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影双譚(かげふたつたん)

第一話 影双 — 池田屋・別口突入


 雨上がりの京は、湿り気を含んだ灯がやわらかく滲む。祇園の横町を抜ける風が、油の匂いと藁の匂いを順に運んだ。

 静は草履の緒を軽く指で整え、足裏に木の感触を確かめる。息を一本、細く吐く。風の向き、灯の高さ、足音の速さ——すべてが「間合い」に変換されるのを、体の奥で確かめた。


 今夜の“表”は近藤・土方が担う。池田屋の表口はざわめきの極みになる。静と蓮の任は“裏”。逃げ道を塞ぎ、できれば策を回す頭を生け捕る。

 宿の裏手に回り込む細道には、酒蔵へ通じる勝手口があると密偵は言った。静は軒の端を見上げる。板戸の上に吊るされた灯籠がゆらりと揺れ、金具が小さく乾いた音を鳴らした。


「静」

 背後で蓮が低く呼ぶ。槍は袋から半分だけ覗き、石突が夜露を弾いた。

「合図が来たら、一気にいく。裏木戸は俺が割る。お前は酒蔵へ滑り込め」


「はい、蓮。——割る際は、二拍子目でお願いできますか。私がひとつ、息をさきに置いておきたいので」

 静は肩だけで笑った。ひょうひょうとした声音に、蓮は短く鼻を鳴らす。


「了解。……それと、顔を見せるのはお前の役目だ。兄貴に似てる顔だ。賭ける価値はある」

「似てる、というのは便利な悪事です。私の良心はいつも困っています」

「困らせとけ。後で俺が酒を奢る」


 表の方から、遠雷のような、しかし確かな殺気のうねりが近づいてくる。表口での突入が始まったのだ。歓声と悲鳴の境目のような叫び声が一つ上がる。

 静は首をわずかに傾け、風の音に耳を澄ませる。蔵の板の向こう側——二歩、いや三歩先に人の気配。低い囁きと、布擦れ。逃がしの準備に違いない。


「行くぞ」

 蓮の囁きと同時に、裏木戸が石突で跳ね上がる。木戸と柱の間に入った楔が砕け、音は短く鋭く、直後に静の足が影に吸い込まれた。


 酒蔵の空気は生ぬるい酒気と木の匂いに満ちている。樽の列がつくる闇の柱の間を、静の足運びは水面を滑るように進む。

 今夜の静は刺すために来たのではない。逃げ道を塞ぎ、喉元に冷たい言葉を置くために来た。斬らずに勝つ——そう決めた時の身体は、なぜか軽い。


 樽と樽の隙間を抜け、梁に吊られた小さな灯りの下に影が二つ、三つ。短い裃に野暮ったい町人風の装い。声だけは良く回る。

 ——裏手は押さえたと聞いたぞ。

 ——表が騒がしい。早う出ろ。

 ——道はこっちや。


 静は、その場で一度だけ深く頭を垂れた。礼をするふりをして、足運びを切り替える。灯りの手前、一足一刀の外。居合の鯉口がわずかに鳴る。


「こんばんは。私、新選組でございます」

 柔らかい声が、酒蔵についた埃の粒まで撫でるように行き渡った。


 男たちがぴたりと固まる。灯が静の顔を照らす。

 その瞬間、誰かが舌打ちして吐いた。


「沖田——ッ!」


 顔が似ている。静は知っている。その事実は刃より速く、噂より強い。

 男たちの視線が一斉に静へ集まった瞬間、蓮が戸口を塞ぐように滑り込み、槍を横に構えた。蔵内で長物は不利——それでも蓮は穂先を寝かせ、逆手に持ち替える。柄は短く、突きは一間。

