第92話【静寂の破綻】
詩集を読み終え、私はパタンと薄い本を閉じると、満ち足りた心地で隣の一葉さんへと顔を向けた。
「あっという間に読み終わっちゃいましたね。それにしても、詩ってこんなに深いものだったなんて全然知らなかったから凄く勉強になりました!一葉さんはどうでしたか?」
私はそう言って、隣の一葉さんに感想を伝えた。
しかし一葉さんは黙り込んだまま、壁に掛けられた古めかしい振り子時計に視線を向けていた。その横顔には普段の彼の涼やかで知的な雰囲気とは違う、微かな陰りが差しているようだった。
私も時計の方へ目をやると、長針と短針は既に十四時を指そうとしていた。
「えっ、もうこんな時間!?」
午前中から始まった一葉さんとの穏やかな時間は、想像以上に早く過ぎ去っていた事に驚かされる。読書に没頭していたとはいえ、まさかここまで時間が経っていたとは。
ぐぅ~…
「ハッ…!」
私のお腹の音がこの静寂の中でやけに大きく響いた。そういえば、まだ昼食を摂っていなかった。
パンパンッ
「五月女さん。」
時計からゆっくりと目を離した一葉さんはそんな音を気にも止めず、一度軽く手を叩いて部屋の外に向かって呼び掛けた。
「はい、舞久蕗様。何か御座いましたでしょうか。」
すぐに襖が静かに開き、五月女さんが部屋へと入ってきた。彼女は落ち着いた物腰を保っているものの、その表情には普段の穏やかさとは異なる慌ただしい焦りの色が明確に見て取れた。
「昼食予定の時刻がとっくに過ぎていますが、何か手違いでもありましたか?」
彼の問い掛けに、五月女さんは申し訳なさそうに眉を下げる。
「申し訳御座いません、舞久蕗様。実は…お昼の膳にお出しするお料理に少々足りない材料が御座いまして。」
「…それで、どうしたのです?他に何らかの事情があったのでしょうか。」
「はい。使用人の堤之が、先程一葉家の御用達の店まで買いに出てくれたのですが、中々帰ってこず…。何か事故にでも巻き込まれたのではないかと皆大変心配しておりまして。」
報告の途中で、一葉さんの表情がすっと硬くなっていく。
「…堤之が買いに出て、もうどれ位になるのです?正確な時間を教えて下さい。」
「えっと…確か此方を出たのは十二時過ぎでしたから、そろそろ二時間が経つ頃かと…。本家からあのお店までは十五分と掛からないので、とうに買い物を終えて戻っている筈で御座います。一体、何が起こったのでしょうか…。」
私は息を呑んだ。十五分で行ける場所に二時間近くも戻ってこないなんて、確かに只事ではない。堤之さんという方がどんな人かは知らないけれど、尋常ではない状況は私にもはっきりと理解出来た。
一葉さんは黙って五月女さんの話を聞いている。彼の眉間の皺が見る見るうちに深くなっていくのが見て取れた。
「……やはり。」
そして何かを確信したかの様に低く呟いた。意味深な言葉に私の胸に嫌な予感がよぎる。
五月女さんは何かを察したのだろうか、僅かに目を見開いて彼の顔を不安そうに見つめた。
「舞久蕗様、何かお心当たりが…?堤之が戻らないのと関係が……まさか、不審者…!?」
「実は先程…結界の近くで何か普段とは違う、奇妙な振動の様なものを感じたのです。」
結界。それはこの一葉本家を強力に守る、目には見えない防御壁だ。その振動が普段とは違うとは、一体何を意味するのだろうか?
「ですが本当に微かで、気のせいかもしれないと判断していました。まさか、こんな形で明確な兆候が現れるとは……僕の認識が甘かったと認めざるを得ませんね。」
一葉さんは少しばかり自嘲気味に付け加えた。
五月女さんは彼の説明を真剣に聞いていたが、さっと顔を青ざめさせた。
「その様な事が……!?ですが、ご当主様は只今ご不在で御座います。この状況では一葉家で『葉の力』を最も強く宿されておられる舞久蕗様に全てご指示を頂かなくてはなりません!」
彼女は両手をきつく握りしめ、何かを堪えている様子だった。
「(葉の力…?)」
私はその言葉に首を傾げる。
「ええ、勿論承知しています。…此処からは僕が当主代理として皆を指示する。」
一葉さんは彼女の言葉を静かに受け止めると、真剣な眼差しで頷いた。普段の彼からは想像出来ない程、強い覚悟が滲み出ていた。
「はっ!」
「迅速な対応が必要ですね。五月女さん、警備部隊の配置は把握していますね?」
五月女さんが即座に答える。
「はい、全て頭に入っております!」
「では、現在本家周辺の警備を行っている者以外の警備部隊は至急、堤之の捜索に当たらせろ。一刻も早く彼の安否を確認しなければならない、もし彼の身に何かあったとすれば我々の失態です。」
彼の指示は素早く、的確だ。五月女さんは彼の指示を全て頭に叩き込む様に何度も頷いていた。
「但し、敵がいる可能性も否定出来ません。単独行動は避け、必ず複数人での捜索を厳しく命じろ。決して犠牲を出してはならない…それは何よりも避けたい事態です。」
更に、一葉さんは周囲への配慮も怠らない。その様子からは使用人達の安全を第一に考える、彼の優しい一面が垣間見えた。
「結界部隊は引き続き屋敷の結界強化に専念しろ。外部からの侵入を許さないよう、術式を最大限に高めろ。非戦闘員には安全確保の為屋敷内に待機させ、無闇に外に出ないよう厳しく伝達しろ。何かあればすぐに報告。…これが僕の今の指示です、何か不明な点は?」
「いいえ、全て明確で御座います!確かに承りましたので、直ちに全ての手配を致します!」
五月女さんは力強く返事をするや否や、慌ただしく部屋を出て行った。廊下を駆けていく足音が遠ざかるにつれて、再び静寂が部屋を包み込む。
一体何が起こっているのだろう?堤之さんという人が戻らない事と一葉さんが感じたという結界の微かな振動。それらが一体どう結びついているというのだろうか?
この静かな一葉本家で、何が始まろうとしているのかまだ分からない。しかし、これから起こるであろう嵐の前の不吉な予兆に感じられた。




