『向日葵の約定』

 紙には、三つの短い文。

 ひとつ、生きること。

 ひとつ、働くこと。

 ひとつ、迷ったら東を見ること。

 紙は誰にも見せない。

 向日葵にだけ見せる。

 花は読めない。

 読めないが、覚える。


 畦の向こうで、子どもが走った。

 笑い声は、高く、細く、夜に持っていけない。

 静は立ち上がり、足袋の埃を払った。

 鞘を軽く撫で、刀の重さを確かめる。

 重さは変わらない。

 変わらないものを、どう使うか。

 それが、彼の剣の仕事だ。


 壬生へ戻る道で、蓮が追いついた。

 槍は袋に収まり、肩は軽い。

 「静。向日葵は、来年も東を向くかね」

 「向きます。——きっと」

 「“きっと”か」

 「ええ。“必ず”より、少しだけ強い言葉です」

 「お前の言葉は、やっぱり上品に意地が悪い」

 「褒め言葉として」

 「そればっかりだ」

 二人の影は長く、道はまだ熱かった。

 空の端に、雲が小さく生まれ、ゆっくりと伸びる。

 夏は長い。

 長いが、終わる。

 終わる前に、約定をひとつ置いておく。

 それが、彼らのやり方だった。


 夜、与一は布団に倒れ込みながら、小さく言った。

 「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」

 昼、蓮が言った言葉を、彼は口の中で繰り返した。

 言葉は、時々、水よりも喉を潤す。

 明日の朝、また粥を運ぶ。

 向日葵の種を干す。

 油を搾る秋まで、生きる。

 それから先のことは、向日葵に聞けばいい。

 向日葵は東を向き、彼はそれを真似る。

 真似ることから、始めればいい。


 静は縁側に腰をかけ、夜の風を胸に入れた。

 兄の咳は、今日は浅い。

 土方の足音は、奥で止まった。

 蓮の槍は、壁に立てかけて眠っている。

 彼は目を細め、闇に溶ける向日葵の姿を想像した。

 花は夜でも東を向く。

 それで十分だ。

 彼は、目を閉じた。

 風が通り、約定は胸の底で静かに灯り続ける。

 斬るより困らせる方が、案外こたえる。

 夏の夜は、その言葉をゆっくりとほどき、また結び直して、明日に渡した。

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第八話 月影替え玉


 流言は、いつだって紙の軽さで広がる。

 ——今宵、沖田総司、帰路にて斬らるべし。

 字は上手すぎず、下手すぎず、匂いは油。紙の端は濡らされて、風で飛ばぬようにしてあった。貼られた場所は木屋町の辻、三条から四条へ下る間の、灯籠の影が交わるところ。紙は夜に似合う。夜は紙を信じやすい。


 屯所には夕立の名残の湿りが漂っていた。廊の板は薄く汗をかき、障子紙はわずかに膨らむ。

 静は板の間に膝をつき、兄の羽織を手に取った。浅葱。袖を通すと、肩の縫い目が小さく笑った。兄と自分の骨格はほとんど同じだ。鏡の前に立てば、親でも一瞬は迷うだろう。

 ——だが、歩幅が違う。

 ひと足の長さは、骨と癖の和で決まる。兄の歩は「風」に乗って少し伸びる。自分の歩は「間」を測って、少し詰める。

 蓮はそれを知っている。

 彼は槍袋を肩に担ぎ、静の背から半歩の距離に立って、笑いを歯の内側で転がした。

「顔は瓜二つ、足は別人。……そこを嗅がれるぞ」

「ええ。ですから、嗅がせます。嗅がれてから、離します」

「離す?」

「光で、影の長さを変えるのです」


 土方は、廊の端で無言のまま煙草を指で折った。火はつけない。

「好きにやれ。ただし、帰ってこい。総司は出さねえ。お前が出ろ」

「承ります」

 総司は柱に寄り、団扇でひとつ、膝を軽く叩いた。咳は浅い。

「静。君の“風”は、今夜は灯の側にあります。……蓮、影の仕事は、君が上手い」

「任せろ。影は長くも短くもできる。棒の届くところならな」

 静は微笑み、羽織の襟を整えた。

「兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい」

 言ってみて、胸の内に波が立つのを自分で確かめる。波は、怖れと誓いの混じり合いだ。


 木屋町へ向かう道は、雨上がりの石畳が薄く光っていた。高瀬川の水音が板塀の裏で鳴り続け、湿った草の匂いが鼻奥に細い線を引く。

 静は兄の歩幅を借りるように、踵とつま先の間隔を半枚伸ばした。肩をわずかに落とし、肘を狭くする。兄は「風」で衣を軽く揺らす。自分は「間」で衣を止める。それを逆さに真似る。