 「逆手一間突き」。間詰めでこそ活きる、蓮の裏技だ。


 最初の男が飛びかかる。短刀。

 静は鯉口を切り、しかし抜かない。鞘を握った左の肩をわずかに前に出し、刀身を半寸だけ押し出す。鯉口の金具が相手の手首を打ち、短刀の軌道が逸れる。

 右の手の内を返し、そのまま柄頭で相手の顎を打つ——乾いた音。男は樽に背をぶつけ、肩から崩れた。


「おや、失礼。痛かったでしょうか。……ご安心を、致命ではありません」

 静の言葉に、二人目が怯んだ。そこで蓮の槍がすり抜ける。

 穂先は胸を狙わない。脇の下——筋肉の薄いところに軽く刺す。血は出るが、死なない。男は悲鳴を噛み殺し、膝が折れる。

「寝てろ。命は拾ってやる」


 蔵の奥から、もう一つの気配。

 静は灯の位置を確かめた。梁から吊られた灯の揺れは、外の風より内の動きに敏感だ。誰かが梯子を降りる気配。地上ではない。——上に、間がある。


 静は木箱に足をかけ、音を立てずに身を持ち上げる。梁の上は埃が薄く、つい先ほど通った跡が一本、走っている。

 そこへ——

 表からの怒声が、蔵の板壁を震わせた。短く鋭い金属音。近藤の太い声、土方の短い指示が重なる。表は表で火花が散っている。

 揺れた灯の影が一瞬だけ長く伸び、梁の上の男の袖を舐めた。静はそこへ指先で風を置く。鞘から、刀身が風より静かに滑った。

 抜いたことすら音にならない。居合の初太刀は空を斬らず、灯の紐を斬った。灯は落ちかける瞬間に炎を吐き、すぐさま静の指が陰を作って風を断った。火は消え、闇が落ちる。

 落ちた灯の鈍い音に驚いた梁上の男が、体勢を崩す。木粉がぱっと舞う。

 静は鞘で梁を叩き、男の足を外させた。梁から落ちた男は背から樽の上に落ち、息を吐き切る。


「蓮、二」

「了解。三は?」


「まだ、いますよ。上に」

 静が囁くと同時に、蔵のさらに奥、戸袋の裏から布の擦れる音。

 逃げ道だ。勝手口のさらに裏、路地へ抜ける腰高の戸。そこを使うには、酒樽を二つ、横へ動かす必要がある。

 蓮が槍の石突で床を軽く打つ。合図。

 静は樽の縁へ掌を置く。樽は満ち、重い。ひとりで動かすのは骨だ。普通なら。


「重いのは、難です」

 静はひょうひょうと呟いて、樽と床の間に座布団ほどの隙間を作った。木片を楔のように差し込む。てこの腕を変えれば、重さは性質を変える。

 蓮の槍の柄が、そこに差し込まれる。二人で息を合わせる。

 ——引く。

 樽が鳴く。

 ——止める。

 楔がすべり込む。

 ——押す。

 床板がわずかに軋む。

 動いた。


 腰高の戸の前に、影がひとつ。影は短い。小柄。だがその手にある包みは、身体の割にいささか大きい。

 包みの端から、薄い紙の匂い。書付か。名簿か。

 静は樽の影に身を半分隠し、声をかけた。


「そこの方。——危ないですよ」


 影がびくりと揺れ、包みを抱え直す。

「来るな!」

 幼い声ではない。女の声でもない。声帯に砂が混じったような、煙草と夜更かしの付き合いが長い声。

「足を引いた方がよろしい。戸板の釘が、外れております」

 静が半歩、影に寄せる。

 影は躊躇なく戸を蹴った。

 戸は内側に倒れ、外気が流れ込む。夜の冷気。路地。

 ——そこへ、蓮の槍が横に走った。


 槍は突くものだが、横に走らせれば、それは欄干にもなる。戸口の高さに穂先を通し、影の鳩尾の手前でぴたりと止める。

 影は立ち上がりきれず、腹を槍に乗せるように折り曲がった。

「ぅ、げっ……」

 胃の中のものを吐き出すより前に、息が止まる。

 静はそこで初めて抜いた刀を見せる。刀身は灯を失い、ただの線にしか見えない。

 彼は笑ってみせた。


「私、沖田静と申します。兄は総司。どちらでも斬れてしまうのが難でして」

 影が息を呑む。その一瞬で、包みが床に落ちた。蓮が槍の石突で包みを押さえる。

「……持ってくぜ。中身は後で御用だ」


 影はなおも目を泳がせ、戸口の外をうかがった。路地の暗がりの先に、別の影が二つ。

 挟みだ。

 静は右足だけを半歩、外へ滑らせる。闇の中の足運びを見たことがある者には、たぶんそれだけで十分に伝わる。

 刃が、来る前に。

 彼は鞘を上段に振り上げ、板戸の残骸を叩く。大きく、しかし意味のない音。

 外の影が一瞬たじろいだ。

 そのたじろぎの分だけ、蓮の槍が前に出た。石突が路地の土を鳴らし、穂先が正面を牽制する。

「おーい。今なら、逃げたい奴は右に回れよ。左は死ぬ」

 軽口。だが嘘は混じっていない。左手側には土方の隊が詰める路。右は行き止まり。逃げられないが、死にはしない。

 影たちは、右へ流れた。

 静は、目の前の小柄な影に向き直る。

「では、あなたは残ってください。お話を伺いたい」

 小柄な影は、ようやく静の目を真正面から見た。そこで初めて、静はその目が「敵方の兵」ではなく、「策を回す者」の目であると理解した。

 逃げ足より先に考えが動く。だから足が遅い。

 この手合いは、刃より言葉が効く。


「名乗りは不要です。ですが、帳面は必要です。それと、裏で繋がる名も」

 静は刀を鞘へおさめた。

 “音を立てずに抜いた刀は、音を立てずにおさめる”。それが、彼の流儀だった。


 ——表で、歓声が一段と高くなった。斬り結びの波は峠を越えつつある。

 蓮が包みを開き、薄い紙束をぱらぱらと捲る。

「金の流れ、宿の手配先、武器の搬入……。やるじゃねえか、坊や」

 小柄な影は唇を噛み、沈黙する。かすかに震える喉。

 静は、その震えを責めない。

 代わりに、きっぱりと言った。


「生きて、困ってください」


 影の目が揺れる。

 静はその視線を真っ直ぐ受け止めた。ひょうひょうとした顔の奥で、熱のようなものが小さく灯る。

「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです。……ね、蓮」


「同感。死ぬのは簡単すぎる」

 蓮が槍の柄で軽く床を叩くと、蔵の外から二名、隊士が飛び込んできた。

「裏、確保」

「こっち、三。生け捕り一、紙束一」

 手筈どおり、引き渡しが済む。

 蓮が槍の穂先に輪っかを嵌め、穂を布で包む。狭所での血の匂いは避けた方がよい。

 静は蔵の入口で軽く首を回し、肩の重さを確認した。体はまだまだ動く。

 ——表へ、行くか。


 表へ出ると、雨上がりの石畳に灯の粒が散らばっていた。池田屋の表口は破られ、戸障子は割れ、廊へ転がる下駄や刀の鞘が転戦の痕を示す。

 静は足音を柔らかくして、廊下を抜けた。

 客座敷では、数名が取り押さえられ、袖が破られ、畳の縁に血が点々。

 その中央に、兄がいた。

 沖田総司。

 咳をひとつ、ひどく軽く。袖口で口元を押さえ、その眼だけは澄み切っている。

 静と目が合う。

 総司は、わずかに首を傾げ、笑った。


「遅いじゃないですか、静」

 ひょうひょうとした声が兄にも似ている。だが花の香りが違う。

「おや、兄上。表はお忙しそうでしたので、裏で困らせておりました」

 静が礼を軽くすると、総司の視線が静の後ろ、蓮へ滑る。

「槍、よく働いたでしょう」

「当たり前だ。俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」

 蓮が肩で笑い、槍の柄を軽く叩く。

 総司が一度、笑って、軽く咳込んだ。

「……大丈夫です」

 静はその言葉の先を取らず、ただ頷いた。兄がそう言った時は、本当に大丈夫な時と大丈夫でない時がある。だが今は、言葉の方を支えるべきだ。


 土方が帳面を受け取りに寄ってきた。

「裏はどうだ」

「逃げ道は塞ぎました。策を回す者と思しき一名、生け捕り。帳面は蓮が」

 蓮が紙束を差し出す。土方の目が刃のように細くなる。

「上等だ。——お前ら、よくやった」

 褒め言葉は短い。だが隊士はそれで十分に動ける。


 戦の熱が引いていくのに合わせて、夜風がひやりと肌を撫でた。

 廊の端で、静は一度だけ外を見た。

 祇園町の灯の群れが遠くで揺れている。花街の音が、うつつと夢の境目のように薄く響く。

 自分がここにいること。兄と並び、蓮がいること。

 似ている顔を武器にすること。

 それが、時にどれほど残酷で、どれほど効率的か。静は知っている。

 似ている顔であればこそ、敵は怯み、味方は迷う。

 それでも静は、今夜を選んだ。斬らずに勝つ夜を。


 帰途、石畳に雨が戻り始めた。粒は細く、夜の匂いを洗うほどではない。

「静」

 蓮が隣に並ぶ。槍は布に包まれ、音を立てない。

「裏、楽しかったか?」

 静は肩をすくめる。


「楽しい、というよりは……そうですね、作法の良い勝負でした。相手にも、私たちにも」

「作法ねえ。お前は茶席でも人を追い詰められそうだ」

「茶杓の跡は嘘をつきませんから」

 蓮が笑い、雨が少しだけ強くなる。


「さっきの台詞、よかったぞ」

「どれでしょう」

「『どちらでも斬れてしまうのが難でして』ってやつ。敵の顔色が変わった」

