第87話【翠葉の詠み手】
一服終えて、温かい湯呑みをそっと座卓に置いた。芳醇な緑茶の香りが鼻腔の奥に残っていて、じんわりと心まで温まる様だった。
一葉さんもゆっくりと湯呑みを置き、静かに立ち上がる。
「では早速、読書を始めましょうか。」
「はい!」
彼に促され、私も座布団から腰を浮かせた。そして、二人で並んで壁一面に広がる巨大な本棚へとゆっくりと歩み寄る。
「えっと……何処から見たらいいのかな。」
「羽闇嬢。この辺りはやや専門的な内容が多いので、君の興味を引く様なジャンルは此方に纏めてあります。」
彼が細い指で差し示したのは、本棚の左側…私の目線の高さに近い棚だった。視線を辿ると、そこには色とりどりの背表紙が並んでいるのが見て取れた。煌びやかな装丁のファンタジー小説らしきもの、繊細な筆致で描かれたイラストが小さく添えられた詩集など…。普段私が手に取る事は少ないけれど、どれもこれも気になるタイトルばかりだ。
「わぁ、本当ですね!タイトルも魅力的で、どれも面白そう…!」
自然と声が弾んでしまう私に、一葉さんが予想通りという様に僅かに口元を緩めた。
「…どれにしましょうか?君が最も惹かれるものを手に取ってみて下さい。」
「うーん、中々一つに決めるのが難しいですね…」
返事を待つ様に、一葉さんはじっと私の様子を見守っていた。私は迷いながらも一つずつ背表紙を指でなぞっていく。すると、指先がある古びた一冊の分厚い本に触れた。他の本に比べて、控えめながらも不思議な存在感を放っている。
表紙には深い緑色の地に繊細な銀色の模様が施されており、タイトルは『葉奏でる運命の調べ』と書かれていた。そして、その下には見慣れた苗字の著者名が記されている。
『一葉 深翠』
「一葉…?あの、一葉さん。この名前なんですけど…」
私は一葉さんに問い掛けると、彼の表情に微かな変化が浮かんだ。それは遠い過去を懐かしむ様でそれでいて少しだけ寂しそうな、複雑な色を帯びた表情だった。
「嗚呼、その方は僕の実の祖母にあたります。因みにそれは占いの本です。」
衝撃的な言葉に、私は驚いて目を大きく見開いた。
「ええっ!一葉さんのお祖母様が書かれた本!?」
意外な事実に、この本が只の占い本ではない特別なものに思えてきて興味がぐんと増した。
「占いの本って事は、占い師の方なんですか…?」
「表向きはね。僕の祖母…一葉 深翠は予言の力を強く宿しており、能力者の世界では『翠葉の詠み手』と謳われていました。彼女の力は、正に天賦の才と言えるものだったそうです。世間では只の占い師として密かに活動していましたが、その占いは百発百中だったと聞いています。」
「翠葉の詠み手…?そんな凄い力を持った人が書いた本だなんて…。」
私は本をじっと見つめる。一葉さんの研ぎ澄まされた知性と何処か神秘的な雰囲気は、もしかしたらこのお祖母様から受け継いだものなのかもしれないとぼんやりと思った。
「残念ながら祖母は既に他界しており、彼女が遺した本はこの一冊だけなのです。」
その声には微かに寂しさが滲んでいるのを感じた。たった一冊しか残っていない、大切にされてきた形見の本なんだろうな、と私は胸が締め付けられるような気持ちになる。
「そう……なんですね……。」
本をそっと手に取ると、ずっしりとした重みが本の持つ歴史とそこに込められた祖母の思いを物語っている様だった。
「少し感傷的になってしまいましたね…。実は僕自身も祖母が遺したこの本をきちんと読む機会がなく。もし君が気になるのであれば、これを機に一緒に読んでみるのも悪くないと考えていたところです。」
一葉さんは私の顔を見つめながら穏やかに微笑んだ。彼の瞳の奥には、期待の様な光が宿っていた。
「はいっ!私、この本が気になります!是非、一緒に読みたいです!」
「では、それにしましょうか。」
私は満面の笑みで答えると、一葉さんも満足げに頷いた。この本から一葉さんの、そして彼の家族の新たな一面を知れるかもしれない。
本を抱きしめる様にして、私は再び座卓へと戻った。しかし、一葉さんが座ったのは私の向かい側ではなく隣だった。お互いの肩が触れるか触れないかの限りなく近い距離に私の心臓が、トクン!と大きく跳ね上がった。
「えと…ちょっと、一葉さん?少し近くないですか…?」
思わず、上擦った声で一葉さんの名前を呼んでしまう。顔を上げると、彼はごく自然でありながらも、それでいて少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「おや…そうですか?しかし、こうしないと二人で一緒に読むのは難しいでしょう?」
そう言われて、確かにそうだと納得した。この分厚い本を二人で向かい合って読むのは、少々無理があるだろう。これ程間近に一葉さんがいるという事実に、私の心臓は騒がしく鳴動している。彼の息遣いを感知する度に、鼓動が早まっていくのが分かった。
「そ…そうですよね!何言ってるんだろ、私ってば!確かに、一緒に読むんですから当たり前ですよね…!」
ぎこちなく返事をすると、一葉さんは私の手元にある本の表紙にそっと指を滑らせ、本の端を優しく押さえる。
「ページを捲ってみましょうか。祖母がどんな面白い事を書き残しているのか、僕も楽しみだ。君も、新たな発見があるかもしれませんよ。」
一葉さんはゆっくりと本のページを捲った。ぱらぱらとページが繰られる毎に、長く閉じ込められていた古紙独特の匂いが漂う。現れたページには、様々な占いの種類がずらりと並んでいた。
「『夢占い』に『恋占い』、『姓名判断』、『手相占い』……色々な占いが載っていますね!」
どれもこれも普段雑誌で読む簡単なものではなく、もっと専門的で奥が深そうな内容がびっしりと書かれている。イラストも豊富で神秘的な模様やシンボルが描かれており、見ているだけでその世界に引き込まれそうだ。
「ええ、祖母はあらゆる占術に通じていましたから。ふむふむ…成る程、これは中々興味深そうだ。」
一葉さんもまた、瞳をキラキラさせながらページの隅々まで熱心に目を通している。こうしてこんな風に瞳を輝かせている姿は少し新鮮で、彼の横顔がいつにも増して美しく見えた。