 人払いは、最小限。蓮は影の側を走る。屋根の樋の下、軒と軒の間、灯籠の根元。石突で土を撫でて、合図を送る。三つ——二つ——ひとつ。

 今宵、通りは祭りではないが、客は“散る祭り”のように小さく集まり、小さく流れる。灯籠の数は多すぎず、少なすぎず。静は灯の位置を目に入れ、影の角度を胸で測った。


 最初の刺は、視線だった。

 格子越しに酒を舐める男の目。提灯売りの少年の目。道の端に置かれた籠の中の猫の目。

 目は嘘をつかない。ただ、言わない。

 静は目に礼をし、足に嘘を乗せた。兄の“風”を借りる足。

 ——真似は似せる手段ではなく、差を際立たせる稽古だ。

 差は消えない。消さない。

 刺客が嗅ぎ取るべきものを、嗅ぎ取れるように整える。

 嗅ぎ取らせる場所は、こちらが選ぶ。


 最初の辻。川に近い角。灯籠が二つ、等間隔に立っている。

 影は、二本できる。

 静は灯籠の手前で、一拍だけ歩を詰め、次の一拍で半歩だけ伸ばした。影は、長くなり、短くなり、長くなる。

 屋根の上で、蓮の石突が板を軽く叩いた。——「見ている」。

 見ている者は、息が変わる。

 薄い息が、ふと濃くなる場所。

 それが、刺客の呼吸の輪郭だ。


 木屋町三条。川沿いの柳が濡れ、葉が影を細く裂く。

 静は柳の下で、兄の咳の模倣をしなかった。

 咳は、借りられない。

 代わりに、団扇の骨を膝に軽く当てる。音だけを借りる。

 足の裏で石畳の目の幅を数えていると、背中に「違和」が寄ってきた。

 違和は匂いにも音にも混ざる。

 草履の歯が古い音。右の踵が少し高い。呼吸が左に寄っている。

 ——浮脚うきあし

 浮脚は、走る前の足だ。

 総司は走る前に息を薄くし、浮脚を消す。

 自分は走る前に息を短くし、浮脚を“見せる”。

 今夜の“総司”は、浮脚を残した。


 刺客は賢い。

 「総司」を知っているのは、噂よりも現場だ。

 浮脚の一枚で、彼は悟るだろう。

 悟る、なら——ここで悟れ。

 静は灯籠と灯籠の間に、兄より半歩長い歩を置いた。

 影が、予定より長く伸びる。

 次の瞬間、背中の空気が「決まる」。

 刃が、来る。


 音は、風よりも先に皮膚へ届いた。

 抜き付けの乾いた音。

 刺客は狭い角を選び、左から右へ斜めに切り落として「頸」を狙う気配をまとっていた。

 静は半身のまま、鞘の腹で空気を押し、刃の前に「幅」を置いた。

 金属は、幅に弱い。

 刃は風のように通るのではなく、線のように通る。

 線の前に幅を置く。

 打つのではない。先に、置く。

 刃はそこで、わずかに遅れた。


 「偽物だな」

 耳の脇で、刺客の声が笑う。

 静は笑いで返した。

 「本物は、今夜は風の側です」

 刺客の腕は軽い。利き手は右、肘の内側に古傷。雨で柔らかくなった畳の匂いが袖に残る。道場の人間だ。

 足運びは汚くない。だが、怒りが足と一緒に出てくる。

 怒りは、音を重くする。

 静は鍔で刃の根元を横に送って、相手の肩を自分の肩と「平行」にした。角度を奪う。

 奪った瞬間に、灯が揺れた。


 蓮が動いたのだ。

 屋根の端から槍の柄が伸び、灯籠の鎖を軽く持ち上げる。

 灯は高くなり、影は短くなり、次の刹那には、蓮が鎖を“落とした”。

 灯は低くなる。

 影が伸びる。

 影の長さは、歩幅の嘘をつく。

 刺客は嘘を嗅いだ。嗅いで、判断をひとつ間違えた。

 「離れた」と思い、詰めた。

 そこに、静は「置いて」いた。

 鞘の角を、相手の手首の腱に。

 刺客の指が「開く」。

 刃は、石畳に薄くキスをし、音が夜に飛ぶ。


 第二の影が、斜め上から降りた。

 屋根から、雨樋を伝って。

 静は目だけで追い、身体は追わない。

 追うのは蓮。

 蓮は屋根から屋根へ移り、石突で降りる影の膝を「止めた」。

 止めるのは打つことではない。——道を変えることだ。

 膝は前に落ちるつもりだった。蓮は横へ落とさせた。

 影は板塀に肩をぶつけ、息で自分の肺を殴り、目の中の光をひとつ落とした。


 「顔は、沖田」

 最初の刺客が唾を飛ばし、静の目を測る。