 静は小さく、ひょうひょうと笑った。

「困りますねえ。私の良心が、また」

「困らせとけよ。生かして困らせる、だろ」

「ええ。生きて、困ってもらいましょう」


 二人は壬生へ向かって歩く。夜は、先ほどまでの刃のきらめきを吸い込んで、しっとりと落ち着きを取り戻しつつある。

 ふと、静は歩幅を半歩だけ広げてみた。兄と自分の歩幅の違いを思い出す。

 兄の歩は舞のように軽やかで、静の歩は影のように薄い。

 どちらも同じ速さで、違う場所へ到る。


 壬生寺の鐘が、雨に濡れた空気を震わせた。

 静は振り返らない。

 彼には、同行者がいる。

 槍の穂先を布で包む男は、常に背後を守る盾であり、同時に前を穿つ刃でもある。

 退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術。

 今夜、生かして困らせた者たちを、明日もまた生かして困らせるために、二人は歩く。


 京の路地に、二本の影が並ぶ。

 片方は細く、片方は長い。

 雨の粒がその輪郭をやわらげ、やがて溶かしていった。

 ——影は二つ。だが、踏めるのはいつも、一歩だけだ。

 静はその一歩を、静かに選び続ける。

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第二話 蓮のつか— “槍を畳む”夜


 祇園囃子の夜は、音が盾になる。鉦の冴えた一打、太鼓の胴が空気を押し出す拍、笛の高い尾——それらが路地という路地へ薄膜のように張りついて、踏み替えの音も、呼吸の乱れも、だいたい紛れてしまう。

 矢野蓮は、その膜の厚みを指先で確かめるように歩いた。柄袋を肩に担ぎ、祭の幟持ちに紛れ、笑えばただの若い衆にしか見えない。槍は袋に収まっているが、袋は目隠しでしかない。いつでも外せる。いつでも畳める。


 辻斬りは三夜で四件。いずれも町角、灯の笠の下、囃子の「」で起きた。切り口は深くない。命を狙い切ってはいない。むしろ恐怖を置いていく傷。襟首を少し削ぐ、袖の内側を裂く、耳殻に浅く線を刻む。

 ——見せしめ、もしくは試し。

 蓮は初見でそう踏んだ。刀の冴えはそこそこ、手は早いが引き際が早すぎる。斬り殺す胆がない、あるいは、殺す必要がない。

 静は紙入れに挟んだ地図へ印を打ち、風を読むように言った。


「三つの角の“間”は、囃子の拍で計れます。太鼓の二拍目から笛が抜ける瞬間、灯の揺れが最小になります。その時に——“来る”。」


 蓮は頷いた。

「じゃあ、迎え討つ側は“形”で勝つ。狭いとこで長物を振る馬鹿はいねえ。俺が畳む」

「お願いします。私は“間”を繋ぎます。……蓮、くれぐれも斬らずに」

 静のひょうひょうとした声は穏やかだが、芯は鉄を思わせる。

「分かってる。生きて困らせる、だろ」


 宵の口、白川の細い流れが灯を千切りながら運ぶ。格子戸の奥、舞妓の笑い声が泡のように上がっては消え、屋台の団子が焼ける匂いに甘酒が混じる。

 囃子は近づき、また遠ざかる。太鼓の胴が一つ、二つと腹に来る。蓮はその二つ目の余韻で、肩の力を抜く。柄袋の口を左手でなぞり、浅く結わえた紐を爪で弾くと、袋は唇を開けた。


 狙いの角は三条の北、小さな社の前。鳥居の影が斜めに路地へのびて、片側は土塀、片側は軒。人の肩が触れ合わないように遠慮して流れるので、どうしても空白ができる。そこは刃が入る。

 静はひとつ手前の角に立ち、風下の囃子を聞いていた。何の気配も纏わない顔で、しかし目だけが灯と影の境目を拾っている。

 ——一拍。二拍。笛が抜ける。

 静が鞘口へ指を添えた。その小さな合図で、蓮は自分の呼吸を底へ落とす。


 最初に角を切ったのは、赤い襷を斜めにかけた魚屋の若造だった。素足に草履、桶の片方が空。帰り道。彼が鳥居の影を踏む——その正面から、影が溶け出す。

 白い手拭で口元を覆い、背は低いが足は早い。刀は脇差、抜き付けが鋭い。

 若造の袖が裂け、細い血が飛ぶ。悲鳴。

 ——早い。

 蓮は一歩で角へ入り、二歩目で柄袋を払い落とした。袋は風呂敷のように地面へ落ち、その中から黒漆の柄が立ち上がる。

 右手で中程を掴み、左手で石突を半握り——柄をひねる。

 乾いた“コリ”という手応えで継手が外れ、槍は二つに割れて手の中に収まる。

 穂首は刀身短く、刺突のための三角。石突は金具を噛ませれば、短い棍に変じる。刃と錘。押すと引く。


 路地は狭い。長いものを振る余地はない。

 蓮は穂首を逆手に持ち替え、脇差の円の内側へ“先に入る”。

 短い金属音が三つ。

 一つ目、穂先の側面で相手の刃を払い、二つ目、石突の輪で手首の筋を打ち、三つ目、足の甲に軽くかけてわずかに体勢を崩す。

 相手の目の奥が驚きで揺れる。

 ——槍なのに、近え。

 蓮は笑った。唇だけ。

「俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」

 囃子の二拍目、笛が戻る。息が街へ返っていく。

 蓮は追い込まない。脇差の斬り上げを、短い回転で空へ送る。穂首で刃を受け、石突で手首を押し返し、肩と肩が触れるほどの距離で「殺さずに止める」。

 ——そこで、影がほどけた。

 襷の若造の悲鳴に人の流れが揺れ、見物客が道を空ける。斬り手はそれを風と読み、身を翻して塗塀と軒の間へ潜る。

 細い。屈まずには抜けられない。

 蓮が追えば、長物では詰む。

 蓮は一つ息を吐き、穂首と石突を、さらに短く“畳んだ”。

 穂首の根に小柄こづかが仕込んである。鯉口を切るように親指で押し出すと、寸の短い刃が掌に収まる。石突の金具は捻じれながらほどけ、内から棒状の鋼が現れる。

 右に刃、左に棒。拳の幅で振り切れる長さ。

 狭さはもはや弱点ではない。

 静が鳥居の影で首を傾け、淡く笑んだ。

「蓮、追い込みます。私は向こうへ回ります。……二拍で」

「任せろ」


 蓮は塗塀と軒の間へ潜り込み、腹這いで二軒分を滑る。地面は藁屑と砂でざらつく。上から桶の水がこぼれ、冷たさが背に線を引く。

 斬り手はその先の小庭で体勢を立て直そうとしていた。衣擦れの音が一度、鋭く止まる。

 蓮は立ち上がりざま、左の棒で相手の脇腹を横に押し、右の小刃で袖の内側——力の原点を、軽く裂く。血管ではない。衣の筋。

 斬り手の腕が、瞬間だけ空を掴む。

 そこを石突の金具の頭で叩いて、力の向きを“変える”。

 斬り手は庭石に肩をぶつけ、脇差を取り落としかける。

 ——追わない。

 蓮は一歩離れ、小刃を逆手から順手に持ち替え、相手の視野の端にだけ刃を置く。

 刃は見せ物ではない。視線を奪う旗だ。

 斬り手は目で刃を追い、足は出口へ向かう。

 出口の角に、静がいる。

 囃子の笛が一度消え、二拍で戻る。その「空白」に合わせて、静の鞘が軽く鳴った。

 カン、と乾いた一音。

 斬り手の足が止まる。鞘で膝の皿を打たれ、落ちるほどではないが、踏み出す勇気を失った。

 静がいつもの声で言う。

「こんばんは。お急ぎですね。……よろしければ、少しだけ、困ってください」

 斬り手は、逃げ道を目で探す。目は嘘をつく。足はもっと正直だ。

 蓮は背後から二歩で詰め、左の棒を肩甲骨の間に当てる。押さない。置く。

 置かれた重さは、逃げる計算を壊す。

 斬り手は唇を噛み、静を斜めに睨む。

「新選組、か」

「ええ。私は沖田静と申します。こちらは蓮。槍ですが、今は短いでしょう?」

 静の笑いは、風鈴に似ている。刺すほどではないが、一定の高さで鳴り続ける感じ。

 蓮は小刃を収め、棒を肩に担いだ。

「終いだ。脇差を拾うな。拾えば骨を折る。拾わなきゃ骨は折らない。選べ」

 斬り手の視線が、地面の鋼に落ちる。迷いの長さは、息の長さとだいたい同じだ。

 彼は拾わなかった。

 静がうなずき、鞘で脇差を遠くへ蹴る。

「では、まずはお話を。……どこで“試し”を習いました?」


 斬り手の肩が一度、強張った。

 それは答えへの道のりの長さを示す合図でもある。

 蓮は棒の頭で肩甲骨の間を軽く叩く。恐怖を増さない程度に、現実に留める程度に。

 彼は言葉を待つのが苦手ではない。槍は、待つ武器でもある。


 人の輪がいつの間にかできていた。見物の女たちが袖で口を隠し、男たちは遠巻きに「おいおい」と囁く。

 祭の夜は、見世物と責めが隣り合う。

 静は人垣に目をやり、穏やかに言った。

「怪我をされた方は向こうの水へ。誰か、手ぬぐいをお願いできますか」

 声は柔らかいが、通る。人の流れがすぐに生まれ、血の匂いが薄まる。

 蓮は斬り手の首筋の汗を見た。冷や汗だ。恐怖の汗は塩気が強く、焦りの汗はすぐ乾く。

 こいつは、焦っている。つまり、時間がある。上に誰かがいる。

「お前、単独じゃねえな」

 蓮が言うと、斬り手の喉がひとつ動いた。

 静が続ける。

「三夜で四件。灯の高さがそれぞれ違うのに、切っ先が灯の影を必ず踏んでいる。自分で灯の位置を変えたなら、あなたは道具持ち。——ですが、あなたの袖には油が少ない。灯を扱っていない」

