第85話【迎賓の奥座敷】
外の景色はいつの間にか、都会の喧騒から離れて静かな住宅街へと移り変わっていた。高い塀に囲まれた邸宅や、手入れの行き届いた庭園が窓の外を流れていく。不意に車体がゆるやかに減速し始め、やがて音もなく停車した。
「……到着しました、羽闇嬢。」
目の前に現れたのは、息を呑む程に荘厳な古風ゆかしい和風のお屋敷だった。黒々とした瓦屋根は威厳に満ち、白い漆喰の壁は日差しが反射して眩しく輝いている。手入れされた松の木が堂々たる佇まいで並び、その奥には広大な庭園が広がっているのが垣間見えた。何処か静謐で、それでいて力強い空気が漂っている。時代劇に出てくる様な、古き良き日本の美しさが凝縮された景色に私は只々圧倒されるばかりだった。
「わぁ…此処が一葉さんのお家ですか?」
思わず漏れた声に、一葉さんは小さく頷いた。
「はい。月光邸に比べると少し手狭かもしれませんが、心地よい空間である事は保証しますよ。」
運転手の鷺村さんが素早く車から降りると、後部座席のドアを開けてくれた。一葉さんが先に降り立つと、先程の様に私に手を差し伸べてくれた。
「羽闇嬢。どうぞ、お手を…。」
「あ、ありがとう御座います…。」
私はごく自然に差し出された手を取り、車から降り立った。
大きな門の向こう側には、紺色の着物を身に纏った使用人らしき男女がずらりと整列して待機していた。誰もが同じ表情で微動だにせず、私達が門を潜るのを待っている。
彼らの背後には、門の柱に埋め込まれる様にして古びた石碑が静かに立っていた。そこには見た事もない紋様が彫り込まれており、それがこの屋敷を護る結界の一部だと直感で感じ取れた。その厳かな雰囲気に私の背筋はピンと伸びた。
「あの……一葉さん、この人達は私達の到着を待っていてくれたんですか?」
小声で尋ねると、一葉さんは門へと視線を向けた。
「ええ…我々の到着は事前に伝えていましたから。彼等は皆、一葉家に長年仕えている者達です。信頼に足るでしょう。」
一葉さんに手を引かれたまま、その門を潜る。私達が敷地内に足を踏み入れた瞬間、使用人達は一斉に深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、舞久蕗様。」
「ご苦労、只今戻りました。」
その整然とした挨拶に、一葉さんは小さく頷いた。
そして、使用人達の視線は私へと向けられた。
「ようこそおいで下さいました、月姫様。」
今度は私に向けての挨拶だった。『月姫様』という呼ばれ方に私の体がピクリと震える。それは、私が月光家の特別な使命を帯びた存在である事をこの場所の誰もが知っている証でもあった。
「は、初めまして…月光羽闇です。今日はお世話になります…!」
ぎこちなく頭を下げると、一人の年配の女性使用人が一歩前へ進み、優しげな笑みを浮かべた。
「月姫様、ようこそ一葉本家へ。私は女中頭の五月女と申します。使用人一同、心より歓迎致します。」
五月女さんのおかげで少しだけ緊張が和らいだ。一葉さんは使用人達に視線を巡らせると、彼らに向かってはっきりと命じた。
「皆の者。月姫の安全確保を最優先とし、この邸宅の警備を一層厳重に、そして結界の強化も怠る事のないように。決して、外部からの侵入を許すな。」
彼の言葉には、一切の迷いも妥協もなかった。その命令に使用人達は再び「ははっ」と声を揃えて頭を下げた。
「ではそろそろ中へ参りましょうか、羽闇嬢。」
迷う事なくお屋敷の正面玄関へと歩き出した一葉さんに、慌てて後についていく。
屋敷の扉が開くと、静かで広々とした空間が広がっていた。磨き上げられた木の廊下は、何処までも奥へと続いている様に見える。私が足を踏み入れると、その微かな摩擦音だけがやけに響いた。
廊下の左右に等間隔に配置された障子には繊細な意匠が施されており、その向こうから差し込む柔らかな光が幻想的な影を落としている。
微かに漂う白檀の香りは落ち着くだけでなく、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「此方へ。」
一葉さんは迷う事なくその廊下を進んでいく。彼の足音は静かで、私はその後ろであまりの静けさに息を潜める様に歩いた。
月光邸も広くて立派だけれど、ここはまた全然違う雰囲気だ。歴史の重みというか、ずっと昔から此処に存在しているという重厚感が漂っている。
暫く歩くと、一葉さんはある部屋の前に立ち止まった。その部屋は他の障子よりも少しだけ大きく、古めかしい木製の引き戸が嵌め込まれていた。そこに触れた一葉さんの指先が微かに動く。
「此処が私の自室です。あまり物がありませんが、気にしないで下さい。」
音もなく引き戸を開けられると、部屋の全体像が私の目に飛び込んできた。
その部屋は驚く程に整然としていて、それでいて彼の個性が色濃く表れている空間だった。何よりも目を引いたのは、壁一面にずらりと並べられた巨大な本棚。天井まで届く程高く、幅もかなりのものだ。そこには、背表紙の色も厚みも様々な本が隙間なくぎっしりと収められている。文芸作品から専門書、歴史書、哲学書、果ては天文学や物理学といった難解そうな学術書まで…ジャンルも多岐に渡る。
「(本がこんなに沢山!これ全部、一葉さんが読んだ本なんだよね…?本当に本が好きなんだな。)」
思わず呆然と立ち尽くしていると、一葉さんは私の肩に手を置いて部屋の中へと促してくれた。
「さあ、中へ。そこに座布団がありますから、お好きな席へどうぞ。」
彼が指差したのは、部屋の中央に置かれた漆塗りの大きな座卓の周りに並べられたいくつかの座布団だった。
部屋を見渡すと、本棚と座卓以外には余計な家具や装飾品は殆ど見当たらない。正に『無駄を省く』という彼の信条が徹底されている空間だ。
私は促されるまま、真ん中の座布団に座った。ひんやりとした畳の感触が気持ちいい。一葉さんは私の向かい側に静かに座ると、すっと背筋を伸ばした。
「すぐにお茶が用意されますから、それまで楽にしていて下さい。」
「お気遣いありがとう御座います。一葉さんのお部屋、本当に静かで落ち着きますね。それに、この本の量…まるで小さな図書館みたいです!」
本棚を見上げながら感嘆の声を上げると、一葉さんは細い指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「フフッ…本は知識を得る為の大切な道具ですからね。この部屋で過ごす時間が、君にとって少しでも安らぎのひと時となれば僕としても幸いだ。」
一葉さんの視線は、ずらりと並んだ本棚へとゆっくりと移る。そこには彼が大切にしてきた知識の集積が息づいていた。その視線の先でふわりと穏やかな笑みが零れる。彼の表情は、本の香りに満たされた静かな安らぎそのものだった。