 「歩きは、違う」

 「ええ。兄の歩は風で、私の歩は間です」

 「間で斬れるか」

 「斬りません」

 静は言葉を置きながら、足の置き場を一枚ずつ「掃除」した。

 石の目に溜まった雨を、爪先でそっと押し、滑りを消す。

 刺客はその「掃除」を見ていない。刃の先だけを見ている。

 刃の先は、夜を長くする。

 静の鞘は、夜を短くする。


 第三の影は、灯の裏で息を殺していた。

 ——息が薄い。息が薄いのは、怒りではない。

 待ちの息。

 待ちの息は、蓮が嫌う。

 石突が、灯籠の脚に軽く触れ、灯は左右に「微笑む」。

 影は、笑いが嫌いだ。

 笑いの拍子に、足が出た。

 静はその足の「指」に鞘の先を置いた。踏むのではない。置くだけ。

 置かれると、足は自分で止まる。止まると、身体は言い訳をする。

 言い訳をする身体の胸に、静は言葉を置いた。

 「生きて、困ってください」


 刺客は三。

 刃を完全に落としたのは一。

 残る二は、刃を持ち直し、腹で勝つ気を新しくした。

 勝つ気は、光に似て反射する。

 その光を、灯籠の光で上書きする。

 静は灯籠と灯籠の間に入り、身体を「白」に晒した。

 顔は兄。肩も兄。

 だが、影の長さだけが、兄と違う。

 違いを見せたまま、再び偽装する。

 蓮の槍が、灯の鎖を持ち上げる。静は灯に近づき、影を短くする。次に、灯から離れて、影を長くする。

 刺客の目に映る「総司」の影は、風と間の両方を持った。

 目は、迷う。

 迷いは、刃の内側に現れる。

 静はその内側に、鞘の腹で「広さ」を置いた。


 鍔迫り合いは、会話だった。

 刺客の息が荒れれば、静の声は静かになり、刺客の手が震えれば、静の視線は暖かくなる。

 「お前は総司じゃない。だが、総司の影は持っている」

 「ええ。借りました。今夜だけ」

 「影が泣くぞ」

 「影は、泣いてくれます。涙は私の方から拭います」

 言いながら、静は刺客の手首を鞘の角で「三度」叩いた。

 一度目は皮膚に、二度目は筋に、三度目は記憶に。

 記憶を叩くと、手は自分から開く。

 刃は、地面で眠る。


 蓮は二人目の膝を「道から外し」、三人目の肩を「壁に寄せ」、槍を長いまま、しかし突かずに押し続けた。

 「動くな。動けば、痛い」

 痛い、と言われて動くものはいない。

 動くものは、動くつもりだった者だけだ。

 そのつもりを、蓮は槍で奪った。

 槍は奪う道具ではない。——選ばせる道具だ。

 前に転ぶか、横に座るか。

 彼は今夜、横を選ばせた。


 「誰の差し金です」

 静は最初の刺客に問うた。

 刺客は唇を開きかけ、閉じ、歯で自分の言葉を噛んだ。

 噛む音は小さく、だが「紙」の匂いが口からこぼれる。

 紙の匂いは、油と墨の交わり。

 「紙で命は動かない」と人は言うが、動く。

 蓮が石突で地を軽く叩く。

 「口を閉じる自由はある。だが、今夜は紙の自由を奪いに来た」

 静は灯へ一歩寄り、刺客の顔を白に晒した。

 「——帳場の手、ですね」

 刺客の眼が、ほんのわずかに泳いだ。泳いだ先は北へ。

 「油小路の、材木問屋の奥に座る手」

 薄い笑いが刺客の喉に引っ掛かった。

 「……お前ら、なんでも見てるな」

 「見えないものは臭いで嗅ぐだけです」


 蓮は二人の刺客を石突の「円」で座らせ、両の手首を帯で軽く縛った。

 静は残る一人の足元に鞘先を置き、彼の息が落ち着くまで待った。

 待つ時間は、刃より長い。

 長い時間は、人を柔らかくする。

 柔らかくなった言葉は、紙に似る。

 紙に似た言葉は、火に弱い。——今夜の火は灯籠ひとつで足りる。


 「戻りましょう」

 静が言うと、蓮は頷き、灯の鎖を指で鳴らした。

 灯は本来の高さに戻り、影は夜の規則のもとへ帰る。

 歩き出す前、静は灯の根元に貼られた“斬り文”の端を、そっと指で割いた。

 紙の繊維が、夜の湿りの中で細く鳴る。

 「紙は、彼らの武器です。——なら、紙で困っていただきましょう」

 蓮が笑う。

 「上品に意地が悪い。好きだぜ、そのやり口」