 静の目は、光の方向を測っているのだろう。

 斬り手は沈黙した。

 蓮は棒を外し、代わりに穂首の小刃を軽く見せて、すぐに柄へ戻す。

 戻す手順は三つ。

 一、棒を逆に回して金具を噛ませる。

 二、穂首の根を柄へ落とし、継手の溝を合わせる。

 三、ひとひねり、音を立てずに締める。

 槍が“戻る”。

 長さが戻った瞬間、斬り手の目が小さく揺れた。

 ——今なら逃げられない。

 そう思わせるために、蓮は戻す。長さは威嚇でもある。

 囃子がふたたび近づいた。笛の尾が長く尾を引く。

 静がそれに合わせて、軽く首を振った。

「灯を動かしたのは、誰です?」


 斬り手は初めて、視線を落とした。地面の砂粒を見つめ、唇を舐め、言った。

「……提灯持ちだ。祇園の外れで臨時に雇われた連中。合図は笛」

「笛」

 静の目に、痛くもない光が走る。

「笛のどこで?」

「太鼓の二拍目で、笛が一度抜ける。そこで灯を滑らす」

 静は小さく笑った。

「ええ、そうでしょうね」

 蓮は肩で息をつき、棒を柄へ戻す途中で手を止めた。

 ——笛、か。

 笛の男はどこにでもいる。提灯持ちも、今夜はどこにでもいる。

 つまり、敵は「そこら中」にいる顔で紛れている。

 蓮は斬り手の襟を掴み、立たせた。

「歩け。笛の“間”で、俺たちの“間”は外さねえ」


 斬り手を挟んで三人で角を出る。人垣が勝手に割れ、誰かが走っていく。新選組の紋を見て、誰もがそれぞれに安心と不安を半分ずつ顔へ載せる。

 白川の橋の手前、提灯が四つ、等間隔で流れてくる夜の川のように並んでいた。持ち手は皆、祭の助っ人の着流し。帯に笛を差している者が二人。

 ——どれだ。

 蓮は目で数え、耳で拾い、足で「間」を測った。

 太鼓の一拍目。二拍目。

 笛が抜ける。

 灯がわずかに滑った。

 滑り幅は半尺。灯の揺れはほんのわずか。けれど、そこに刃の影が入る余地はできる。

 静が、その滑りの“出口”へ一歩を置いた。

 蓮は“入口”へ一歩を置いた。

 二人の間に、斬り手の視線が挟まる。

 笛の男は、抜け目を悟るほど馬鹿ではない。むしろ、賢いのだろう。

 彼は笛を吹いた。

 抜けた先を、すぐに埋める笛。

 囃子は止まらない。

 灯も止まらない。

 止まらなければ、切れ目は見えない——はず、だった。


「笛が止まらないなら、こっちの手を止めよう」

 蓮は囁き、柄の中程を握った。

 槍を“畳まない”。

 代わりに、槍を“寝かせる”。

 地面と平行に、穂先を低く、石突を高く。

 槍は、その姿で道具から“障子”に変わる。

 提灯の列の前に、すうっと横たわる光を遮る線。

 笛の男の目が、一瞬だけその線に吸い寄せられた。

 その一瞬で、静が提灯の足元の縄を足袋で踏む。

 灯が倒れず、しかし動けない“縛り”が生まれる。

 笛の男は笛を止めざるを得ず、息が宙吊りになった。

 ——間が、できた。

 蓮はその間へ穂先を滑らせ、笛の男の帯に挟まれた細い刃物——切り出し小刀を、帯ごと外へ弾き飛ばした。

 金属が石畳に跳ねる乾いた音。

 男の眼が、最初に恐怖で、次に怒りで、最後に諦めで変わる。

「……見てやがったのか」

「見えないもんか。俺の槍は目の高さまで上がらねえが、目線は槍より先に届く」

 蓮は肩で笑い、槍を立てる。

 静は提灯の縄から足を外し、男の前へ出た。

「笛の“止め”を、あなたが持っていたのですね。……帳場はどこです?」


 男は首を振った。三度。

 蓮は石突を地面に軽く打った。

 音は小さいが、祭の喧騒でも骨の中に届く。

 男は目を閉じ、深く息を吐いた。

「油小路のはずれ、材木問屋の裏手。蔵の中に“貼り図”がある。角の灯の高さと、囃子の通り道と、辻の人足の流れが描いてある」

 静が細く息を吸い、目を伏せ、すぐに開いた。

「行きましょう」

 蓮は槍を肩に担ぎ直し、足を半歩広げた。

 “行きましょう”の前の半歩には、だいたい面倒が詰まっている。

 だが、それでいい。槍は面倒を運ぶ道具でもある。


 油小路。材木問屋。裏手の蔵は、大きな板戸に“常の鍵”がかけられている。常の鍵は常の破り方がある。

 静が鍵の鉄を鞘で叩いて、蓮が隙間へ薄い鋼を滑らせる。

 板戸は息を吐くように開いた。

 蔵の中は樹脂の匂い、乾いた木口の匂い、墨の匂いが混じる。

 壁に貼られた紙には、祇園の町筋が綿密に描かれ、灯の高さに赤い印、囃子の通り道に青い線、人足の流れに墨の薄い斜線。

 静は紙に近づき、指で青い線の途中をなぞった。

「ここで笛が“休む”。太鼓の二拍目。……やはり、拍で“間”を作っている」

 蓮は赤い印の間隔を測り、柄の長さを当ててみる。

 半尺の差で、人の肩と肩の隙間が生き物のように動く。

 図は悪くない。よくできている。だからこそ、腹が立つ。

 人を図で扱い、恐怖を点で置く。

 蓮は槍の柄で、紙の端を軽く叩いた。

「頭はどこだ」

 笛の男が、蔵口に縛られて座っている。斬り手も隣に。

 彼は目で合図を送った。蔵の奥の、板の切れ目。

 静が頷き、板の継ぎ目へ鞘先を滑らせる。

 ——そこに、息がある。

 静は息を読める。蓮は息をぶつけられる。


 板がわずかに内側へ引いた。

 隠し戸。

 刹那、細い刃が戸の隙間から飛んだ。

 蓮は石突で打った。

 火花のように響く金属音。刃は蔵の床で弾み、板の脚へ刺さって止まる。

 戸が全開になり、黒衣の男が飛び出した。

 背が高い。足が長い。刀は持たない。手に糸巻きのようなものが見えた。

 ——糸。

 糸で、灯を操る。

 蓮は槍を立てる隙がないのを一瞬で理解し、即座に“畳んだ”。

 継手を外す。

 穂首を逆手、石突を順手。

 男の腕の糸が光を拾って線になる。

 それを棒で払う。糸は強いが、張った瞬間は弱い。

 払う角度は、斜め下。糸の張力が逃げる角度。

 男の顔に驚きが走り、体勢が前に倒れる。

 そこへ穂首の側面で顎を打つ。

 骨の音はしない。皮膚の下の筋が鳴る感触だけが指に伝わる。

 男はよろめき、背を木箱にあずけた。

 糸巻きが床で転がり、細い線が朝靄の蜘蛛の巣のように広がる。

 静が踏み越え、糸を足袋で止めた。

「灯を動かす道具、でしょうか」

「だな。……こいつ、殺す気は最初からねえ」

 蓮は言い、一瞬だけ肩の力を抜いた。

 男の目は、恐怖ではなく、細い悔しさで濡れている。それは、計算を壊された人間の目だ。

 静は軽く頭を下げた。

「生きて、困ってください。帳面と道具はこちらでお預かりします」


 捕縄を持った隊士が二人、蔵口に現れた。

 静は二人に手早く指示を飛ばし、男たちは迷いなく従う。

 蓮は槍を“戻す”。

 一、棒を噛ませ、

 二、穂首を落とし、

 三、ひとひねり。

 音は立たない。夜は、音を許さない。

 槍は、長い姿へ戻った。

 長い姿へ戻ると、肩の位置が定まる。

 肩の位置が定まれば、心臓の高さが定まる。

 心臓の高さが定まれば、“届く”距離が分かる。

 蓮は穂先を床に落とさないよう持ち替え、肩で笑った。

「面倒はだいたい片づいたな」

「ええ。——囃子も、そろそろ終いです」


 蔵を出ると、祇園囃子の尾が夜空へ薄まっていた。太鼓は小さく、笛は遠い。

 路地の向こう、白川に掛かる灯が、いくつか消え、いくつか残る。

 捕らえられた斬り手と笛の男、それから糸の男。三人はそれぞれに違う足取りで歩き、同じ縄で繋がれている。

 人は違うのに、結果は同じ。

 蓮はそれを少し、やりきれない気持ちで見送った。

 静が隣に並んだ。

「蓮。……“畳む”のは、やはり早いですね」

「柄は、長さじゃねえ。長さは飾りだ。大事なのは、届く心臓があるかどうか」

 静が笑う。

「さきほども、似たことを」

「言ったさ。聞こえてただろ」

「ええ。とても、頼もしかったです」


 蓮は頭の後ろで手を組み、空を見た。

 薄い雲が囃子の音を吸い込んで、上へ運んでいく。

 祭は、すぐに終わる。終わったあとが、町の本当の顔だ。

「静」

「はい」

「俺は長い槍を持ってるけどよ、同じだけ短いものも持ってる。今日、少し分かった」

「何でしょう」

「短いものは、相手の中に持っていくもんだ。外へ見せるもんじゃない」

 静は肩をすくめる。

「哲学ですね。では私の番を。……“間”は、私たちの外にあるようで、案外、内側にもあります」

「内側?」

「ええ。呼吸の端、迷いの端、良心の端。相手の内側の“間”に、蓮は届きました。だから斬らずに止められた」

「持ち上げるのがうまいな、お前は」

「事実を述べただけです」

 ひょうひょうとした声に、蓮は鼻を鳴らした。


 町筋を壬生へ向かう道すがら、提灯の灯りが一つ、また一つと消えた。

 静は歩幅を半歩伸ばし、蓮は半歩詰める。

 歩幅が合うと、会話がいらなくなる。

 会話がいらなくなると、祭の余韻がよく聞こえる。

 太鼓の胴の最後の一打。笛の最後の長音。鉦の最後の揺れ。

 夜に溶けていくものは、だいたい美しい。


 壬生寺の前で、蓮は柄袋の口を結び直した。

 結び目は浅く、次に開けるときのために、指一本でほどけるように。

 静が横目で見て、言った。

「明日は雨でしょうか」

「どうだかな。風は湿ってる」

「では、稽古は“風を読む”でしょう。兄が好きな」

「総司さんは、ほんと、風で何でも測るからな」

「ええ。私は“間”で測り、蓮は“形”で測る。兄は“風”で測る。三つあれば、だいたい世界は足ります」

「足りないのは?」

「酒です」

 蓮は笑った。

