第83話【計画外な道行き】
期待に胸を膨らませながらデパートの輝く扉へと足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる冷房のひんやりとした空気が外の熱気を忘れさせた。
頭上には煌びやかなシャンデリアが眩く瞬き、左右には最新のトレンドを纏ったマネキン達がまるで生きているかの様にポーズを決めて並び、華やかなショーウィンドウが延々と連なっている。洋服屋さんや靴屋さん、ジュエリーショップ、コスメフロア……。華やかな雰囲気に、私は只々目を奪われた。
「(わぁ…凄い!デパートってこんなに沢山お店があるんだ!何処から見ようかな…!)」
胸の高鳴りを抑えきれず、私はきょろきょろと周囲を見回した。今までこんな高級そうなデパートに来る機会など滅多になかった為、目に入るもの全てが新鮮で胸が高鳴るのを感じた。これから始まるショッピングデートへの期待で、足取りまで軽くなる様だ。特に目を引いたのは、ガラスケースの中に鎮座する繊細なデザインのネックレスだった。
「ねえねえ、一葉さん!見て下さいよ、あそこのネックレス!凄く綺麗じゃないですか?」
隣に立つ一葉さんの袖を引いて指差すと、彼はちらりと視線を向けた。
「…ほう。確かに、羽闇嬢の好みには合いそうなデザインだ。控えめながらも、確かな存在感を放っている…悪くないですね。」
一葉さんの言葉に私の頬は僅かに緩んだ。恐らく華弦から聞いたのだろうけれど、彼が自分の好みを理解してくれている事に小さな喜びを感じる。
「私、ああいうキラキラしてるのが大好きなんです!もし良かったら、ちょっとだけ見に行ってもいいですか?」
すると一葉さんは一瞬、何かを考える様に目を細めた。そして私の耳元へと近づけてくると、微かに囁いた。
「羽闇嬢。」
「ひゃっ!」
思わず小さく悲鳴を漏らすと同時に肩が跳ねる。吐息が耳元をくすぐり、耳がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
「あの…一葉さん?何だか近いような…」
戸惑いながら一葉さんの方に顔を向けると、彼は涼やかな表情のまま、まっすぐに私を見つめている。
「…少し耳を傾けて頂けますか。重要な事なので。」
そう言うと、一葉さんは更に顔を近づけてくる。言われるがままに耳を傾けると、彼の低い声が鼓膜を震わせた。
「……お楽しみのところすみませんが、羽闇嬢。このデパートはすぐに通り抜けて、別の出口から外に出ます。」
その意味が理解出来ず、私はきょとんと目を瞬かせた。デパートでショッピングを楽しむ筈だった為、頭の中が真っ白になる。
「えっ…?あの…一葉さん、どうしてですか?だってさっき、デパートでショッピングするって言ってませんでしたっけ?私、あのネックレスとか見てみたかったんですけど…。」
まさかの展開に混乱してしまい、何が本当で何が嘘なのか分からなくなった。期待に膨らんでいた気持ちは一気にしぼんでしまう。
「今はそれに構っている暇はありません。あまり目立たぬよう、迅速に移動しましょう。詳細は後程、安全な場所でお話致しますので今はどうか私に任せて頂けませんか?」
「…わ、分かりました。」
一葉さんの表情は真剣そのもので、とても冗談を言っている様には見えなかった。その強い眼差しに、私はコクリと頷いた。
私の手をしっかりと握り直した一葉さんは、迷う事なくデパートの奥にある別の出入り口へと歩き出した。
「(何かあったのかな…?もしかして、また誰かに狙われてるとか!?それとも単に騙されてる?)」
手を引かれながら、私はデパートの煌びやかなフロアを早足で通り抜けていく。ショーウィンドウに並ぶ美しい商品も楽しげな人々の声も、もう目には入らなかった。
出入り口から外に出ると、私達は再び駅前の人混みの中に足を踏み入れた。喧騒は変わらず、人々の波が押し寄せてくる。私は繋がれた手を握り返し、意を決して一葉さんに尋ねた。
「あの、一葉さん。もしかして図書館に行くんですか?」
私の問いに、一葉さんはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、図書館には行きませんよ。」
「…は?」
その言葉に私の混乱は頂点に達した。
「(……えええっ!?図書館にも行かないなんて…!全部嘘って事!?車で話してた事と全然違うじゃない!デパートも図書館も行かないというのなら、何処へ向かってるっていうのよ…!?)」
先程、彼が楽しげに話していたデートプランは一体何だったのだろうか。
私の心臓は不安と困惑で激しく脈打ち、手のひらにはじんわりと汗が滲んだ。何が目的なのか、何処へ連れて行かれるのか全く分からない。
彼がここまで秘密主義だとは予想していなかった。
「(どうしよう、本当に怖くなってきた…!でも華弦は一葉さんを信頼してるみたいだし、一葉さんも『怪しいところには連れて行かない』って言ってたから…きっと大丈夫だよね?)」
周囲の人混みを気にする様子もなく、一葉さんは落ち着いた足取りで私の前を歩いている。
数分程歩いたところで一葉さんの足が不意に止まった。私達の目の前には一際目を引く光沢のある黒い高級車が停まっていた。それは威圧感すら感じさせる程の存在感を放っている。私が知る限り、これは月光邸の車ではない。
「……アレですね。」
意味深な言葉を呟くと一葉さんは私の手を繋いだまま、その車へと迷う事なく向かっていく。
車の前まで来ると、一葉は慣れた手つきで後部座席のドアを開けた。中からは、真新しい革の匂いが微かに漂ってくる。
「さあ、羽闇嬢。早く乗って下さい…あまり時間がありません。」
「え…?待って下さい、急にそんな事言われても…!それに予定と全然違うじゃないですか!一体何を企んでるんですか、一葉さん!?」
私は思わず、混乱した声で再び問い掛けた。突然現れた見慣れない高級車。そして、一切の説明もなく乗り込むよう促す一葉さんに私の頭の中は、益々混乱するばかりだ。
「騒がないで…説明は後程と言ったでしょう。今はまず君の安全を確保する事が最優先だ。悪いようには決してなりませんので、どうか私の言葉を信じて頂けませんか?」
有無を言わせぬ響きがありながらも、一葉さんの言葉には私の不安を慮る様な優しい響きが混じっており、私は何も言えないまま車に乗り込んだのだった。