第94話【警報と真犯人の影】
障子の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。その足音は私達のいる部屋の前でぴたりと止まり、襖が勢いよく開け放たれた。
「舞久蕗様!ご報告で御座います!」
男性の使用人が顔を真っ青にして部屋に飛び込んできた。余程慌てて駆けつけてきたのか、呼吸は乱れ、肩が上下している。彼は乱れた呼吸を整えようとしながら必死に、しかし早口に言葉を紡ぎ出した。
「聞きましょう、錦織。」
「先程、警備隊が屋敷の周囲を捜索致しましたところ…堤之が倒れているのが発見されました!背中に深い傷を負っているところから、どうやら何者かに襲われた模様です!」
「くっ、遅かったか…!」
錦織と呼ばれた使用人の報告に、冷静を保っていた一葉さんの顔は悔しげに歪んだ。
「それで、堤之の意識は?」
一葉さんの問い掛けに、錦織さんは俯きながら申し訳なさそうに答えた。
「…未だ意識は戻っておりません。只今、屋敷の医師と治療術師が治療に当たっております。」
堤之さんが意識不明の重傷……?
料理の材料を買いに出てくれていただけの何の罪もない人が、こんなにも危険な目に遭うなんて酷すぎる。
一葉さんの声は緊迫したものに変わっていく。
「…堤之を発見した時、怪しい影はなかったのですか?」
「いいえ…周囲には誰の影も見当たりませんでした。不審な人物が目撃されたという報告も今のところは御座いません。」
「…そうですか。」
誰もいない。痕跡もない。それなのに、堤之さんは重傷を負って倒れていた。
私達は不可解な状況に戸惑っていた、その瞬間だった。
ギィィィィィィンッ……!
頭が痛くなるような高音が屋敷中に鳴り響いた。
それは甲高く、非常事態を告げる明確な響きだった。
「っ!何なのこの音…っ!」
「…この警報は、敵が結界に触れた合図ですね。」
頭を抑えながら反射的に身を震わせた私の隣で、一葉さんがボソリと呟く。彼の表情は再び引き締まり、瞳には強い警戒の色が宿る。
「失礼致します!」
今度は女性の使用人が慌てた様子で部屋に入ってきた。彼女もまた、息を切らしている。額には脂汗が滲み、目には恐怖の色が浮かんでいた。
「舞久蕗様!結界に反応あり!何者かが真正面から結界を破ろうとしている模様です!」
結界に、真正面から攻撃…!?敵が本格的に動き出したというのか。
「ほう、それは驚きだ…。普通は敵意を持った者が結界に触れた場合、反動で気絶するか…あるいは肉体が砕け散る筈なのですが。彼等の力は並大抵のものではないと推察出来ます。」
「如何なさいましょうか、舞久蕗様。」
女性使用人は恐る恐る一葉さんに尋ねる。
「…桃里、幾つかお伺いします。まず、結界を攻撃している敵の数は分かりますか?」
桃里と呼ばれた女性使用人は顔が青ざめているものの、一葉さんの問い掛けに即座に反応した。
「はい!現在結界に攻撃を仕掛けているのは、三名との事です!」
腕を組みながら、一葉さんは僅かに視線を天井に向ける。何かを深く、素早く考えている様子だ。
「三名とは、また随分と…。では、その者達が手にしている武器についても何か情報は入っていますか?どの様な形状の武器を持って、我々の結界に攻撃を仕掛けているのか…それも知りたい。」
「えっと…報告によりますと、敵が手にしているのは…細身で短めの、光剣の様なものだそうです。光を放ちながら、結界に斬りつけていると…。」
「細身で短い、光の剣ですか。」
一葉さんは静かに反芻すると顎に手を当てる。
「だとすれば……堤之の背中の傷というのは、その光剣によって負ったものなのかもしれませんね。光剣ならば焼け爛れた傷がある筈ですが…錦織、堤之の傷の状況について詳しく教えて下さい。」
「…舞久蕗様、光剣によって負った傷というのは少し違うかと…。」
錦織さんは少し言いにくそうな様子で、一葉さんの考えを遠回しに否定した。