「じゃあ奢れよ。さっき俺が言っただろ。面倒を運ぶのが俺の仕事だって」

「ええ、承知しました。面倒代として、一合」

「少なっ」

「では二合」

「最初からそう言え」


 門前の灯が、風で一度だけ揺れた。

 蓮はその揺れを目で追い、柄を肩に担ぎ直した。

 長いものは、時に邪魔だ。

 だが、長いものを畳めるなら、長いものは選択肢になる。

 選べる武器は、選べる未来に似ている。

 彼は歩き、静も歩く。

 夜は厚く、しかし軽い。

 祇園囃子の余韻が、まだどこかで鳴っている。

 その「間」の中を、二つの影が、同じ速さで帰っていった。

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第三話 風の稽古 — 壬生寺の朝、兄の影を踏む


 壬生寺の朝は、鐘の余韻がいつも長い。薄い靄の層を揺らしながら、音の縁だけが境内の砂を静かに震わせる。

 静は井戸の縁に腰をかけ、桶から柄杓で水を掬い、掌に落とした。冷たさは控えめで、昨夜の湿りをまだ残している。掌を一度こすり合わせて、指先の皮の具合を見る。

 ——今日は「風」を読む。

 兄がそう言ったのは、夜明け前、咳の合間だった。


 総司は庫裏の畳に薄い布団を敷き、上体を半分だけ起こしていた。咳は軽くして、鋭かった。咳の音にも人格があるのだと気づかされるような、こまやかな鋭さ。

 蓮は廊の柱に寄り、槍袋を背にあずけて欠伸を噛み殺す。

「総司さん、無理すんなよ。声に力が乗ってねえ」

 総司は笑って、手を振った。

「無理はしません。風に働いてもらいます。二人には、風の稽古を」

 静は座を正し、軽く頭を下げた。

「兄上、承ります。……本日の『風』は、どちらの方角から?」

「まず、耳。次に袖。最後に、迷い」


 小庭に葦が植えてあった。境内の隅にある池は浅く、雨の後で水が澄むと、泥底の模様が鱗のように見えた。池の縁には短い竹が並び、その向こうに葦の穂。

 総司は床几に腰を下ろし、団扇を膝に置く。足元に咳払いが落ちた。

「静。あの葦の穂に、刀を当てず、風だけで触れてごらんなさい。——切るのではない。揺らすのです」

 蓮が横で口を尖らせる。

「刀で風を作るってことか。やれるか?」

「やらねば、困りますねえ」

 静はひょうひょうと肩をすくめ、鞘口へ指を添える。鯉口は切らない。刃は出さず、鞘のまま歩み出た。

 風は、朝の庭を薄く流れてゆく。柱の影から影へ、土の上から草の上へ、見えない水が移るように。

 静は息を半分、胸に残した。吸い切らず、吐き切らず。喉の奥に薄い余白を用意しておく。

 足を一足半。

 右の踵を砂に触れさせ、左のつま先を葦の向きに合わせる。

 鞘を水平に保ち、腰のひねりで空気を押し、「押した痕跡」を刃先が通るべき線に合わせる。

 葦の穂先が、かすかに震えた。

 静は止まらず、二の手、三の手と「空を撫でる」。鞘の端が空気の薄い層を捉え、流し、置き、回収する。

 風が、葦の髪を梳くように通り抜け、穂は切られずに、しかし確かに「応えた」。


 蓮が鼻で笑った。

「へえ、やるじゃねえか。見てるだけだと何もしてねえように見えるのに、穂だけがしゃんと挨拶してる」

 総司が咳を堪え、掌で胸を押さえながら頷く。

「風は、相手に運んでもらうのが早い。静、お前の鞘は『流れ』を邪魔しなかった。蓮——君はどうする?」

「俺か。長物は風を割るもんだが……」

 蓮は袋から柄を抜き、まずは継手を外さず、長いまま構えた。

 穂先を低く、石突をわずかに上げる。

 静は一歩下がり、彼の右側に風の出口を用意する。

 蓮の槍が、空を《縫った》。

 穂先は葦を避け、二寸手前で留まり、その直前の空気だけが押し流される。その通り道に、静が先ほど置いた「薄い痕跡」が残っていた。

 穂先は痕跡に乗り、葦は二度まばたきして、三度目に細くうなずく。

 総司の眼が笑った。

「二人だと、なおよい。風の入口と出口を間違えなければ、刃はいらない」


 境内の端、木陰から年配の僧が茶を運んできた。器の口に、白い湯気が簾のように揺れる。

「旦那方、喉を湿らせなされ。朝の風は乾きますけえ」

 総司が深く礼をした。

「お手を煩わせました」

 その礼は、病の重みでかすかに揺れる礼だったが、姿勢は崩れなかった。

 静は茶を受け、蓮へ手渡した。

「蓮、熱いのでお気をつけて」

「おう。——総司さん、咳、今日は軽い方か?」

「軽い日は、風を使い、重い日は、黙って風を待つのです」

 総司のゆるい冗談に、蓮が口角だけで笑った。笑いは短く、目の底の心配は消えない。

 静もまた、その心配を正面からは握らない。握りしめると、掌に熱がこもり、風が止まる。


 稽古は段を変えた。

 総司は団扇で自分の袖を一度だけ叩き、その音で合図した。

「次は『影』を踏む。静、お前は私の影に乗り、蓮は影を外へ誘い出す。刃は抜かず、打撃もなし」

 静は眼を細める。

 午前の光は薄く、影はまだ背の方へ短く落ちている。兄の影は、柱の影と重なり、形を定めない。

 ——影に「形」がないなら、風で形を与える。

 静は廊の端に立ち、指先を胸の高さに上げ、軽く円を描く。衣の裾が空を撫で、香の残り香がわずかに揺れた。

 総司は団扇を膝に、袖を少しだけ動かす。呼吸の長さが変わった。

 静はその「息の端」に、足を置いた。

 影は逃げる。

 逃がすのは蓮だ。

 蓮は槍を畳み、柄を二つにし、棒の一本を縁側に置く。

 棒は目印であり、風の堰でもある。

 総司の影が棒の手前で輪郭を得た瞬間、静は足袋の先で影の縁を踏んだ。踏むと言っても、砂を押さえた程度だ。影は砂ではない。だが、人は自分の影を視野のどこかに置いている。

 総司の肩が、ほんの僅かに沈む。

 そこを蓮が、棒の端を持ち上げて「道」を空へ返す。

 影が伸び直る。

 総司の目が笑って、団扇が小さく鳴った。

「上等。——影は形ではなく、心の置き場だ。置き場をいじれば、風は表情を変える」


 総司はそこで咳をひとつ、深くして、きっぱりと止めた。

 静の胸の奥で、焦りのような熱がこめかみへ上がる。

 この朝の稽古は、兄の咳の許す範囲で編まれている。

 それを静は知っている。

 だからこそ、稽古は「無血」でなければならない。

 刃の話をしながら、刃に触れずに終えること。

 それが今日の勝ち筋だ。


 次の段は、紙を使った。

 総司は懐から細長い紙片を取り出し、柱の釘にかける。風鈴の短冊のように、白い紙が朝の風を拾う。

「これは笛の代わりです。拍を作る。——静、紙の『止む』瞬間に、空を切ってください。紙に触れないこと」

「承りました」

 蓮が囁く。

「静、俺は紙の下で空気を押す。見えない手でな」

「お願いします」

 紙は、庭の風に合わせて薄く揺れ続ける。

 揺れ続けるものには、止まる瞬間がある。

 静は呼吸の底に耳を置き、紙の揺れに目を置く。

 揺れの振幅が減衰し、上下の頂点が近づき、止まる「前」が現れる。

 刀はまだ鞘の中。

 鯉口は切らない。

 鞘の先で空気だけを撫でる。

 紙は触れられずに、しかし「撫でられた」ようにわずかな後れを見せ、次の拍を待った。

 総司は団扇で自分の胸を一度軽く叩き、独り言のように言う。

「静の『似ている』は、こういうところだな」

 静の頬に、見えない熱が差す。

 似ていることは利でもあり、負でもある。

 兄の影を武器に使う夜もあれば、影に躓く朝もある。


 蓮は紙の下から、空気を押した。

 棒の端で地面を撫で、すぐに引く。

 押すと言っても、触れない。

 空気の密度が紙の下で微かに厚くなり、紙は「重くなったふり」をする。

 静はそこで一拍、呼吸を遅らせ、鞘の端で上昇気流の縁だけを掬った。

 紙は、それでも切れなかった。

 総司が、眼を細める。

「——よし。次で終いにしましょう。葦の穂を、今度は『刃』で。だが、穂は切らない。風圧だけで、揺らす」


 静はようやく、鯉口に親指をかけた。

 刀の重さは、もう知っている重さだ。

 鞘を押し出し、刃が朝の光に薄く滲む。

 蓮が一歩、横に回り、槍の柄の半分を静の背面の空気に置く。

 背中の空気の形が、わずかに「斜め」になる。

 その斜めは、前の空気に「傾き」を伝える。

 静は腰を回し、刃先を穂の手前で止め、「止めた」刃の周りの空気だけを前へ押す。

 葦の穂が、刃の脅しに応じるようにふるりと震え、しかし切り口は生まれない。

 穂の細い毛が、朝日にわずかな虹をつくった。

 総司は団扇を下ろし、深い呼吸で言う。

「形は似ている。だが、風は各々の背に別々に吹く。静、そのまま覚えておきなさい」


 静は刀を静かに納めた。音を立てない。それは兄の教えであり、自分の流儀でもあった。

 納刀の瞬間、喉の奥が熱くなる。

 「似ている」と言われる度、心のどこかで何かが撓む。

 それは誇りと恐れの綱引きだ。

 ——似ていることに甘えたくない。

 ——似ていることに救われている。

 矛盾した二つの糸が、時々、喉で絡まる。


 稽古を打ち止めにし、三人で鐘楼の影に座った。

 僧が再び茶を持ってきて、今度は梅干を添えた。

「朝の梅は身の毒を出すと申しますけん。どうぞ」

 蓮がありがとうと受け取り、くしゃりと顔をしかめて梅を噛む。

「すっぱ。——総司さん、今日の『風』は、どこまでが稽古で、どこからがいくさなんだ?」

「全部が稽古で、全部が戦です」

 総司は穏やかに笑った。

「戦場でも、風は吹きます。逃げる者の背に、追う者の顔に。刀は風を意識しないと、たちまち手の内が濁る。——静、蓮。あなたたちの『連携』は風で繋がっている。言葉より、速い」