 材木問屋の奥は、夜でも熱かった。板戸の裏の帳場は、昼の熱を溜め込んでいる。

 灯の油は新しい。筆は乾いて、毛先が立っている。

机の上に、紙の束。

 『沖田総司、今宵帰路にて……』の同類が十枚。行き先だけが違う。

 静は一枚一枚をめくり、墨の濃淡を目で撫でた。

 濃いのは、今日書いたもの。薄いのは、昼に書いたもの。

 筆跡は同じだ。

 帳場の手は、静の指の音を聞いていた。

 男は三十半ば、指に墨の染み、鼻の横に小さな古い瘡痕。

 「商いは、紙で回る。命も、紙で回る。違うか」

 男は正面から言った。

 静は微笑し、紙を二つに「割いた」。

 破り捨てはしない。割って、重ねる。

 重ねると、紙は厚くなり、透けない。

 「透けないのは、良いですね。——見えない方が、困る」

 男の喉がひとつ動いた。

 蓮は石突で床を軽く叩き、言葉を落とす。

 「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」

 言葉は帳場の木口に染み込み、紙の束の重みを一枚だけ重たくした。


 帰路、川風がようやく夜の湿りを薄めた。

 静は兄の羽織の襟を外し、肩で風を受けた。

 兄の歩幅は脱ぎ、己の歩幅に戻す。

 戻すと、心が静かになる。

 ——借り物は、返すほどに自分が軽くなる。

 蓮は屋根から降り、槍袋に柄を収めた。

 「影の仕事は、灯が味方だと楽だな」

 「灯は、嘘も照らします。——だから、灯の前では上手に嘘をつかないと」

 「やっぱり上品に意地が悪い」

 「褒め言葉として」

 蓮は肩で笑い、石畳に落ちた水を足で払った。


 屯所に戻ると、土方はまだ起きていた。

 庭石に腰掛け、火をつけていない煙草を指で折り、折り目を爪でなぞる。

 「戻ったか」

 「はい」

 「斬ったか」

 「斬っていません。灯で困らせました」

 土方は鼻を鳴らし、片方の口角だけで笑った。

 「影の稽古は上出来だ」

 総司は柱の陰に立ち、団扇を膝に置いて、静を見た。

 目は笑い、咳は浅い。

 「君の“間”は、灯の側でよく働きますね」

 静は礼をした。

 「兄の影を借りて、返しました」

 総司は頷き、団扇で自分の胸を軽く叩いた。

 「影は借り物ではありませんよ。君の影は、君のものです」

 静は、その言葉を胸の内で一度“割り”、重ね、厚くした。

 透けなくして、しまっておく。


 夜半、静は縁側に座り、自分の足袋の裏を撫でた。

 石畳の目の幅、灯籠の鎖の長さ、蓮の石突の円、刺客の浮脚の癖。

 今夜の夜の帳面は、紙ではなく、足裏に書かれていた。

 風が柱の角を撫で、虫が遠くで鳴いた。

 静は目を閉じ、胸の奥の波をもう一度確かめた。

 騒がしい波は、静かに静かに、岸を作る。

 その岸に、今夜の言葉をひとつ置いた。

 ——兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい。

 その騒ぎに、灯の光をひとすじ落とす。

 光は寝床を探し、最後は影に寄り添って眠った。


 数日後、木屋町の斬り文は消えた。

 紙は紙のまま、蔵に積まれ、日の目を見ない。

 材木問屋の帳場の手は、寺の物置で毎朝掃除をし、夜には紙でなく箒を持った。

 刺客の三人は、膝の痛みと共に、長い息を覚えた。

 蓮は新しい鎖の音を練習し、灯が高く低くなる拍子を身体で覚え、石突の円を少し磨いた。

 総司は、咳の合間に団扇の骨で膝を叩く癖を、少しだけ減らした。

 静は、兄の羽織を箪笥に戻し、袖の裾を撫でてから、扉を閉じた。

 顔が似ていても、背負う風は別。

 歩幅が違えば、影の長さも違う。

 それで良い。

 灯籠の光で影の長さを偽装した夜は、ただの稽古だ。

 本当の影は、偽装しない。

 それを確かめるように、静は縁側の影に自分の足を一枚、二枚と置いた。

 足は、いつも通りの長さで、そこにあった。

 そして、夜は、ゆっくりと薄明へほぐれていった。

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