「違うとは?」
「堤之の傷は非常に深く、斬り口が粗いもので……とても光剣で負ったとは思えません。焼け爛れた痕も特に見当たりませんし…まるで巨大な剣や大鎌の様な、非常に大きな刃物で斬り裂かれたとしか考えられません。」
「(大鎌…?)」
錦織さんの言葉を聞いた瞬間、ある存在が私の頭をよぎった。
麗夢と艶。以前、私を狙って現れたあの二人は巨大な大鎌を武器にしていた。まさか…彼女達が、再び現れたというのだろうか?それとも同じ組織の仲間?だとしたら、奴等の目的は―私。
その間も一葉さんは、冷静に使用人達の報告に耳を傾けていた。
「……では、堤之の傷は光剣によるものではないと。そして、敵は三人で真正面から結界に攻撃している。」
「そうで御座います。…舞久蕗様、何か不自然な点が御座いましたでしょうか?」
「少し腑に落ちない点がありましてね。まずは、敵が真正面から結界を攻撃しているという点です。この一葉家の結界は相当な能力の持ち主ですら破るのが難しいもの。それは実際に接触した彼等も痛感している筈です。にも関わらず、今も尚、立ち向かってくるというのは無謀過ぎる。」
「確かに…舞久蕗様並みの力を持っていなければこの結界は…」
「いや、僕が敵の立場でも結界を破れるかどうか…。もう一つは、堤之の傷です。大きな刃物で斬り裂かれた傷……もし彼等が光剣以外に大きな武器を持っていないのならば、堤之を襲った犯人は他にいる。まさか先程の結界の異変はその真犯人…?」
一葉さんはブツブツと考えを巡らせていた。
黙って聞いてはいるものの、使用人達の顔は恐怖と困惑で歪んでいた。
深く息を吐き出すと、彼は確信に満ちた声で結論を述べた。
「…恐らく、三人は堤之を襲った真犯人の部下でしょう。この結界に接触するのはあまりに危険ですからね。部下に接触を試して貰うついでに結界を破って貰おうという魂胆ではないでしょうか。そう考えると、真犯人はきっと近くに隠れている。」
「近くに…!?」
錦織さんと桃里さんは驚きの表情を浮かべる。私もまた、背筋が凍る様な衝撃に囚われた。
「堤之を襲った理由も大体分かってきました。結界の接触が危険と感じ、頭を悩ませていた真犯人と鉢合わせしてしまったのでしょう。」
「確かにそれだと辻褄が合いますね。では、どう対処すれば…!?」
錦織さんが焦りの色を隠せずに尋ねる。
一瞬の沈黙の後、一葉さんは決然とした眼差しで二人の使用人を見据えた。
「…すぐに警備部隊を撤退させなさい、敵に見つからないよう必ず裏口から戻る事。結界の外には…僕一人で出ます。」
一葉さんの言葉に私達は耳を疑った。
そんな危険な事を彼一人で対処するというのだろうか。
「なっ…舞久蕗様!?流石に危険で御座います!」
「そうです!当主代理である貴方様に何かありましたら私共は…!どうかご再考を!」
錦織さんが血相を変えて叫ぶ。桃里さんも必死に一葉さん止めようとするが、二人の反応に彼は静かに微笑む。
「心配には及びませんよ、僕にはコレがありますからね。」
そう言って、一葉さんはポケットから小さな深緑色の巾着を取り出した。彼はゆっくりと巾着の紐を解き、その中にあったものを手のひらに乗せる。
それは、単葉の形をした翡翠色の小さな石だった。光を反射してキラキラと輝いて見える。
「ソレを使われるのですね…!」
桃里さんが小さく呟いた。
「こういう時の為に使わなければ。僕の力とコレさえあれば、彼等と対峙など余裕です。むしろ、僕でなければこの状況は打開出来ません。」
一葉さんの表情は絶対的な自信が満ち溢れていた。
「錦織、桃里。丁度いい…君達は羽闇嬢の警護を頼みます。彼女から目を離さないように。何か異変があれば、すぐに連絡を。」
「「はっ!」」
一葉さんは私の方をちらりと見る。そして翡翠色の石をしっかりと握りしめ、迷いなく部屋を去っていった。彼の背中はいつもよりもずっと大きく、頼もしく見えた。