 蓮が槍の袋を背に押しつけ、空を見た。

「俺のは形、静のは間、総司さんは風。三つ合わさりゃ、だいたい負けないな」

「だいたい、では困ります」

 静が笑って返すと、蓮は肩で笑い返した。

「お前のそういうとこ、好きだぜ。困らせ方が上品で」

「それは褒め言葉として受け取っておきましょう」


 総司の咳が、そこで少しだけ深くなった。

 静は茶碗を置き、何も言わずに背筋を伸ばす。

 風は、時に呼吸の音を運ぶ。

 今朝の風は、咳の音を軽く包み、寺の屋根の向こうへ流していった。

 「大丈夫」と兄が言う時、静はいつも二つ頷く。言葉に対してひとつ、言葉の奥に対してひとつ。

 今日は、前者の頷きが少し長くなった。


 そこへ、門前から駆け足の音。若い隊士が息を切って現れた。

「報告ッ……! 油小路で揉め事、町人と浪人の小競り合いが大きくなりそうで……!」

 蓮が立ち上がり、袋の口を確かめる。

「行くか」

 静は横目で総司を見た。

 総司はゆっくりと首を横に振る。

「私はここで風を見ています。二人で行きなさい。——血の匂いを濃くしない手で」

「承知」

 静は即座に答え、蓮と目を合わせた。

「蓮、長さは要りません。『畳む』準備を」

「分かってる。今日は『押す』だろ」

「ええ。押して、困らせて、退かせる」


 油小路までの道は、朝の市の支度で人が行き来する。匂いは魚、味噌、湿った藁、馬。

 揉め事の現場は、桶屋の角。桶を蹴って転がしたのか、丸い輪が四散していた。浪人が二人、町人が五六人、どちらも血の匂いはまだ薄い。

 静は足を止め、空を見、風の向きと人の向きを合わせる。

 蓮が穂の根を握り、継手に指をかける。

 槍は、わずかに低く構えられた。


「新選組だ」

 静は声を張らない。だが、通した。

「刀は納めてください。——息を、二拍」

 浪人の片方が鼻で笑い、鞘に手をかける。

 静はその手を見ない。見たら、手を相手にすることになる。

 静は浪人の「影」を見た。

 朝の影は短い。だが、影は常に「どこか」に映っている。

 静は影の縁を踏まず、ただ近くに「居て」やった。

 蓮はその間に、槍の石突で桶の輪をそっと押した。

 輪が少し転がって、人の足元を迷わせる。

 「迷い」は、風の入口だ。

 浪人の肩の力が半分抜けた瞬間、静は鞘の端で空気を押し、声で風を作った。

「朝の喧嘩は、昼の米になりません。——退いてください」

 町人たちの方へ目だけを走らせ、軽く、しかし確かな頷き。

 彼らは、頷きを頷きで返す。

 蓮は槍を畳み、柄を二つにし、一本を腰に、一本を手へ。

 浪人の歩幅が狭くなる。

 狭くなった歩幅の中に、静は「間」を置く。

 鞘を持つ左の手首を、ほんの僅かに外へ返す。

 それだけで、浪人は近づけない。

 近づけない、という事実が、浪人の中の風を濁す。

 蓮は棒で地面を撫でた。

 砂が薄く立ち、浪人の脛の感覚を曇らせる。

 ——ここで、押す。

 静は鞘先で空を押し、蓮は棒で肩甲骨の間の空気を押した。

 浪人たちは、押されたことに気づかないまま、半歩ずつ退いた。

 町人たちは、押されたことに気づかないまま、半歩ずつ、左右へ開いた。

 道が開く。

 風が通る。

 揉め事は、風の通り道から外へ弾かれる。

 「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術」——蓮が小さく笑って、心の中で言った台詞を、静は耳で拾った気がした。


 浪人たちは剣を抜かずに去り、町人は桶の輪を拾い集め、朝の匂いが戻る。

 静は蓮を見、蓮は静を見返す。

 言葉はいらない。

 風は、まだ背中にいた。

 壬生寺へ戻る道すがら、蓮がぽつりと言った。

「静。……総司さん、今日はどうだ」

「良い風でした。稽古の分だけ、長くなる風です」

「なら、いい」

 蓮の声は短かったが、短い声の中に、さっきの梅干の酸味のような安堵が混ざっていた。


 寺に戻ると、総司は縁側で外を見ていた。

 風鈴のない縁先に、風だけが鳴っている。

 静と蓮が座に戻ると、総司は団扇で一度だけ膝を叩く。

「お帰り。——どうでした?」

「退がりました。刃は要りませんでした」

「よろしい」

 総司は微笑んで、咳を一つ、浅く。

「静」

「はい」

「似ていることは、悪くない。だが、同じ風を背負おうとしてはだめだ。お前の背の風は、お前のものだ」

 静は、目を閉じ、開いた。

「……ええ。剣は似ていても、背負う風は別物ですね」

 その言葉は、静の中でやっと形になった。

 兄の言葉の陰影と、蓮の気配と、朝の葦の虹と、油小路の砂の照りが、一つの線で結ばれる感覚。

 総司は満足そうに目を細め、団扇を伏せた。

「今日の稽古はここまで。——蓮、昼は何にします?」

「腹に風が通ったから、重いのでもいける。けど、総司さんに合わせる」

「では、粥に梅。少しだけ、焼き物を」

 僧が笑いながら「承知」と答え、奥へ引っ込む。


 昼餉の後、静はひとり池の縁に立った。

 葦の穂が、先ほど撫でた風の癖を、まだかすかに身に残している。

 静は鞘に手を置き、深く呼吸をした。

 似ている顔、似ている手の内、似ている歩幅。

 だが、背中の風は別だ。

 兄の背に吹く風は、花の香に似て、今は少しだけ薬の匂いが混じる。

 自分の背に吹く風は、影の温度に似て、時々、灯の熱をひっそりと盗む。

 蓮の背の風は、土と油の匂いで、そこに笑いが混じる。

 三つの風が、同じ方角へ向かう時、たぶん自分たちは負けない。

 だが、風の方角が違う日にも、歩けるようにならなければならない。


 静は池に身を映し、微笑んだ。

 映った顔は兄に似ている。

 けれど、その肩にかかる影は、自分だけの影だった。

 風が、葦の穂を一度だけ撫でた。

 静は軽く礼をし、踵を返す。

 背に、寺の鐘の気配。

 午後の風は、午前よりも少しだけ厚い。

 厚い風は、声をよく運ぶ。

 静はその風に、心の中でひとこと載せた。

 ——生きて、困ってもらいましょう。

 刃は鞘に、気は風に、迷いは影に。

 彼は、兄の影を踏まない歩幅で、縁側へ戻っていった。

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第四話 雪の三条大橋 — 一息一殺


 雪の夜は、音が嘘をつく。

 矢野蓮は、三条大橋の板の目に最初の足を置いたとき、足裏に吸い付くような湿りと、雪が音を飲み込む感触を確かめた。川面から吹き上がる風は浅く、冷たさだけをきっぱり運んでくる。下手に力むと足は滑る、下を意識しすぎると目線が落ちる。橋は戦場に向いていない。だからこそ、誰かが戦場に選ぶ。


 橋の袂、石灯籠の柱に、血色の墨で「斬奸状」が二枚、竹釘で打ち止められていた。

 一枚は「新選組狼藉を討つ」と、もう一枚は「沖田を斬る」。

 字は上手すぎず、下手すぎず、真似た手つき。挑発のための「ちょうどよさ」。風に揺れぬよう雪が端に載せてあり、その重石が紙の端をたわませている。


「雪で重し、とは、用意がよろしい」

 静が、ひょうひょうと笑いながら言った。冬の息が白を引き、顔の半分ほどで消える。

「書きぶりも香りも、芝居がかっています。蓮、足をお確かめください。板の端、少し氷っています」


「見りゃ分かる。俺は落ちるのが嫌いだ」

 蓮は柄袋の口を一度解き、右腰で結び直した。槍は、長い。長いものは、雪で鈍る。

 ——なら、雪も味方につける。

 袋の縁を肩で少し揉み、布に雪片をわざと付かせる。濡れ布は音を黙らせる。柄の根に指を滑らせ、継手の固さを一度確かめた。


 橋の中央あたりに、人影がひとつ、欄干にもたれていた。笠は浅く、蓑は薄い。いかにも寒いのに、寒くない風を装っている。右手は袖の中、左手は欄干。

 雪は、その肩にだけ積もっていなかった。

 ——風上に立っているから、というだけじゃない。

 蓮は斜めから目を細めた。肩に雪が積もらないのは、動いているか、熱を持っているからだ。緊張の熱、焦りの熱、あるいは、仕込みの熱。


「お出ましのようです」

 静が橋へ上がる前、斬奸状に指を添え、竹釘の角度を撫でる。

 竹は固い。だが、軽い。抜けば風が紙を攫う。

 静は釘を抜かなかった。代わりに紙の縁に軽く息を吹き、雪の重石の形を見た。

「紙の角、濡らしてありますね。風で飛ばぬよう。誘い——間違いありません」


「誘いなら乗る。乗って叩く。いつもどおりだ」

 蓮は袋から柄を引き、穂先にわざと薄雪を乗せた。美意識ではない。白い穂先は、白い夜に消える。黒は目立ち、白は埋もれる。

 穂先を低く、石突をわずかに上げる。その角度で、欄干の高さを測る。欄干は、足場にもなる。——なるが、滑る。雪が乗っていればなおのことだ。

 息をひとつ吐く。白が薄く、風へ溶ける。吐息の輪郭、その幅、その消え方。

 ——今日は、息で勝つ夜だ。


 橋上の影が、こちらを向いた。笠の庇の下、目は細く、口は隠れている。ちょうど、挑発されたい顔を作るのが上手いやつの目だ。

「新選組か。狼の群」

 声は、低く細く、風の筋に合わせて落ちる。

 静が、ひとつ礼をした。

「お寒い夜ですね。紙を濡らすのに、手が冷えたでしょう」

「すぐに温めてやる」

 影は袖の中で音を鳴らした。鯉口の小さな、乾いた音。

 蓮の背で、静がほとんど聞こえぬ声で言う。

「——『抜き』は弱い。音が早い。息が、追いついていない」

「つまり、押し勝てる」

「ええ。ですが、橋の中央で押すと、下が落ちます。左右に『受け』を作ってください。私は『白』を用います」


 白。

 静の「白」は、雪の白であり、鞘走りの白だ。

 蓮はうなずき、欄干の柱の間隔をざっと数えた。三歩で柱、三歩で柱。足の幅で、板の縁の凹凸を拾い、滑る場所と滑らぬ場所の地図を頭に描く。

 ——押すなら、斜め。

 正面の押し合いは、雪が邪魔をする。斜めの押し合いは、雪が味方をする。

 欄干を、足にする。

 軽く踵を浮かせ、石突を欄干の縁に置く。たわみを感じるほど押しつけない。木は硬いが、冷えた木は脆い。頼り過ぎれば折れる。頼らなければ、助けてくれる。


 静が一歩前へ出た。

 雪の薄膜が足袋に巻く。静の歩は、影のように板の目へ馴染む。

 鞘口に親指がかかる——が、切らない。まだだ。

 静は斬奸状の前に立ち、紙の角の雪を指で払った。

 白が、宙に舞う。

 舞う白は、風の形を見せる。

 ——風は、斜めに走っている。橋の端から端へ、弓なりに。

 蓮は穂先の白をその弓なりに合わせ、石突で欄干の冷たさを測り直した。


 影が、抜いた。

 抜きは早い。だが、早いものは短い。息が短いのだ。

 刃が出るより先に、白い息が濃く膨らんだ。

 それは「今」の印だ。

 静の鞘走りが重なる。

 白を払う。

 雪の薄皮が鞘の腹で弾け、空に白線を描く。その白が、相手の目に差した。

 蓮は欄干に足を置いた。

 足は滑らない。雪を噛む角度が、さっきの確認で分かっている。

 欄干の上で身を斜めにひねり、槍を寝かせた角度から起こし——

 「息が見える。今だ、俺が押す!」

 声と同時、穂先は白い夜の同色に紛れ、斜めに走った。

 狙いは胸ではない。喉でもない。肩の前——鎖骨の下、厚着の布を押し割るが、骨は外す位置。

 突かずに、「刺さらない突き」で押す。

 穂首の三角は、雪をまとって丸みを帯び、布に噛み、身の重さを道に変える。

 相手の体が半歩、勝手に下がる。

 橋の板がギシ、と短く鳴った。


 刃が、上から来た。

 相手は斜めに退きながら、斬り下ろす。

 退き斬りは、見た目が良い。だが、足と息が合っていないと、斬先が死ぬ。

 静の白が、そこへ重なる。

 今度は、刀だ。

 抜きは一寸。

 刃はほとんど出ていない。

 だが、鞘の腹から出た白い筋が、斬先の前に「壁」を作る。

 雪払い居合。

 刃で雪を払うのではない。刃を出した瞬間に、鞘の内の冷えと外の冷えの差で生まれる微かな風と、鞘の腹の白で相手の眼を遮る。

 斬先が、わずかに止まる。

 止まる、という事実が、相手の胸の中の風を乱す。

 乱れた風に、蓮は穂先を二寸だけ深く滑らせ、すぐに抜いた。

 押すための突きは、「抜き」が命だ。

 遅い抜きは、殺しになる。早い抜きは、困らせになる。

 蓮は困らせる。


 相手の肩が落ち、膝が震え、足の指が橋の板を掴む。

 掴む足は、滑る。

 蓮は穂先を下げ、石突を欄干から外し、逆に欄干を背にする角度で押し返した。

 雪が、穂首からふわりと落ちて、相手の目の前で小さく弾けた。

 その白に紛れて、静が紙へ指を伸ばす。

 斬奸状の竹釘を、逆手で軽く捻り、紙だけをふっと外す。

 紙は風に乗り、川へ行く。

 挑発の言葉は、川の黒に吸い込まれた。


 「退きなさい」

 静の声は淡いが、橋の上でよく通る。

 相手の唇が、寒さとは別の震えで薄く震えた。

「……狼は、退かぬと聞いた」

「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術です。あなたがご存知ないだけ」

 静は鞘を戻し、刃を完全に納めた。音は立てない。

 相手の喉で、ごくりと音がした。

 雪の夜は、そういう音だけをやけに遠くまで持って行く。


 蓮は槍を立て、穂先を雪に一度だけ触れさせ、白を新しくした。

 相手の肩布がずり落ち、押し痕のところに赤がにじむ。深くはない。骨は折れていない。明日の天気が良ければ、痛みは長く続く。

「生きて、困ってけ」

 蓮はぼそりと言い、穂先で相手の脇差を遠くへ払い飛ばした。

 橋の支柱の影で、人の気配が一つ動く。

 蓮は目を動かさない。

 静も動かさない。

 ——下だ。

 橋の下、枕木の陰。足跡は雪で消える、と思い込んでいるやつの動き。

 蓮は欄干に石突を軽く当て、木が返す鈍い音の高さを測った。

 空洞の高さ、木の厚み。

 ——ここからなら、下へ届く。

 斜めの突きは、上へも下へも往く。


「蓮、左へ二寸、お願いします」

 静の声で、蓮は二寸足をずらし、欄干の柱の間に穂先を通した。

 雪が穂先で沈黙する。

 息がひとつ、下から漏れた。白い煙は見えない。見えない白は、橋の陰に溜まる。

 ——いる。

 蓮は穂先を、空気に乗せるように滑らせ、木と木の隙間から黒い影の肩を「押す」。

 押しただけで、影は声を飲んで尻をついた。

 橋の下の雪がざらりと鳴り、人が二人、三人と這い出す音。

 蓮は穂先を引き、石突を欄干に再び置き、体の重さを橋に預けた。預け過ぎない。木は助けてくれる。


 橋の上の相手は、もはや斬る気がほどけている。

 静が近づき、肩布を整えてやるふりで、袖の内側を見た。

「油の匂いが弱い。道具持ちではありませんね。あなたは『見せる』役」

 相手は目を伏せた。

「橋の下の方々——『見て』動く役。よくある分担です」

 静の言葉は、淡々と、雪と同じ速度で落ちる。

 見物人は少ない。雪が降り出す前に帰ったのだろう。足の早い連中は寒がりだ。足の遅い連中は、こんな夜にも野次馬をする。今夜は、足の遅い連中も帰った。

 橋の上には、三人と、雪。

 橋の下には、二人か三人と、もっと雪。

 そして、鴨川の黒が、動かない。


「投げるぞ、蓮」

 静が欄干から身を少し乗り出し、橋の下の影へ、竹釘を一つ、ひらりと投げた。

 投げた、といっても、狙ったのは影じゃない。影の前の雪面だ。

 竹釘は雪に刺さり、こつ、と小さく鳴った。

 それで十分だ。

 影は顔を上げた。顔を上げた人間は、首筋を無防備にする。

 蓮は石突で欄干を離れ、柄の中程を握り直し、欄干を足場に二歩目を置いた。

 斜めの突き。

 欄干を踏む足は、滑らない。

 穂先は、橋の下の空気を切り、影の首筋の二寸手前で止まる。

 止める突きは、難しい。

 だが、止める方が、相手の内側は揺れる。

 影は両手を上げた。雪がその掌に乗り、冷たさに震えて人間に戻る。


 終い、だった。

 橋の上の相手は刀を地に置き、橋の下の影は雪を払いながら這い出した。

 静は斬奸状の残りの一枚も外し、紙の文字を一度だけ目で撫でる。

「書き手は、商いの手。帳場の指。……押さえるべきは、下ではなく奥ですね」

「奥?」

「橋の北詰の町屋。今夜開けているのは少ない。灯の油が新しい家が一つ。——あそこです」

 静の顎が、薄暗い軒先を指した。雪の膜の向こうに、ひとつだけ、灯が『新しい黄色』を帯びている。古い油の黄色は鈍い。新しい灯は、雪に負けない。


「行くか」

「行きましょう。蓮、長いままで」

「了解」


 三条大橋を渡り切るまでに、雪は一段と細かくなった。空気の粒が小さくなると、音はさらに鈍くなる。足音は消え、呼吸だけが残る。

 蓮はその呼吸を数えた。自分の呼吸、静の呼吸、前を行く二人の影の呼吸。逃げ足の息は短く、追い足の息は長い。

 町屋の格子戸の内側から、別の呼吸。

 ——隠れている。

 静は格子に手をかけず、指で空気を撫でた。

「開けていただけますか。寒いのは、お嫌いでしょう」

 中で、紙が擦れる音。帳簿を隠す音。

 格子が半分だけ開いた。

 灯の向こうに、墨で黒くなった指先。商いの手。

「——どちらさんで」

「夜回りです。紙を濡らした方に、お目にかかりたく」

 静の声が、灯の油を落ち着かせるように柔らかい。

 蓮は槍を横に寝かせ、穂先を格子の下の土間に置いた。凶器ではなく、杖に見せる。

 格子がさらに開き、男が一歩出た。

 雪はその肩にだけ積もっていない。

 肩の熱。——最初の影と同じ、緊張の熱だ。


「何の用です」

「紙に、お名前を記すのは無粋でしょう。代わりに、こちらに記しましょう。『本日、生きて困ること』を」

 静の笑いは、雪より白い。

 男は瞬きを二つ。視線が穂先に落ち、すぐに静に戻る。

「……何を、困るという」

「今夜の『芝居』の支度を、明日からやめていただく。灯の油の勘定、笛の手当、橋の管理人への小遣い。全部、紙で回る。紙を止めるのは、あなただけができる」

 男は喉を鳴らし、目尻を引きつらせた。

 雪の夜、喉の音は遠くへ行く。

 蓮は槍を立て、穂首をそっと土間から外に戻した。

 穂先に積もっていた雪が、灯の前で一度だけ光った。

 白は、武にも、証にもなる。


 男はやがて、手を下ろした。

「……分かった。分かった。明日、橋の紙は剥がす。もうやらん。金も払わん。——それでいいか」

「ええ。ただし、もう一つ」

 静は、格子の向こうの帳場を指で示した。

「筆をお貸しください。『謝り状』を書きます。宛ては、桶屋と魚屋。昨夜、袖を裂かれた方々に。——あなたの字で」

 男は顔を上げ、次に顔を伏せ、最後に渋々うなずいた。

 墨の匂いが濃くなり、紙の上で毛筆が雪のような音を立てる。

 蓮は戸口で雪を払った。払う手つきは、大袈裟にはしない。雪は、落としすぎると寒さを連れ込む。少し残すのが、冬の作法だ。


 書き終えた紙を、静は丁寧に折り、男に渡した。

「明日、これを持って行ってください。謝るのは、勇気です。——生きていれば、できます」

 男は紙を懐に入れ、深く頭を下げ……かけて、途中で止めた。

 雪の夜は、礼の途中を正直にする。

 静はさらに頭を下げ、先に礼を終えた。

 蓮は槍を肩に担ぎ、外へ出る。雪は静かに降り続け、橋は白を増している。

 戻る道すがら、静がぽつりと言った。

「蓮、さきほどの『息』、よく見えましたね」

「ああ。寒い夜は、みんな正直になる。息も、音も、迷いも。見えねえもんが見える」

「私も、よく見えました。——だから、刃は要りませんでした」

「要らない方が、俺は好きだ」

「存じております」


 三条大橋に戻ると、風向きがわずかに変わっていた。川上からの筋が細くなり、川下からの冷えが広がっている。

 静は橋の中央に立ち、川を見下ろした。

 さっき川へ落とした斬奸状は、もう見えない。紙は水を含めば沈む。言葉も、そういうことがある。

 蓮は欄干に手を置き、木の冷たさを掌に集めた。

「欄干がなきゃ、さっきの突きは通らなかった」

「欄干に助けられましたね。——橋は、渡るためにありますが、縋るためにもあります」

「縋る、ね」

「退くためにも」

「退くのは、逃げじゃねえ」

「ええ。生を繋ぐ術です」


 雪は、なおも降る。

 静は鞘の腹で軽く白を払い、蓮は穂先に白を載せる。

 白を払うと、刃の気配が生まれる。白を載せると、刃の位置が消える。

 二つは、よく釣り合う。

 蓮は肩で笑った。

「静。……俺たち、白で勝ったな」

「ええ。白は強い色です」

「黒も強いがな」

「黒は、責めに向きます。今夜は、白の番」


 橋の向こうから、犬の遠吠え。雪を切るような高い音。

 蓮は首を回し、肩の筋をほどいた。

 戦いが終わった夜は、身体が自分に戻ってくる。

 静が息をひとつ吐く。白が短く、すぐに消える。

「帰りましょう。——兄が、梅を用意している気がします」

「梅か。酸っぱいやつだろ」

「ええ。酸味は、生の味です」


 壬生へ戻る途中、鴨川の黒がひときわ深く見えた。

 蓮は橋の板を踏んだ足裏の記憶を、もう一度だけ反芻した。欄干の角度、板の目の湿り、雪の重み、相手の息の濃さ。

 すべてが一瞬に寄り集まり、たった一言に凝縮される瞬間——

 息が見える。今だ、俺が押す。

 それは、言葉より先に動いた身体の内側で、音のない叫びだった。

 身体が動き、白が走り、刃が止まり、生が残った。

 その順番が、今夜は正しかった。


 壬生寺の門前に着くころ、雪はさらに細く、しかし止む気配はない。

 門の灯が白を背にぼんやりと浮かび、寺の屋根の線は、白と黒の間に沈む。

 庫裏の灯の前に、総司が立っていた。

 咳は、浅い。息は、白。

 静が歩を速め、頭を下げる。

「戻りました」

「お帰りなさい。——橋の風は、どうでした?」

「白で、よく見えました」

 総司は笑って、ひとつ咳をし、それを掌で軽く受け止めた。

「よろしい。では、梅を」

「図星でした」

「風は、だいたい当たります」

 蓮は肩で笑い、槍袋の紐を解いた。

 穂先の雪が、玄関のたたきに小さく落ちる。

 白が消えていく。

 だが、白で勝った夜の白は、しばらく胸に残る。

 胸の白は、梅の酸っぱさと一緒に、喉を通っていった。


 夜半、雪音はさらに小さくなる。

 布団の中で、蓮は目を閉じ、欄干の角度を指先でなぞるように思い返した。

 欄干は高すぎず、低すぎず、二歩で踏める。

 橋は渡るためにあり、縋るためにもあり、押すためにもあった。

 そして、退くためにも。

 眠りに落ちる前、蓮は薄く笑って、胸の中でだけ同じ言葉を繰り返した。

 ——息が見える。今だ、俺が押す。

 雪の白が、瞼の裏で静かにほどけ、黒に紛れていった。

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第五話 茶碗の底に月 — 密偵と茶会


 壬生の町筋から東へ折れ、白川添いの細い路地に、ひっそりとした茶屋がある。看板は小さく、軒に吊るした竹筒からは夕水がぽたり、ぽたりと落ちるばかり。表は粗末な腰掛茶屋、奥に六畳ほどの座敷。名を問えば「月の端」と言う。

 静は軒をくぐる前、袖で軽く風を掬い上げた。白檀と梅の匂い、炒った米の香、そして、鼻の奥で細く尖る油の匂い——灯に継ぎ足した新しい油の鋭さ。

 蓮は反対側の路地へ回り、土塀の外に槍の袋を横たえた。今夜の槍は、見えない。穂先は壁の外から障子の桟に沿わせ、石突で砂をわずかに押し、音もなく「囲む」。包囲は壁の内側ではなく、壁の外で完了する。


「静」

 障子の敷居の下、目に見えぬほどの隙間を通って、かすかな合図が来た。三つ、間をおいて二つ。

 蓮の石突が土を打つ時の震えは、静の足袋の裏で数に変わる。

 ——三と二。入口、裏手、窓。

 静は目をすうっと細め、軒の竹筒の雫が落ちる音と合わさるように、心の中で拍を刻む。二拍目の終いに、敷居をまたいだ。


 座敷には四人いた。角帯をこきっと締めすぎている魚屋の若い衆、碁笥を抱えた旅の文人風、頭巾を目深にかぶった小柄な僧、そして、浅葱の羽織を着た「番頭」。

 女将の「お梅」は腰の曲がりかけた女で、客の顔を見ずに湯を扱う癖がある。茶筅が堅いのか、泡が荒い。

 ——泡の荒さは技の賤しさではない。今夜はわざと、だ。

 静は心中でひとつ頷く。誰かに頼まれている。泡を立てすぎると、香りが割れて甘さが飛ぶ。香りが飛べば、香が立つ者が浮く。


「いらっしゃい」

 お梅の声はやや掠れ、笑いの皺が目尻に寄る。

 静は柔らかく礼をした。

「喉を潤しに参りました。……よろしければ、向こうの座敷で」

「はいはい。狭いけんども、風は通るよってに」

 女将が襖を引き、六畳の座敷へ誘う。脇に細長い床の間があり、竹の花入が低く生けられている。今日の花はヒサカキと薄の穂、わずかに練香の匂い。

 床の間の柱に掛けた半紙には「月在杯底つきははいのそこにあり」とある。

 ——茶碗の底に月。題に合わせて、客の顔を映す、か。


 静は座の中央に控えた。膝を運ぶと、畳の目が指を撫でるように細かかった。手入れがいい。

「お梅さん。——支度は、こちらで致しましょう」

「へえ?」

 女将の目が驚き、次いでほっと緩む。

「旦那、茶のお手前ができはるのけ」

「少しかじっております。今夜は私が点て、皆さまに召し上がっていただければ」

 魚屋の若い衆が面白そうに笑い、文人風は目尻を下げ、僧は沈黙、番頭は袖の中で算盤を弄ぶ癖を見せた。

 静は釜の蓋に掌を浮かせ、湯の息を聞く。ふつ、と小さな息が立ち上がる。

 ——湯はよい。

 なつめに手を伸ばし、袱紗を捌き、茶杓を抜く。

 茶杓の腹に、わずかな粉の線が残っている。直線ではなく、左へ少し逃げる斜め。

 普通、茶杓は右手で取り、棗の中で右から左へ掬うから、線は右が深く、左が浅くなる。

 目の前の線は逆——左が深い。

 誰かが、左手で「触った」。


 静は袱紗の端で棗の口を払うふりをして、その線にもう一度だけ目を細めた。粉の粒の大きさが揃っていない。茶筅ではない、棚の上の振動でもない。——手の線。

 今夜、座にいる四人のうち、左手で箸を取った者は一人。

 魚屋の若い衆は串を右で払っていた。文人は筆茎のタコが右にある。僧は数珠を右で繰っていた。

 ——番頭。

 番頭は、手ぬぐいで汗を拭うとき、左手で口元を押さえ、右手を袖に隠した。

 奥歯で噛む癖が左に寄り、鼻息も左が強い。

 左利き。

 しかし着ている羽織の紋は江戸の店のもの。関西に長くいる者は、左利きでも箸だけは右にめられることが多い。矯められていない、ということは——最近まで江戸にいた。

 江戸帰りの番頭。

 香は、麝香の影が薄い。江戸の流行の香ではない。

 ——香りは嘘をつきません。人もまた、ね。

 静の胸の奥で、言葉が静かに沈む。


 静は棗の蓋を右手で取り、左手に受け、膝前に置く。茶杓で二杓、薄茶を掬い、茶碗に落とす。茶杓の腹に粉が薄く残るのを、袱紗で軽く払う。

 茶碗は井戸の水で預かり洗い済み。肌は若く、土は白い。底に、釉薬の溜まりが小さな月のように光る。

 ——月は杯の底。

 柄杓を上げ、湯を一口。

 茶筅通しは短く、泡を立てすぎない。香りを逃がさぬため、泡を潰さず、表面に細かな景色を残す。

 静は最初の一服を自らすすり、口を清める。

 次を、魚屋の若い衆へ回す。

 若い衆は茶碗を受け、二度ほど時計回りに回して、正面を避ける作法のまま、勢いよくすすった。

「うめえもんだな」

 笑う声は素朴で、香の誤魔化しがない。

 次に、文人。指先が長く、茶碗を持つ手の筋が薄い。二度回し、一息、二息、と間を測り、丁寧に口をつける。茶の香りを鼻に通し、喉で一度だけ響かせる。

 ——香りを知っている。

 次は、僧。

 僧は口元の布を少し下ろし、儀礼の一礼をし、小さな息で二度すすった。手は右。喉仏が薄く上下する。

 最後、番頭。

 番頭は茶碗を取り、ほとんど無造作に一度だけ回した。

 回す向きが、左に傾く。

 普通、右手で持てば時計回りに回す。彼は左手で受け、反時計回りに、わずかに。

 さらに、口に運ぶ瞬間、茶碗の正面の「景色」を避けていない。

 ——盲点。

 茶碗の見所を避けるのは茶会の礼。これを踏まえないのは、手練れではない。だが、粗忽でもない。

 「形」を覚えたばかりの者の動き。

 誰に教わった? 江戸の茶の流儀は、京と細部が違う。

 江戸帰りの番頭。左利き。茶杓に残る左の線。

 静の心の中で、薄い線が二つ、三つと結ばれていく。

 蓮の石突が、土の外で一度だけ小さく鳴った。

 窓際——一人、外に待つ影。


「もう一服、点てましょう」

 静は笑って言い、二服目を薄く点てた。今度は香の立ち方を見るため、湯の温度を一度だけ落とす。香りは湯の温度に敏感だ。高すぎれば甘みが死に、低すぎれば青さが立つ。

 湯音はふつ、ともう一段柔らいだ。

 茶杓を棗に戻す。

 ——棗の縁に、粉が新しく付く。

 付く位置は、先ほどの線の上。だが、角度が違う。

 静は茶杓を置き、茶巾を折り直しながら、座の隅、壁際の柱の陰へ目を遣った。

 影が、一つ。

 柱の影の上に、白い粉がひとすじ、極めて細く飛んでいる。

 ——先に誰かが棗を触った時、粉が跳ねた。

 粉の跳ねる線は、棗の口から柱へ向かって左へ走っている。

 座の左手にいちばん近いのは、番頭だ。

 彼は最初に座に入ったとき、茶道具に無関心を装いながら、一度だけ棗の辺りを見た。

 その視線の「薄さ」が不自然だった。

 見るまい、という意志は、見ているのと同じたけだけ濃い。


「香は、いかがです?」

 静は茶を回しながら、穏やかに問いかけた。

 魚屋は「うめえ」と笑い、文人は「若い土だ」と言った。僧は「静か」とだけ。

 番頭は、言葉を選ぶのに半呼吸遅れた。

「……香のことは、ようわかりません」

 静は微笑み、首をすこし傾けた。

「香りは嘘をつきません。人もまた、ね」

 その一言に、番頭の視線が、刹那だけ跳ねた。

 跳ねた方向は、座の外——勝手口。

 蓮の槍がいる方ではない、もう一方。

 ——出口を、まだ信じている。


 静は茶せんを置き、茶碗の底をそっと持ち上げた。月のような釉薬の溜まりが、釜の灯を吸いこんでいる。

「月は杯の底に。……皆さま、湯を足します。三口で」

 三口のうち、二口は香りを運ぶ。最後の一口は、喉に落とすための口。息の長さがそこで測れる。

 番頭の最後の一口は、短い。喉が水を急ぐ。

 静は湯を足し、お梅に目配せして、建水を少しだけ手前へ引いた。間合いを狭め、番頭の足を不自由にする。

 文人風が、何気なく扇子を開いて風を送った。

 扇の香は山桜。——手入れがいい。

 僧は沈黙を保ち、ただ座を整える。

 魚屋は軽く背中を伸ばし、畳の目を見ている。

 それぞれの人の「落ち着く場所」が、香りの流れでわかる。


「さて」

 静は袱紗を折り、棗の蓋を閉め、その蓋の中央に、茶杓の先を軽く当てた。

 蓋の漆面に、茶杓の先でほんのかすかな円形の跡が残る。

 ——これでよい。

 茶杓を横に置き、茶碗を一つ、番頭の前へ滑らせる。

「もし、よければ。——一服、あなたの手で点ててくださいません?」

 座がわずかに揺れた。

 魚屋は「へえ」と目を見開き、文人は興味深げに扇を閉じ、僧は目を伏せる。

 番頭は、一瞬だけ目の奥で躊躇いを光らせ、すぐに消した。

「……よいでしょうか」

「もちろん。親しき仲の、客点てと申しまして」


 番頭は棗の蓋に手を伸ばした。

 左手。

 静は気づかぬふりで、茶筅を進めてやる。

 番頭は茶杓を取り、棗の口から粉を掬う。

 茶杓の動きは覚束ない。だが、手は慣れている——左手の基礎が、動きを支える。

 掬い上げた後、茶杓の腹を棗の縁にわずかに当てて余分な粉を払った。

 そのとき、先ほど蓋の中央に当てた茶杓の円形跡に、別の「擦れ」が重なった。

 ——左から右へ、浅い擦れ。

 静は、蓋の跡の細微を目に焼きつけ、唇の内側で小さく息を抜いた。

 番頭が「左」で茶杓を扱い、これ見よがしでなく自然に「仕草」を挟んだ瞬間。

 左を隠さぬ左。その自信。

 しかし、茶碗の回しは、先ほど右のふり。

 バラバラの礼。

 礼のバラバラは、習いの浅さではない。

 ——二つの師匠。江戸の教えと、京の教え。

 一つは「正当」を装うため、もう一つは「忍び」を足すため。

 誰かが短期間に、番頭へ茶の形を教えた。

 誰だ。

 香、構え、言葉。

 女の手はない。男だ。

 文人風は、教えるならもっと「景色」を愛する教えをする。僧は、茶の飾りを嫌う。

 ——外。

 障子の向こう、壁の外の槍の根元から、乾いた土の香がした。蓮が、石突で砂を撫でて合図を送る。

 外に、もう一人。

 静は番頭の手元へ視線を戻した。

 茶筅の通し。

 番頭は茶筅を垂直に立て、上から下へ漕ぐのみ。左右の撫で付けがない。泡は粗く、香が割れる。

 ——教えた者は、香を知らない。

 香を知らない者が、なぜ茶を教える?

 道具が必要だったのだ。茶の「しかけ」。


「もうよろしい。……お上手です」

 静がそう言い、番頭の茶を受ける。

 茶は若く、まだ粉っぽい甘みが残る。

 静は口にふくみ、香を鼻に返しながら、目を床の間の花へ遣った。

 花入の根元に、細い紙。

 紙の角がほんのわずかに折れ込んでいる。折れ込んだ角には白い粉がつく。

 棗の粉。

 誰かが花の根元に紙を忍ばせるため、棗を持ち出した。

 今夜の目的は、茶会ではなく、花入。

 ——三拍子が揃った。左の線、回しの癖、花の紙。


 静は膝を崩さず、体をわずかに斜めへ滑らせた。

 番頭が茶碗を置く瞬間、静の指が、糸のように細い動きで花入の根元へ伸びる。

 紙を「摘む」のではない。花の足元の空気を一寸押し、紙の一辺を浮かせ、親指の爪で軽く引き込む。

 紙は音もなく静の掌に落ちた。

 裏を見る間はない。

 静は紙を袂の陰に隠し、膝前の茶碗に視線を戻す。

 番頭の喉がひとつ鳴った。

 次の息が、短くなった。


「お梅さん、勝手口に風が」

 静は声を柔らかく、しかし通るように出した。

 女将が驚いて振り向く。

 その一瞬に合わせ、蓮の槍が障子の桟の外で、目に見えぬ「線」を引いた。

 す、と障子が動き、勝手口の外から伸びた影が、槍の柄に触れて止まる。

 外の男がいる。

 番頭の頬が、浅く引きつる。

 ——逃げ道は、どこにもない。


「さて」

 静は膝をただし、袱紗を畳み直し、茶碗を自らの前へ引いた。

「茶はここまで。……お話の席を、次に」

 番頭が笑った。笑ったつもりの顔。鼻筋のわずかな汗を袖で拭い、数珠を持つ僧をちら、と見、文人をかすめ、魚屋へ流し、最後に静へ戻す。

 視線は、泳がない。泳がないふりをする。

 静は微笑んだ。

「左利きの客人。——棗の粉の線は、左から右へ。茶杓の跡は新しく、しかも浅い。今夜、この座に入る前に、一度茶入に触れましたね。花の根元に紙を置くために」

 番頭の肩が硬くなる。

「な、何を——」

「茶碗の回し方は京の礼に似せましたが、反時計回り。江戸帰りの手つきが抜けません。香は江戸の流行を持ち帰っておらず、今日の香はこの座の練香だけ。つまり、あなたは香に興味がない。香に興味のない方が、なぜ茶を? ——誰かが教えたから。短期間で」

 静は、穏やかな声のまま続ける。

「教えた者は、香を知らない。茶筅の撫で付けが抜けて、泡が粗い。香りを壊す点て方です。道具が要るだけだった。——花入の足、紙の角の粉」

 袂から紙を出し、掌に乗せる。

 紙は薄く、墨の薄い文字が走る。

 『明夜 高瀬舟ノ舟入 二ツ目ノ杭 松風』

 合言葉と場所。舟入の杭。松風——今夜の湯音の名を合図に。

 文人が扇を閉じ、僧が瞼を上げ、魚屋が息を呑む。

 番頭は、膝の上の手を握りしめた。

 爪は短い。手の甲に細い古傷がある。

 商いの手ではない。

 ——役者は、ここまで。


「暴れるなら、障子の外へどうぞ。内は茶の間です」

 静の言葉のすぐ後に、蓮の槍が障子の桟をさらに一寸、外へ押しやる音がした。見えないが、そこに「線」がある。

 番頭は、立たなかった。

 座の礼を崩さず、静を見上げた。

「……どうして、俺だと」

「香りは嘘をつきません。人もまた、ね」

 静は、そこで一度だけ微笑を薄くした。

「あなたの羽織は新しい油の匂いがします。道具の油。店の油ではありません。——そして、棗の粉」

 番頭の唇が、わずかに開く。

 次の瞬間、障子の外で短いわめきが上がった。

 蓮の槍が、外の男の手首の腱を石突で押さえ、刃を落とさせた音だ。

 静は座の内を乱さず、ただ手をひとつ打った。

 お梅が、合図と心得て、裏口の閂を下ろす。

「お梅さん、表へ——『いつものもの』を」

 女将は頷き、小走りに表へ出て、木札を立てた。

 『本日貸切』

 茶屋の外に、人の流れが自然に避けの道を作る。


 文人風が、静を見て穏やかに頷いた。

「なるほど。茶の作法は『音』から始まるのだな」

 僧は小さく問う。

「その紙、渡す先は?」

「土方さんがよろしいでしょう。舟入の杭は、彼が好きな類いです」

 静が返すと、魚屋が照れくさそうに頭を掻いた。

「俺ぁ何も分からねえけど、旨ぇ茶だったわ」

「ありがとうございます」

 静は礼をし、最後に番頭へ視線を戻した。

「——生きて、困ってください」

 番頭は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。

 静は、その息に、ほのかな救いの気配を嗅いだ。

 香は嘘をつかない。

 人もまた、嘘をつききれない。


 座が解ける前、静はわずかな時間を置き、棗の蓋をそっと撫でた。蓋の中央の円い跡に重なる細い擦れが、もう一度光を拾う。

 茶杓の跡は些事に見えて、足跡に等しい。

 ——わずかな跡から利き手を割る。

 その一寸の差を、刃で埋める必要は今夜はない。

 刃の代わりに、語を置けばよい。

 静は袱紗を畳み、茶筅を洗い、茶巾を伸ばし、道具を元へ収める。

 ひとつひとつが静謐で、ひとつひとつが証拠を消す動きでもある。

 茶の間は、茶の間に戻る。

 密偵の間ではない。


 外の路地で、蓮が短く笑った。

「静。中は静かだったな」

 障子越しの声は低く、石突が砂をまたひと撫で。

「ええ。……槍は見えませんでした」

「見せなかったからな。見せないで届くのが、一番性に合う」

「お疲れさまでした。外の方は?」

「生きてる。骨は折ってねえ。明日の天気がよけりゃ、痛みは長持ちだ」

「長生きも、痛みも、どちらも『困る』の一種ですね」

「お前、ほんっと上品に意地が悪い」

「褒め言葉として頂いておきます」


 文人と僧と魚屋を送り出し、番頭には別の道から出てもらった。

 出がけに、番頭は静に向かって浅く頭を下げた。

「……香りは、嘘をつかない、か」

「ええ。嘘は風に乗りますが、香りは残ります」

 番頭はその言葉を胸に置くようにして、足を運んだ。

 蓮が外で無言のまま同行し、表へ出たところで、隊士二名に引き渡す。

 女将のお梅は、座を片付けながら鼻で笑った。

「旦那は、茶の座で人を斬らはらへん」

「ええ。斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」

「よう言わはる」

 お梅の手は早い。茶巾がきれいに伸び、建水の水は静かに光る。

「お梅さん」

「なんぞ」

「床の、半紙。良い文でした」

「お客の文やしらへんけどな。月は茶碗の底に居るもんや。そやさかい、顔がよう見える」

「お見通しですね」

「そら、歳やさかい」

 お梅は茶杓を撫で、棗を磨き、ふう、と息を吐いた。

「また、おいでやす」

「また参ります」


 外へ出ると、夕餉の支度の煙が遠くの屋根から立ちのぼっていた。白川の水は薄く匂い、風は乾いている。

 蓮が槍袋を担ぎ、肩を回す。

「紙、見せろ」

「どうぞ」

 静は袂から紙を出し、蓮と並んで歩きながら目を通す。

 『明夜 高瀬舟ノ舟入 二ツ目ノ杭 松風』

 蓮が鼻を鳴らした。

「土方さんが好きそうなやつだな。杭を数える仕事、あいつ得意だ」

「ええ。——明夜は、風ではなく、水の音でしょう」

「水の音は、ごまかせねえ」

「香りと同じです」

「人も、同じだな」

「ええ。人もまた、ね」

 二人は顔を見合わせ、ひとつだけ笑った。


 壬生へ帰る道の途上、空は薄い茜に染まり、屋根の端が黒く切り取られる。

 静はふと、茶碗の底の月を思い出した。

 茶碗の月は、飲み干すたび、新しく現れる。

 それは、刃を抜かずとも現れる月だ。

 香りが嘘をつかないように、月もまた、嘘をつかない。

 彼は袖の中で、指を軽く組み、歩幅を半歩だけ広げた。

 兄の影を踏まず、蓮の槍を見せず、香りで勝つ夜。

 ——茶碗の底に、今夜も月。

 静はそれを胸に置き、拍を二つだけ軽く取り、歩き続けた。

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